2024年1月11日木曜日

論語雑感 述而篇第七(その26)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子釣而不綱弋不射宿

【読み下し】

はへなはいぐるみ宿いこふ

【訳】

先師は釣りはされたが、綱(はえなわ)はつかわれなかった。また矢ぐるみで鳥をとられることはあったが、ねぐらの鳥を射たれることはなかった。

『論語』全文・現代語訳

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 「釣りはしたが、網は使わなかった」とは、1匹1匹を釣るがまとめて網で捕るという事をしなかったということだろうか。また、「ねぐらの鳥を射たれることはなかった」とは、鳥を矢で射る事はしても、巣にいるところは狙わなかったという事なのだろう。前者は、「食べるのに必要なだけを捕った」ということで、後者は「卑怯な振る舞まいをしなかった」あるいは「安易な方法を取らなかった」ということなのだろうかと考えてみる。単なる現代語訳で2,500年前の時代も言語も違う古典の真意を探るのは難しいと感じているが、この言葉もまた然りである。


 釣りに関して、「必要なだけを捕る」という事であれば、実に共感するところである。私も一時釣りにハマっていた父に連れられて海釣りをした事がある。しかし、自分がそれにハマるという事はなかった。子供の頃、近所に釣り堀があって、友達に誘われて行った事があるが、それもまたしかり。やりたいとも思わず、結局見ているだけであった。なぜに釣りに興味を持てなかったのか、考えてみるとたぶん「無駄な殺生」が嫌だったんだろうと思う。


 社会人になって間もなくの事、新人歓迎会という事で、八王子の山奥に釣り&バーベキューイベントに連れて行かれたことがある。そこでマス釣りを楽しんだのであるが、私は歓迎される新人であるにもかかわらず、釣り竿を持つことはしなかった。それは何となく「無駄な殺生」が嫌だという感覚が働いたものである。釣った魚はその場で焼いてみんなで食べたが、終わってみれば食べられることもなく捨てられた魚が山と残っていた。今でもそれを思い出すと心が痛むのである。みんな食べる事を考えず、釣り上げることだけを楽しんだのである。


 鳥に関しては、巣にいる鳥は射やすいのだろうが、親鳥を射れば小鳥が生きていけなくなるという意味もあるのかもしれない。いずれにせよ、孔子は「必要なだけ」捕るという考えだったのだろうと推察される。当時は趣味で釣りや狩猟をしていたのではなく、自分が生きていくための糧を得るためだっただろうと思う。それゆえに、自分が生きていくのに「必要なだけ」捕るという考えを述べた言葉ではないかと思う


 翻って現代では、生きていくために漁(猟)をする人たちもいるが、大半の人はそうではない。今や釣りはレジャーである(さすがに狩猟はそうはいかない)。町に出れば釣具屋のチェーンもあるくらいフィッシングはレジャー化している。私の新人歓迎会もそうであった。子供が小さい頃、マス攫みをやれるところに遊びに行った事がある。小さな囲いでマスを追い回して素手で捕まえるのである。子供にはちょうどいいレジャーだった。そのあと、それを焼いて食べるのであるが、1匹だけだったので子供が食べて終わりである。私の心が痛むこともなかった。


 釣り好きな人を責めるつもりはない。自分で獲ってさばいて食べるのが好きという人もいるし、釣る行為だけを楽しむ「キャッチアンドリリース」なんてのもある。ただ、個人的には「趣味で」殺生をしたいとは思わないので、これまでのように、またこれからも私が趣味で釣りをすることはないだろう。かと言ってベジタリアン、ビーガンを気取るつもりもないので、食べることを否定するものではない。必要なだけ、買って食べるだけである。


 我が国は食べ物がたくさん捨てられる国である。個人的に何とかできるものではないが、せめてせっかくの命をいただくのだから、「必要なだけ」は心掛けておきたいものである。それは孔子の精神と通じるものではないかとも思う。そういう心掛けは大事にしたいと思うのである・・・



Khalid MehmoodによるPixabayからの画像

【本日の読書】

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