2024年1月28日日曜日

人に勧める

 「映画を観るのが趣味です」と答えると、「何がお勧めですか?」と聞かれることがある。「最近、何観ましたか?」という質問であればまだいいのだが、この質問をされると答えに窮する。あるいは「これまで観た映画の中で一番良かったのはなんですか?」という質問も同様である。答えに窮する理由は二つあって、一つはその場ですぐに答えられないというのがある。お勧めと言っても相手に合わせたものである必要がある。女性に激しいアクション映画を勧めてもピントがズレるかもしれない。また、「これまで観た映画の中で一番良かったのはなんですか?」など自分でもいろいろあって選びきれ他ものではない。

 今一つは、「自分の好みを勧めることへの抵抗」だろうか。自分なりの好みを伝えるのは構わないのだが、それが相手の心にヒットすればまだしも、ヒットしなかった場合の落胆感が嫌だということもある。そういう私もよく人にお勧めを聞くのであるが、そのお勧めが私自身の心に響かないということもよくある。一生懸命情熱的に語って勧めてくれるのはいいのであるが、観た結果それほどでもなかったというのがよくあるからである。それは読書でもまた然り。感動的な感想を聞かされて、いざ自分で読んでみたが、それほどでもなかったりすると、自分の感性がおかしいのかなと思ってしまったりする。

 しかし、よくよく考えてみると、一本の映画が心に残ったり、一冊の本が感動をもたらしたりするのは、「絶対価値」ではなくて「相対価値」によるものだとすると合点が行く。「絶対価値」とは、その作品自体が持つ誰が観ても感動を催すもの。「相対価値」とは、その作品自体に加え、その人にとっての感動要素を有するものである。過去に互いに相思相愛になったが、事情があって一緒になれなかったなどという経験があれば、似たようなストーリーの映画はその思い出を刺激し、余計に心に響くかもしれない。あるいは主人公が過去に戻ってやり直すというストーリーでも、自分自身の思いを重ねて共感するかもしれない。

 「相対価値」はその人自身の過去の経験や考え方に影響されるので、普通の人には目に留まらないような映画が、その人の心にはヒットするということもありうる。あるいはその時代の雰囲気、その時の状況がサイドストーリーとなって影響するかもしれない。かつて私はプロレスが好きでよく観ていたが、生涯で一番のベストバウトは何かと問われたなら、迷いなく新日本プロレスの1995109日の武藤敬司対高田延彦戦を挙げるだろう。この試合は録画してあり何度も観たのであるが、ではこの試合だけを観て「ベストバウト」だと思うかと言えば、それはわからない。試合はもちろん面白いが、それだけではないのである。

 その試合は打撃と関節技を主とする「格闘技系」のUWF勢力と従来のプロレスとが激突するという流れがあり、「果たしてどちらが強いのか」という興味が最大限に上昇していたタイミングで行われたのである。武藤と高田の試合はメインイベントであり、その勝敗が両団体の勝敗を決めると言っても過言ではない。打撃と関節技の凄みを全面に出したUWFが勝ってしまうのかという不安の中、最後は足4の字固めという古典的なプロレス技で決着がつくという誰も想像しない結果に終わったのである。演出としてはこれ以上にないストーリーだろう。そういう試合以外の要素も加わっているのである。

 映画も読書もスポーツもそのものだけの「絶対価値」もさることながら、周辺の事情や個人の経験などが「相対価値」として加わった場合、その作品が持つ絶対価値をさらに特定の人に向けた価値を創出するということになる。だから、人にお勧めを聞いても、それはその人にとっての相対価値であることを意識しておかないと、後でガッカリすることになる。もっとも、それをわかった上で敢えて人にお勧めを聞くということにも価値はある。それはその人にとっての相対価値が、自分にとってもジャストフィットすることもあるからである。

 かつて若い頃、取引先の親しくしていた方にお勧めの一冊を聞いたところ、藤沢周平の『蝉しぐれ』をご紹介いただいた。当時、私は時代劇にはまったく興味はなかったが、それでもと思って読んでみたら、これが私にもジャストフィットした。以来、藤沢周平は私のお気に入りの作家の1人である。自分の枠を広げるという意味でも人にお勧めを聞く意味はある。そう思って、私もダメもとで人に聞かれたら、お勧めを答えることにしようと思うのである・・・

Gábor AdonyiによるPixabayからの画像


【今週の読書】

格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか - オデッド・ガロー, 柴田 裕之, 森内 薫  なれのはて - 加藤シゲアキ








2024年1月27日土曜日

論語雑感 述而篇第七(その27)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰蓋有不知而作之者我無是也多聞擇其善者而從之多見而識之知之次也

【読み下し】

いはく、けだらん、、しこれものわれこれし。おほきて、ものえらこれしたがふ。おほこれしるすは、これつぎ

【訳】

先師がいわれた。

「無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、私は絶対にそんなことはしない。私はなるべく多くの人の考えを聞いて取捨選択し、なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、判断の材料にするようにつとめている。むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。しかし、それが真知にいたる途なのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 現在の職場ではいろいろな情報が入ってくる。特に気を付けているのはネガティブ情報である。何か対処しなければならない事があるかもしれないからである。某氏はかなり批判系の意見を述べてくる。ベテランだけあって、その意見はいつももっともであり、なるべく耳を傾けるようにしている。しかし、一方でその批判を聞きながら、「それではそれを相手に伝えて改善すればいいではないか」と思っているが、某氏は言うだけでそこまではしない。要は「評論家」なのである。そうすると問題を放置するわけにもいかず、聞いた以上は、と私が動く事になる。


 ところが実際にヒアリングしてみると、そこには違う事情が表れる。傍からは見えていない事情があって、その事情を勘案すると、批判されていた行動にはきちんとした理由が見えてくる。「その状況下であれば」、その行動ももっともであるという事がわかってくるのである。相手の行動を批判する時は、単に自分から見えている面だけで判断するのではなく、「自分から見えていない面」もあるかもしれないと考えないといけない。評論家某氏の意見はいつもそんな批判が多い。


 以前にも述べた思考実験であるが、AがBを刃物で刺すという事件が起こったとする。当然、Aは傷害罪で逮捕され罰せられる。しかし、実はそもそも刃物を持って襲い掛かったのがBで、Aはその刃物を奪ってもみ合ううちにBを刺してしまったとなると、正当防衛で無罪という事もありうる。事情がわかると印象はがらりと変わる。さらになぜBは刃物を持ってAに襲い掛かったのかと調べたら、実はAは詐欺師でありBはその被害に遭って全財産を失い一家離散となって絶望のあまり犯行に及んだ、となるとまた印象は変わる。


 物事は一面だけを見て判断するわけにはいかない。自分から見えている面だけで判断すると間違える可能性がある。間違えないためには、見えていない部分を見る努力が必要である。私も某氏の意見を聞くと、まずは本人に事情を聞く。「なぜそういう行動を取ったのか」、「どういう状況で」、「なぜそれが最適と判断したのか」、その上で自分としてその行動をどう考えるか。両面から見ればだいたい適切な判断ができる。逆に言えば、一方の意見だけでは動かない。


 当たり前であるが、両面から見る意識は大事である。その応用もある。自分とは違う意見の人と議論する場合である。自分の意見を否定されれば心中穏やかではないが、相手の意見を一旦冷静に受け止めて相手の視点から見てみる必要がある。もしかしたらもっともかもしれないし、自分には見えていない問題点があるかもしれない。相手の立場に立って相手の意見を考えてみる事が反論する場合には役に立つ。相手がなぜ自分と意見が違うのか、原因がわかれば対処もわかる。


 会社で人と議論する時には特に意識している。まずは相手の意見を聞く。その上で相手の考えをあれこれと考えてみる。そうするとそこに問題点が浮かび上がってくるかもしれない。その上で自分の意見と照らし合わせ、判断する。自分の意見の方が正しいと思えば、その理由と相手の意見の問題点を説明すれば、自分の意見が通る。相手に質問をし、問題点を考えさせ、必然的に自分の意見に導くソクラテスの産婆術が使えれば尚良いかもしれない。


 某氏は自信満々で批判を繰り返す。確かに某氏の「視点」ではそれは正しい意見なのかもしれない。しかし、物事には必ず裏表がある。ウクライナとロシアの戦争もウクライナから見れば正しい行動であり、ロシアから見ればそれもまた正しい行動である。イスラエルとパレスチナについても然り。しかし、「相手の視点」を意識することができれば自分の意見とは異なる別の解決策に辿りつけるかもしれない。相手だけではなく、広く他の意見を聞けばさらに正しい道へと辿りつけるのではないかと思う。


 自分も己の意見に固執する前に、広く他人の意見を聞くスタンスを持っていたいと思うのである・・・



Deniz AvsarによるPixabayからの画像

【本日の読書】

格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか - オデッド・ガロー, 柴田 裕之, 森内 薫  なれのはて - 加藤シゲアキ







2024年1月21日日曜日

採用の現場にて

 仕事では本職の財務の他に人事も兼務している。人事の仕事の柱の一つは「採用」である。採用には新卒採用と中途採用があるが、どちらも大事である。新卒採用は、学校ルートが中心。専門学校と大学とであるが、知名度の低い中小企業の悲しさで、首都圏での採用はなかなか難しい。もう少し大学生を採用したいと考えているが、偏差値の高い大学の学生には相手にしてもらえない。かと言って偏差値にこだわらなくても難しい。学生からすれば、なるべく大手の企業に就職したいと考えるであろうから、やむを得ないと言えばやむを得ない。

 大学には就職課というものがあって、学生の就職相談に乗っている。企業から情報を集め、学生向けに会社説明会を開催したり、企業と推薦制度を交渉したり。専門学校も大学も「就職率」がやはり生徒募集の大きな強みになる。ランクの高い大学はふんぞり返っていられるが、そうでない大学や専門学校はかなり力を入れている。地方では特にその傾向が強く、我々のような中小企業でも歓待していただける。学校推薦がつけば生徒は内定が出たら承諾しなければならないという縛りがつくが、確実に内定はもらえる。企業も確実に採用できるのであればWin-Winである。

 面接をして内定を出しても、辞退となると企業も採用計画が狂ってしまう。学生もいくつか内定をもらってもギリギリまでどこにするか決めずに、最後に決めるという人もいる。辞退された企業は大変である。我々も首都圏の大学の学生を採用したいと思うが、狙うのは夏休み前である。それ以前の「第一波」では学生の関心は大手に向かう。そこで決まらなかった学生が「第二波」としてレベルを落として次の企業群へと向かってくる。「夏休み前に決めたい」という学生を狙うのである。当然、「第一波」で選考から漏れた学生となるので、それなりの学生が多くなるが、中には「掘り出し物」もいるからこちらも全力投球である。

 我が身を振り返ってみると、超売手市場の環境下、ふんぞり返っていられる大学出身だったから大学の就職課なぞあるのも知らなかったくらいである。学生は意外と就職課を利用し、就職課の人も意外と骨を折っているのだと、今になって初めて知った次第。理系の大学になると、就職課よりは教授のルートが大事だったりして、教授に連絡を取ると学生を推薦してもらえたりする。その場合は、こちらが内定を出せばまず確実に採用できる。専門学校生と比べると、大学生は「余白」が多いと感じる。専門学校の学生はみっちり知識を得てくるが、「余白」の部分が少なく、大学生もそれなりに4年間の重みはある。両方バランス良く採用したいところである。

 中途は人材紹介会社が中心となるが、人材紹介会社も商売であり、採用実績の高い比較的大手の企業に優先的に紹介が行くようで、我々のような中小企業はここでも苦戦する。紹介してもらっても、採用できるかはまた別問題。悩ましいのは転職回数だろうか。昔から転職が多いと不利になると言われているが、採用する立場からするとその通りである。なぜ、頻繁に転職するのか。最近も現職に就いて半年しか経っていない人が応募してきたが、転職理由が気になる。もしかしたら問題社員なのかもしれない。採用した途端、社内に問題を抱えたくはない。

 アメリカは転職社会だとよく聞く。簡単に首になるし、ステップアップのためにどんどん転職すると言う。そういう社会なら問題はないが、簡単に首にならない我が国では、自分から辞めるのは、我慢が足りないとか、周りと協調してやれないとか、気に食わないことがあるとすぐ辞めるような人物なのかと勘繰ってしまう。採用すれば社会保険の手続きなど煩雑な事務もあるし、紹介料などのコストもかかる。面接の受け答えなどいくらでも誤魔化せるし、良い材料は見つけにくい。やはり転職回数の多さはマイナスでしかない。

 その点、新卒採用はやはり楽しいものである。みんな春からの就職に対して期待と不安とを抱えており、入社してからだんだん逞しくなっていく様子を見られる楽しさがある。中途採用でも溶け込んで楽しそうに働いている姿も当然嬉しく思う。会社が大きくなっていくためには採用は絶対に必要であり、大事な仕事であると認識している。今は、内定を出した学生から春の入社に向けての問い合わせが多く来たりしている。41日に彼らと会うのが楽しみである。私もこの会社は3社目であるが、人事の仕事も楽しみながら、ここを安住の地としたいと思うのである・・・

TumisuによるPixabayからの画像

【本日の読書】

哲学がわかる 哲学の方法 - ティモシー・ウィリアムソン, 廣瀬 覚 勉強が一番、簡単でした――読んだら誰でも勉強したくなる奇跡の物語 - チャン・スンス, 吉川 南







2024年1月18日木曜日

映画『ほんとうのピノッキオ』に見る人の成長

 この正月、『ほんとうのピノッキオ』という映画を観た。基本的に原作にかなり忠実なストーリーらしい。と言っても、大筋は子供の頃から慣れ親しんでいるピノッキオの物語と大きくは違わない。貧しい木工職人のジェペット爺さんが作った木の人形が命を宿し、様々な経験を積んでやがて人間になるというものである。映画自体は実写版として楽しく観ることができたが、ピノッキオの行動にこれまでとは違うものを感じた。それは、「改心」と言うより「成長」と言うピノッキオの姿にである。

 ジェペット爺さんは、自分が作った人形が生命を得たのに驚き、そして喜ぶ。貧しいゆえに自分の着ていたコートを売ってピノッキオのために教科書を買い、ピノッキオを学校へ入れる。ところが、ピノッキオは学校へ行く途中に見かけた人形劇が気になり、学校を抜け出して人形劇を見に行ってしまう。一般常識からすればとんでもない悪童だが、しかしピノッキオは生まれたばかりである。暖炉に足を向けて燃やしてしまうほど無知である。人はみな物事の善悪は「経験」によって学ぶものである事を考えると、より好奇心を刺激される方に動いたピノッキオの反応は普通であると言える。

 さらに人形劇団から解放されたピノッキオは、親方にもらった金貨5枚を握りしめて家に帰る途中、キツネとネコに出会う。そこで金貨5枚を持っていると言ったものだから、たちまちカモられる。金貨を増やそうと持ちかけられ、埋めれば金貨のなる木が生えるからとそそのかされてその話を信じる。もちろん、金貨は後で持って行かれてしまうのだが、人を疑う事もまた学習で身につくものであり、経験のないピノッキオが簡単に騙されてしまうのも当然である。疑う事を知らない小さな子供を騙すのは簡単であるのと同じである。現代ではお年寄りも簡単に騙されるし、いい歳をした我が弟もだまされた

 さらに、ようやく真面目に学校へ通い勉強するようになったピノッキオだが、今度は友達に誘われて一緒におもちゃで1日遊べる所へ行ってしまう。この時点ではそれまでの学びから躊躇するようになっているが、結局誘いに乗ってしまう。このあたりは普通の大人でもあり得ることである。正しい道を選ぶのは大人でも難しい。しかし、その成長は確実であり、くじら(映画では怪獣のようだった)のお腹の中でジェペット爺さんと再会したピノッキオは、知恵と勇気を使いジェペット爺さんを助けて脱出する。こうした精神的な成長が認められて、晴れて最後は人間の子供になれるのである。

 何となく「親の言う事を聞かない悪い子は酷い目に遭い、言う事を聞く良い子にはご褒美がある」といった単純な話のように思っていたが、実はそうではなかったのである(今さら気づいたのかもしれない)。子供用のお話であり、子供がいい子になるようにという教育的配慮がなされているとしても、人は誰でも白紙の状態からスタートするという事を、実は描いている。初めはこおろぎの警告を聞かない悪い子なのではなく、経験がないので判断基準となる正しい道がわからないのである。

 人は誰でも親に叱られていつの間にやら「正しい道」を覚えていく。学校には行かなければいけないし、先生の話はきちんと聞かないといけない。そして何よりも、途中で黙って学校を出てはいけないと学ぶ。そうしたことを教えられなければ、誰もがピノッキオと同じ行動を取るに違いない。人間には高度に発達した脳があるから、動物にはできない高度な学習をすることができる。学校に行くのもその一つ。そして経験からさまざまな事を学ぶ。そこには人間の悪意もある。

 騙されて悔しい思いをした人は、自分も誰かを騙してやろうと思うかもしれない。しかし、モラルが高い社会であれば、それは社会的な制裁を受けるから、それが自制に繋がる。そうでない社会は、「騙した者勝ち」の社会になってしまう。幸い我が国は前者である。そして騙された経験は学習として残り、(同じパターンで)二度と騙される事はなくなる。キツネとネコに再び遭遇したピノッキオも、今度はその甘言に耳を貸さずにその場を立ち去る。学習経験のあるなしではかくも大きな違いとなる。

 親は(白紙の心の)子供にあれこれと価値観を植え付けて育てる。子供はその価値観の中で育つ(あるいはその価値観に反発してかもしれない)。少し大きくなれば、他の大人や先生やあるいは童話などからも影響を受けるだろう。このピノッキオの物語も、子供は「言う事を聞かないピノッキオが酷い目に遭う」という風なメッセージで受け取るかもしれない(私もそうだったように思う)。そして「良い子にしていれば最後にいい結果が待っている」と。大人としては、正しいメッセージを子供に伝える義務があるのである。

 さらに物語の舞台となっているイタリアの田舎の町は貧しい町である。ピノッキオを騙したキツネとネコも食べていくのにカツカツで、人を騙して何とか食い扶持を確保していたと見ることもできる。貧しくとも悪の道に走らずに踏みとどまる人もいることを考えると、弱い存在なのかもしれない。嘘をつくと鼻が伸びるというのも、子供達には良い教育なのかもしれない。だが、大きくなるにつれて「嘘をついてはいけない」というメッセージも雲散霧消してしまう。童話の効果も結局、素直な子供時代限定なのかもしれない。

 できれば我が家の子供たちがまだ小さかった頃に一緒に観たかった映画である。良く知ったストーリーだったからかもしれないが、映画を観ながら余計なことをあれこれと考えてしまった。たまにはこういう映画鑑賞もいいかもしれないと思うのである・・・



【本日の読書】
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2024年1月15日月曜日

働く目的

 人は何のために働くのか。その理由は人それぞれだが、共通しているのは「生きるため」。すなわち、「お金を稼ぐため」である。動物は餌を獲る。肉食動物は獲物を狩るが、食べて満足すればあとは自由気ままに過ごす。人間もまずは食べることが生存に絶対必要な条件であり、食べられなければ必死になるが、満腹になれば満足して自由気ままに過ごす(あるいは次の食糧確保の準備をするかもしれない)。次の食べ物の心配がなくなれば、動物も人間も自由気ままに過ごす。つまり「余暇(レジャー)」である。生きる目的は食べるためか、余暇を楽しく過ごすためか、は人によるのかもしれない。

 人間は社会を築き、貨幣制度を構築し、今は働いてお金を稼ぐ事がすなわち生きる事である。必要なお金を稼ぐためには必死に働くし、ある程度余裕ができればその関心は「余暇」に向かう。世の中にはその日暮らしの人もいれば、ダブルワークを必死でこなすシングルマザーの人もいるが、たいていの人はそこそこ余裕を持ち、「余暇」に関心を移すのだろう。あるいは「余暇」のために必要最低限だけ働くという人もいるだろう。生きる目的が「生存」という社会は発展度が低く、「余暇」という社会ほど発展したゆとりある社会だとも言える。

 我々の国は発展したゆとりある社会であり、働く目的も「生きる」という本質に近いところではなく、「余暇」に比重を移している。かく言う私も、住宅ローンはまだまだ残っており(居住確保)、まだまだ子供の養育・教育が必要であり(生存)、家族を含めて生活を維持しなければならないのはもちろんであるが、余暇に比重を乗せるゆとりもある。そうなると、ただ働くのではなく、より楽しく働きたいと思うようになっている。働くことと余暇が一致している人は幸せだろうと思う。

 仕事も余暇にできればいいが、そうでなくてもより効率的に、つまり「より多く」稼げれば、それは余暇の拡大へと繋がる。生きるためとは言え、「辛い仕事」より「楽しい仕事」がいいに決まっている。では「楽しい仕事」に就くにはどうしたらいいのだろうか。私の場合は、楽しい仕事に就くより就いた仕事を楽しむ方が自分に向いていると思う。そして現在はそれがうまくいっている。今の仕事はとても楽しい。

 楽しい理由は簡単で、自分で思う通りに仕事がコントロールできるからである。これが言われた事をやるだけとなると、楽しみはぐっと減るだろう。それはそうだが、誰もが初めからそうできるわけではない。初めは言われたことをこなすことからスタートする。そこからどう抜け出せるかはやり方次第である。少なくとも言われた事だけをこなしているだけだと、いつまでもその状態を脱する事はできないかもしれない。

 今の会社に猛烈な指示待ち族のベテラン社員がいる。頼んだ仕事はきちんとやってくれるが、頼まれない仕事は見事にしない。たとえ時間が空いていても、である。私であれば、手が空けば何かできることはないかと見まわし、できそうであれば「やってもいいか」と許可をもらい自分の仕事にしてしまう。やろうと思えば我が総務部にはいくらでも仕事はある。長年未整理の棚の整理だってできる。だが、言わなければ決して自分からはやらない。そういう人には、こちらも徹底して指示すればいいのであるが、ただ残念だなと思う。

 言われた事だけやっていれば楽でいいと思う。よけいな事をすれば手間もかかるし、同じお金をもらうなら仕事は少ない方がいいだろう。ただ、指示する側としては、そういう人に重要な仕事を任せたいとは思わない。私もその人にお願いするのは基本的に「作業」である。責任のある仕事を任せることはない。年齢的にも「もういいや」と思っているのかもしれないが、私なら単なる作業員ではつまらなくて仕方がないと思う。

 現代社会はゆとりある社会。仕事も生存のためだけに必死にこなすものではなく、レジャー化しようと思えばできる。どうせ働くなら(働かざるを得ないなら)、生存のためではなく、余暇のために働きたいし、余暇も兼ねて働きたいと思う。自ら仕事を探し(増やし)、いつの間にかその職場では「なくてはならない人」になれば、いつまでもいてほしいと思われるだろうし、もっと重要な仕事をやって欲しいとなるだろうし、いつしか指示する側にまわり、自分の仕事をコントロールできようになるだろう。会社を動かせるようになればさらに仕事は面白くなる。

 何のために働くのか。生活のためでもあるがむしろ働くことがレジャーである。問われれば今はそう答えたいと思うのである・・・

นิธิ วีระสันติによるPixabayからの画像



【今週の読書】
  勉強が一番、簡単でした――読んだら誰でも勉強したくなる奇跡の物語 - チャン・スンス, 吉川 南  哲学がわかる 哲学の方法 - ティモシー・ウィリアムソン, 廣瀬 覚






2024年1月11日木曜日

論語雑感 述而篇第七(その26)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子釣而不綱弋不射宿

【読み下し】

はへなはいぐるみ宿いこふ

【訳】

先師は釣りはされたが、綱(はえなわ)はつかわれなかった。また矢ぐるみで鳥をとられることはあったが、ねぐらの鳥を射たれることはなかった。

『論語』全文・現代語訳

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 「釣りはしたが、網は使わなかった」とは、1匹1匹を釣るがまとめて網で捕るという事をしなかったということだろうか。また、「ねぐらの鳥を射たれることはなかった」とは、鳥を矢で射る事はしても、巣にいるところは狙わなかったという事なのだろう。前者は、「食べるのに必要なだけを捕った」ということで、後者は「卑怯な振る舞まいをしなかった」あるいは「安易な方法を取らなかった」ということなのだろうかと考えてみる。単なる現代語訳で2,500年前の時代も言語も違う古典の真意を探るのは難しいと感じているが、この言葉もまた然りである。


 釣りに関して、「必要なだけを捕る」という事であれば、実に共感するところである。私も一時釣りにハマっていた父に連れられて海釣りをした事がある。しかし、自分がそれにハマるという事はなかった。子供の頃、近所に釣り堀があって、友達に誘われて行った事があるが、それもまたしかり。やりたいとも思わず、結局見ているだけであった。なぜに釣りに興味を持てなかったのか、考えてみるとたぶん「無駄な殺生」が嫌だったんだろうと思う。


 社会人になって間もなくの事、新人歓迎会という事で、八王子の山奥に釣り&バーベキューイベントに連れて行かれたことがある。そこでマス釣りを楽しんだのであるが、私は歓迎される新人であるにもかかわらず、釣り竿を持つことはしなかった。それは何となく「無駄な殺生」が嫌だという感覚が働いたものである。釣った魚はその場で焼いてみんなで食べたが、終わってみれば食べられることもなく捨てられた魚が山と残っていた。今でもそれを思い出すと心が痛むのである。みんな食べる事を考えず、釣り上げることだけを楽しんだのである。


 鳥に関しては、巣にいる鳥は射やすいのだろうが、親鳥を射れば小鳥が生きていけなくなるという意味もあるのかもしれない。いずれにせよ、孔子は「必要なだけ」捕るという考えだったのだろうと推察される。当時は趣味で釣りや狩猟をしていたのではなく、自分が生きていくための糧を得るためだっただろうと思う。それゆえに、自分が生きていくのに「必要なだけ」捕るという考えを述べた言葉ではないかと思う


 翻って現代では、生きていくために漁(猟)をする人たちもいるが、大半の人はそうではない。今や釣りはレジャーである(さすがに狩猟はそうはいかない)。町に出れば釣具屋のチェーンもあるくらいフィッシングはレジャー化している。私の新人歓迎会もそうであった。子供が小さい頃、マス攫みをやれるところに遊びに行った事がある。小さな囲いでマスを追い回して素手で捕まえるのである。子供にはちょうどいいレジャーだった。そのあと、それを焼いて食べるのであるが、1匹だけだったので子供が食べて終わりである。私の心が痛むこともなかった。


 釣り好きな人を責めるつもりはない。自分で獲ってさばいて食べるのが好きという人もいるし、釣る行為だけを楽しむ「キャッチアンドリリース」なんてのもある。ただ、個人的には「趣味で」殺生をしたいとは思わないので、これまでのように、またこれからも私が趣味で釣りをすることはないだろう。かと言ってベジタリアン、ビーガンを気取るつもりもないので、食べることを否定するものではない。必要なだけ、買って食べるだけである。


 我が国は食べ物がたくさん捨てられる国である。個人的に何とかできるものではないが、せめてせっかくの命をいただくのだから、「必要なだけ」は心掛けておきたいものである。それは孔子の精神と通じるものではないかとも思う。そういう心掛けは大事にしたいと思うのである・・・



Khalid MehmoodによるPixabayからの画像

【本日の読書】

シンクロニシティ 科学と非科学の間に――画期的な科学の歴史書。 - ポール・ハルパーン(Paul Halpern), 権田敦司 勉強が一番、簡単でした――読んだら誰でも勉強したくなる奇跡の物語 - チャン・スンス, 吉川 南





2024年1月8日月曜日

格差社会は悪なのか

 近年、日本経済の低迷に伴って、「格差社会」という言葉が使われている。確かに、人は本来「平等」であるべきであり、格差はよくないと思う。そういうイメージから「格差社会」は問題であり、解消すべきものだと何となく思う。されど、なぜそんな「格差社会」になるのだろうかと考えてみる。近年、日本経済が低迷し、企業は業績を維持するために社員の給料を抑え、下請けに対する価格を抑制したり、海外へ生産拠点を移動したりしてきた。その結果、正社員になれない非正規社員が増加し、所得に階層が生まれている。

 かつては一億総中流と言われたが、今や中間層が減少し、上か下かという感じになってきているのだろう。下になってしまうと、なかなか上へ行くのは困難であろう事は想像に難くない。では、そうした「格差」は本当に問題なのだろうかと思う。世のお母さん方は、子供に勉強させ、いい学校に入れ、いい会社に就職させようとする。それが良いか悪いかは別として、そこそこの会社に入れればまずまずの収入を得られる。「下」の定義が年収で言えばどのくらいなのかはわからないが、それほど生活苦にはならない程度には稼げるだろう。

 「下」の定義としては、一つは契約社員という人たちがいるだろう。雇用は不安定だし、収入も少ない非正規社員は、確かに大変だろうと思う。政府も政策的に契約社員に代表される非正規雇用の人たちを正規雇用に切り替えた会社を優遇したりしている。では、どういう人たちがそういう非正規雇用に甘んじているのだろうか。身の回りにそういう人がいないから何とも言えないが、少なくともそれなりに学校を出て就職した人たちではないわけである。そういう「ルートから外れた人たち」であろうと想像される。

 では、それはどういう人たちか。勉強を嫌って大学へ行かなかったとか。大学へ行かなくても、高校や専門学校を卒業して就職した人たちは違うだろうから、就職すらまともにせず、アルバイトのままとか、ニートとか。さらに就職しても辞めてしまって、きちんとして転職もしなかったという人たちがそうかもしれない。女性はまだまだ不利だから、一旦退職してしまったシングルマザーなんかはそうかもしれない。いろいろと人によって事情はあると思うが、一つ言えるのは、みんなその人の「選択の結果」なのではないかという事である。

 我が国では、今のところ生まれによって差別されるという事はない。中には虐待などでまともに育ててもらえなかった子供もいるかもしれないが、それがすべてではないだろう。我が国では、本人が努力すればそれなりの地位を確保できる環境にはあるのではないかという気がする。つまり、格差というのは「努力の差」、「選択の結果」なのではないかと思うのである。それなりに真剣に仕事に取り組めば、何らかの成果は上がるだろうし、アルバイトでも働き方いかんで正社員に引き上げてもらえる事もあるだろう。我が国では人種差別もないし、努力次第でいくらでも安定は手に入れられるように思う。

 我が社でも、なるべく自分の仕事は少なくしようとしているとしか思えない指示待ち族のおじさんがいる。一方、ある若手の女性社員は細やかな気遣いで、頼んだ仕事にプラスαの結果を出してくれている。2人の仕事に対するスタンスは対照的で、おじさんは定年退職して65歳までの契約社員になったが、この春2人の給料は逆転する。おじさんもかつては役員経験者であるが、その仕事ぶりから一期でお役御免となり、契約社員に格下げとなっている。これも本人の努力(が足りなかった)の結果であり、そういう働き方を「選択した結果」であると思う。

 大学へ進学するのも、普通に就職するのも、そしてそのままきちんと働き続けるのも、多かれ少なかれ本人の努力の結果であり、選択の結果と言える。中には勤めていた会社が倒産してしまったというケースもあるかもしれないが、それなりの成果が残せている人であればそれなりの転職もできるだろう。ある程度の収入格差は仕方がないが、問題となるような格差が本当にあるのかは疑問に思う。努力あるいは選択の結果としての格差は問題視すべき格差ではない。むしろ、そういう努力と選択の結果に「格差」がつくのは当然とも言える。

 格差社会を問題視するのは構わないが、本当に努力していて、それでも不可抗力でついてしまう格差を問題視すべきではないかと思う。資本主義は競争社会である。人を押し退ける競争がいいとは思わないが、指示待ち族が脱落するのはやむを得まい。選択を間違えての脱落も仕方あるまい。昔は指示待ち族でも通用したが今はもう通用しない。そういう時代としての格差社会なら仕方あるまい。格差社会を問題視する前に、どういう人たちが底辺に落ちてしまっているのか。本当に問題のある格差なのだろうかと思うのである・・・


MariaによるPixabayからの画像







2024年1月3日水曜日

2024新春雑感

 新しい年が始まった。年末年始は7連休なのであるが、例によって7日間は矢の如く過ぎていく。今年は長男が大学受験ということもあり、妻も帰省せずに家にこもった7日間。私はと言えば、年末2日間と年始2日間を実家で過ごす。大掃除らしきことを手伝ったり、年始の用意を手伝ったり。かつてのように実家に帰れば上げ膳据え膳というわけにはいかなくなった。両親も齢86となり、体も思うように動かせなくなり、家の中も乱雑になりがちである。同居できたら良かったと思うが、そこは不肖の息子の及ばぬところである。

 新しい年は、私にとっては還暦となる節目の年。還暦と言っても、長生きの時代、かつてほどありがいものでもないが、それでもなんとか暮らしていけるのは感謝である。これから悠々自適というのであればよいが、まだまだスピードダウンするわけにはいかない。住宅ローンはまだ10年残っているし、弟のために新たに作った借金もある。トラック競技で言えば第4コーナーを曲がったところだろうか、ゴールまでラストスパートが残っている。その後、ウィニングランができるかどうかがこれからにかかっている。

 元旦は1人、近所の氏神様に初詣に行く。毎年の恒例行事である。神様の前で首を垂れるのも下手をすると年に一回であるが、それでも1年の初めの挨拶として欠かせないと考えている。思えば日本の神道は実に素晴らしいと思う。教義などないから、信徒に義務を果たすこともない。八百万の神々は、自分だけを信仰せよと強制することもない。「キリスト教徒でなければ人にあらず」と信仰を強制した血塗られた歴史もなく、「聖戦(ジハード)」の名のもとに殺人を正当化することもない。だからこそ安心して首を垂れることができるのである。

 妻と子供たちはのんびりと寝坊を楽しみ、お雑煮を食べてから、夕方おっとりと初詣に出かけて行った。私のように「元旦の最初の行事として参拝する」という考え方とは違う。それはそれで悪くはないが、こういう時、自分はどこまで家族に自分の考えを伝えるべきかとよく考える。家長として号令をかけ、強制的に起こして参拝するのか、家族に従って自分の考えを曲げるのか。「父の教え」を伝えるには前者だし、みんなの考えを尊重するなら後者である。多くの人が「親の教え」を後から振り返ったりする。嫌がられても押し通すべきなのか、嫌がられずに自分の考えを伝えることなく終わらせるのか、なかなか判断は難しい。

 毎年、1年間の目標となるキーワードを決めているが、今年は「もう一段高く」にしようと思う。まだまだペースダウンはできないが、一気に駆け上がるのも体力的に厳しいものがある。無理せず着実にステップアップしていけば、やがては眺めの良い景色に辿り着けるかもしれない。後ろを振り返るのはほどほどに、まだまだ顔を上げて一歩一歩高みを目指して行きたい。仕事でも会社の状況は楽観できる状態ではないし、社員みんなの生活もかかっているので真剣に取り組んでいきたいところである。

 膝の痛みは相変わらずで、早く試合に復帰したいが、まだ走れるかどうかもわからない。客観的に考えれば、年齢的にラグビーなどやるものではないと思うが、頭の中は20代のままであり、まだまだできると思ってしまう。実際、同年齢のおじさんたち相手ならまだまだできると思うが、まともに動けないと話は始まらない。老化に抵抗し、美容のためのアンチエイジングに力を注ぎたいなどとは思わないが、まだまだラグビーをやりたいというただその一心で、筋トレをしたり走ったりという努力は続けたいと思う。

 今年、娘は就職である。公務員を選んだのは娘らしい。働く上での心構えを伝えたい気もするが、難しいとも感じている。せめて2人でゆっくり話をする時間くらいは作りたいようにも思う。そして息子は大学受験。私立の難関を目指しているが、自分の経験を伝えることはできていない。それが必要なのか、それとも疎ましいだけなのかはわからないが、親父の経験を知ってほしい気もする。もしも万が一、浪人することになったら、どこかで自分の考えをしっかり伝える機会を作りたいと思う。

 スタートした2024年もあっという間に過ぎていくのだろう。年末に振り返った時に、「今年はこれをやった」というのをしっかり残したいと思う。映画もたくさん観たいし、NetflixやAmazonPrimeのドラマも観たい。本も読みたいし、自分の考えをブログに綴ることも続けたい。誰かに読んでもらうというより、後から自分で読み返すためだけに。週2回のペースを維持できれば100本くらいの雑感が溜まるだろう。それも自分自身の記録である。年末には今より一段高いところにいられるように、今年1年頑張って過ごしたいと思うのである・・・

Annette MeyerによるPixabayからの画像

【今週の読書】