2023年11月29日水曜日

論語雑感 述而篇第七(その23)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰二三子以我爲隱乎吾無隱乎爾吾無行而不與二三子者是丘也

【読み下し】

いはく、ふたたりのきんだちわれもつきんだちかくせりとかなわれかくすこと乎壐のみわれおこなふたたりのきんだちともにせるはし。きうかな

【訳】

先師がいわれた。

「お前たちは、私の教えに何か秘伝でもあって、それをお前たちにかくしていると思っているのか。私には何もかくすものはない。私は四六時中、お前たちに私の行動を見てもらっているのだ。それが私の教えの全部だ。丘という人間は元来そういう人間なのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 私が長年人生経験を積んできて得た教訓の1つは、「結婚は職場結婚に限る」という事である。なぜか。それは職場での働き方が家庭でのあり方を反映していると思うからである。結婚の失敗というのは、その多くが「性格の不一致」であろうかと思うが、なぜ結婚前にそれがわからないのか。それはお互い付き合っている時はいいところしか見せないからである。特に女性は猫を被る。結婚して一緒に暮らし始め、だんだん遠慮がなくなって素の状態になった時、「こんなはずではなかった」という幻滅が生じる。それが高じて離婚に至る時、その原因は「性格の不一致」とされるのではないかと思う。


 職場が同じ場合、そこでは割と素の状態が表れる。大きな組織であれば、各部署と連絡を取ったりする時にその人の本性が表れる。先日観た『シャイロックの子供たち』という映画は銀行を舞台にした映画であったが、劇中、取引先課の女性が営業課の女性に伝票処理を依頼してくるシーンがあった。そこで持って行った伝票の不備を指摘された取引先課の女性は、めんどくさいという態度とともに、不備を治すことすらせず、営業課の女性の上司である課長の机の上に伝票を置いて立ち去ってしまった。課長は何も言えずにそれを受け取る。元銀行員としては、よくありがちな光景だと思って観ていた。


 職場ではそんな態度を取る取引先課の女性でも、デートともなればしとやかな振る舞いをするのであろう。気を利かした行為で男性のハートを振るわせるかもしれない。しかし、その本性は上記の通りで、職場の同僚の仕事がやりやすくなるような気を使ったりすることはないわけで、今は猫を被っていても、結婚すれば本性が表れる。私も気の強い営業課の女性が、取引先係の男性に不備の伝票を突き返しているシーンを何度も目にしたものである(伝票を突き返すのは当然だが、要はその「やり方」、「振る舞い」である)。


 なぜ、「結婚は職場結婚に限る」と思うに至ったのか。それは何より私自身の経験に他ならない。それも残念ながら失敗経験である。私の場合は、妻とは勤務先は同じだが職場は違う。結婚してから、「取引先に不備伝票を叩き返していた営業課の女性」と聞き、家庭での様子に納得がいった。たとえどんなに美人であろうと、そういう女性には見向きもしなかっただろう。同じ職場でさえあったなら、確実に避けられたと大きく悔いたのである。私も人より賢いつもりであったが、まったく気がつかなかった次第である。ましてやお見合いなどは絶対に避けるべきであろう。


 人は何気ない普段の振る舞いこそがその人の本性である。上司に媚びへつらい、部下には傍若無人に振る舞う人物は、傍から見ればよくわかる。その人がどういう人物なのかは、本人ではなく周りにいる人こそがよくわかる。忙しいさなかでも、聞けばしっかりと教えてくれる人なのか、後にしろとうるさがられるのか。その対応にその人となりが表れる。その人が自分自身をどういう人間だと思っているのかは傍からわからないが、行動でその人となりはわかる。野村監督が言う「評価は人が下したものこそが正しい」のである。


 丘という人物は、言葉で教えるのはめんどうだと考える人だったのかもしれない。自らの行動を見て判断しろというくらいだから、意識的に自分の考えと行動を一致させていたのだろう。企業などでもよく「お客様第一」を掲げているものの、電話をすればどこも自動案内で、さんざん待たされてイライラさせられるという状態であるところは珍しくない。「言う事とやる事が違う」という人もザラにいる。そういう人から比べると言行一致というのはいいかもしれない。


 自分は果たしてどうだろうかと振り返ってみる。己自身、嫌な上司にはたくさん仕えてきた経験があり、自分はそんな嫌な上司にはなりたくない。ゆえに部下に留まらず、社内では極力丁寧に接するように心掛けているつもりである。それは何も善人振るつもりではないが、その方が自分自身気分がいいというのもある。そして評価については、良い点数をもらいたいというよりは悪い点数をもらいたくないという気持ちの方が強い。自分がいい気分になりたいというより、人の気分を悪くしたくないという考えである。


 自分ではわからない「他人から見た自分」。それはどんな様子なのか非常に興味はある。内面も大事だが、外に現れる態度がどうか。わからないなりに、理想的な自分自身を意識して振る舞いたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 





2023年11月26日日曜日

老いる

 母が先週86 歳の誕生日を迎えた。この週末、いつものように実家に行き、好きなショートケーキを買って簡単なお祝いをした。歳の話になり、父の祖父は70代半ばで亡くなったという話になった。帰ってきて調べてみると、亡くなったのは昭和24年で69歳であった。老衰だったと言うが、今の感覚からするとあり得ない。しかし、当時はそうだったのかもしれない。ちなみに祖父は先日亡くなった伯父と同じく89歳で亡くなっている。父も86歳。もうちょっと頑張れば祖父と伯父を抜く。私の目標にもなるし、頑張って欲しいところである。

 母方の祖父母も60代と70代で亡くなっている。今の感覚では若い。両親とも86歳であるが、この年齢は比較すれば長生きである。日本人の平均寿命は、男が81.05歳、女が87.09歳であり、母はまだだが、父は平均を超えたことになる。健康寿命という言葉があるが、父は耳が遠くなり、母も腰が痛いと繰り返し、定期的な通院が欠かせない。何をするにしても気力が衰えるのか、実家もだんだん雑然としてきている。家事を担う母も衰えは目立っており、料理もできなくなっている。歳を取るとはこういうことかと感じること、しばしばである。

 考えてみれば、機械も使っているうちに不具合が出てくる。スマホはバッテリーの持ちが悪くなるし、パソコンは反応が鈍くなる。私も昨年6年ほど使ったMacを買い換えたが、劇的にサクサク動くようになって感動した。人間は機械とは違うが、それでも機械と同様、細胞の劣化は免れない。髪の毛は白くなるし、怪我は治りにくい。シニアラグビーをやっているが、首も膝も痛めて一年以上経つがなかなか治らない。以前は楽にできていた筋トレがしんどくなってきているのも体が劣化しているからだと思う。

 自分ではなかなかわからないが、写真の推移を見れば自分が歳を取っているのがよくわかる。20代、30代が若々しいのは当然だが、40代そして50代の前半でさえ若いと感じる。それはすなわち現在の自分と比べてであり、当たり前だが確実に歳を取っているとそこで感じることができる。肉体だけでなく、記憶力の劣化も衰えを感じるところである。顔と名前が覚えられないのは元々としても、人に話した記憶や聞いた話もよく忘れる。仕事では困ることになるので常にメモを手放さないようにしているが、短期記憶力の劣化は自覚症状大である。

 そんな自分だから、もっと歳を取っている母の劣化もやむを得ないと思うしかない。つい3分ほど前に話したことを忘れてもう一度話す事はしょっちゅうだし、医者に言われた事もすぐ忘れる。同席した私が覚えていて注意するが、毎週末に行くたびに注意し続けてようやく先週末に自分からやっているのを見た次第である。腰も痛みを訴えているが、医者でもない私にはどうしようもない。せめて毎週顔を出し、買い物をして夕食を作って両親と一緒に食べて帰っている。一食でも作ってもらえると嬉しいらしい。

 母の記憶力の劣化は時折私を苛立たせる事もある。いまだに自転車に乗っている(本人は「押している」と言っている)のも危ないと、買い物カートを勧めて一緒に選んだ。赤がいいか青がいいかと散々迷った末、青がいいというので購入した。ところが本人はそれを使いたくないと言い出した。曰く、「そんなの押しているところを見られたら恥ずかしい」と言うのである。「年寄りに見られる」という発言には怒りを通り越して笑ってしまったが、それでもわざわざお金を出して買った身としては笑いたくないものがある。

 そんな母の姿を見ていて、そして自分自身の劣化を感じていると、「自分は大丈夫」という根拠のない自信も揺らいでくる。それどころか、「自分は大丈夫だろうか」という疑問の声が大きくなる。今から心配するのも無駄なことではあるが、少なくともやりたい事があるなら今のうちにとは思う。「仕事を引退してから」などと悠長なことを言っていたら、引退した時にはもうできなくなっているかもしれない。さもなくとも70歳まで働こうと思っているのだから、仕事をしつつやるという考え方でないといけないだろう。

 経年劣化はやむを得ない。見てくれも大事かもしれないが、見てくれのアンチエイジングよりも「機能」の劣化を防ぐ方向での努力は続けたい。ラグビーもまだまだ続けようと思う。たとえあちこち痛もうとも。まだまだ沢山本を読み、映画を観て、ドラマも観る。ラグビーもやって、観てと楽しむ。何よりその原動力となるのは気力だが、その気力は健全な肉体にこそ宿る。「まだまだ」という気持ちで、やっていきたいと痛む膝をさすりながら思うのである・・・

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【本日の読書】

 




2023年11月23日木曜日

人見知り

 自分の性格として認識している一つは「人見知り」である。基本的に一人でいることを好み、人と一緒だと落ち着かない。それでも友人や会社の同僚などはまだいい方で、初対面の人だとどうにも会話に苦手意識が先行する。駅員さんや店員さんなどとの事務的な会話は苦にならないが、仕事関係での持続的な会話となると精神的な負担が大きい。それでも会話の内容が必要な仕事の内容であるだけならまだいいが、これが私的な話になると負担感は増大する。人間誰でも得手不得手はある。それが私には「人付き合い」ということである。

 子供のころから引っ込み思案であったと思うが、いろいろと思い出してみるとそうでもない。友達の中でリーダーシップを取るタイプでもなかったと思うが、割と中心にいたことも多い。小学校の5、6年のころだったか、仲の悪かったKを野球チームの仲間から外したことがあった。クラス対抗で試合をしたのだが、どういう経緯だったのか忘れてしまったが、Kをメンバーから外したのである。レギュラーという意味ではなく、ベンチ入りすらさせなかったという完全な仲間外れである。そしてその中心人物は私であった。それは私とKとの対立の結果である。仲間外れは褒められたものではないが、ただそのあとすぐにKの逆襲にあって、第2戦は私が仲間外れにされたのだから「おあいこ」だろう。

 引っ込み思案どころか、劇の主役をやったこともあった。今でもなぜ学芸会の劇の主役に選ばれたのかは覚えていない。今の自分なら推薦されても絶対にやらないだろう。運動では走り高跳びではクラスで一番になったし、運動会では常にリレーの選手だったし、スポットライトの中心に近いところにいつもいたように思う。と言ってもそれは友達の中での話であるからかもしれない。その輪から外れたところではそうでもなかったと思う。小学校3年の時に近所の少年野球チームに入ったが、母に連れられて監督の家に入部希望の挨拶に行った際、蚊の鳴くような声で「入れてください」と言ったことを覚えている。

 人見知りとは言え、慣れてしまえば本領発揮というところだったのかもしれない。それでも本質的に他人との関わり合いに一定の距離を置きたいという気持ちは強くある。それをもっとも感じたのが社会人になってから。銀行に入った私が、やがて行員同士の会話にしばしついていけなくなったのは「行員人事」について。サラリーマンは人事情報に関心が高い。やたら行内の人事情報にみんな詳しい。「誰々はどこそこの支店長をしていた」という類である。「〇〇は出世コース」という話も、私は「よくみんな知っているなぁ」と感心していたものである。

 その手の人の情報にやたら詳しい人がいる。「〇〇はどこの大学を出てどこの支店にいた」とか、「今度の人事で〇〇になるんじゃないか」という話に関して、私はいつも蚊帳の外であった。思うに「そんなのどうでもいいじゃないか」という思いが強い。だから聞いても覚えていられない。「好きこそものの上手なれ」ではないが、みんな他人に関心があるからそういう話についていけるのだろうという気がする。私に一番欠けているのは、もしかしたらこの「他人への関心」なのかもしれない。

 人見知りとは言っても、「コミュ障」とは違う。他人とのコミュニケーションはうまく取れると思う。それはたとえ初対面の人であってもだ。それは仕事という意識もある。ただ、会話を継続するのにものすごくエネルギーを消耗する。だから会社帰りに同僚と一緒に帰るのも苦手である。帰りのエレベーターで一緒になった暁には、「この人はどの方面に帰るんだっけ」と一生懸命考える。しかし、もともとの無関心のなすせいか、以前聞いた記憶があっても覚えていなかったりする。そして苦し紛れにわざと「一服する」と言って時間をずらしたりするのである。

 それが今は、人事の採用担当として地方出張に飛び回っている。かつて今の社長が総務部長時代に切り開いた採用ルートを維持しているのだが、担当者の顔と名前を覚えるのに苦労している。その時々の会話はそつなくこなせるが、顔を覚えられない(コロナでマスクをしている影響もある)。さらにその人に関する情報を覚えられない。一緒に同席していた社長が前回の会話の内容を覚えているのに私は覚えていない。社長は自然に相手との交流を楽しんでいるが、私は「仕事」として無理なエネルギーを費やしているからそうなのかもしれない。これから大丈夫だろうかと案じている。

 Facebookでは友達の数が数百人という人がいるが、私は221人である。自分でも見事だと思うが、自分から友達リクエストをしたのはこのうち1人か2人である。基本的に「友達は100人より親しい人5人でいい」という考えである(実際、大学時代の友人は6人である)。それでいいのかと思うも、自分に無理なく生きるにはそういうやり方しかない。たぶん、親父の血を引いたのではないかと思う。幸い、その血は息子には受け継がれていない。私と違ってひょうきんで友達も多いようだ。ただ、残念ながら娘は私の血を引いてしまったように思えてならない。

 それでも長く付き合っている自分のそれが性格であるから仕方がない。パソコンで言えばOSであり、いまさら変えるのは不可能である。そうは言っても我が社のエンジニアにはコミュニケーションが不得意な面々もいるし、それよりははるかにマシである。今のところはその本性がバレないようにうまくやっていくしかない。これから先もうまくやっていくしかない。そしていずれ引退した時、この性格は「孤独に強い」という長所がある。その時は毎日一人きままに暮らしていけるのだろうと思っている。その時までは、人一倍エネルギーを費やしてでも、人見知りをなんとかごまかしていきたいと思うのである・・・



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【今週の読書】

2023年11月19日日曜日

仕事についての雑感

 大学に入るのに一浪した私は、卒業時に一浪の価値として、「一年働く期間が短くて済む」と前向きに考えたものである。定年の60歳まで働くとして、22歳で卒業すれば38年、23歳で卒業すれば37年働くだけで済む。あと一年でその60歳になる今思うことは、引退どころかいつまで現役で働けるだろうかという思いである。「最低70+α」というのが今の正直な気持ち。昔とはだいぶ考え方が変わったと思う。それは「70歳まで住宅ローンが残っている」という現実的な理由もあるが、仕事自体に対する考え方の変化も大きい。


 就職当時、私にとって仕事とは生きていくための義務であり、「しなくてはならないもの」、「避けては通れないもの」であった。しかし、今では「したいもの」、「できるだけ続けたいもの」に変わっている。「仕事は楽しいかね?」と聞かれたら、迷わず「楽しい」と答えるだろう。もちろん、実際の毎日はいろいろと予想外の出来事があり、思い通りにいかないことも多い。社員90名弱の中小企業は、とても業績安泰とは言えず、9月の決算も計画を大幅に下回り、先行きは厳しい。それでもそれはそれで楽しさに影響はない。


 そもそもであるが、仕事は何でもうまくいく、思い通りになると考えるとストレスになるが、「問題は起こるもの」という前提でいれば気持ちが凹むことはない。問題は頭が痛いし、厄介ではある。されど避けて通りないものであれば、そういうものだと考えればいい。ラグビーの試合でも相手がいるからこそ楽しいと言える。練習ではうまくいったサインプレーも相手がいれば思い通りにはいかなかったりする。それどころか負けて悔しいこともある。されどそもそも相手がいなければ、ラグビーは面白くも何ともなくなってしまう。問題があってこその仕事である。


 しかし、世の中には仕事が面白くないという人も多い。そういう人の仕事はどんな様子なのかと興味がある。つまらない仕事だからつまらないのか。内容ではなく、人間関係というのもあるかもしれない。とにかくやりたくない事は何であれやりたくないと思うのか。私の場合、比較的仕事は何でも楽しめるというところはあると思う。銀行を退職した9年前、再就職までしばらく間があったのでアルバイトをした。工場での梱包作業という軽作業である。仕事は単純だったが、それなりに工夫して楽しくこなした。単純な仕事でも楽しめると思う所以である(もちろんその仕事を10年も楽しく続けられるかというとわからないが・・・)。


 今は財務・人事を中心とした総務の責任者として経営の一翼を担っている。最近は小さい会社をM&Aで買収したが、自分がいなければやれなかったと思うし、会社を動かしていると実感できている。思う通りの仕事ができれば仕事はより楽しくなる。役員だから定年は関係ないし、世間では60歳で一旦退職し再雇用というのが一般的だが、給料は大幅に下がる。されど今の私にはそれも関係ない。会社が傾かない限りは今の収入をずっと維持できる。銀行員を続けていたらとても無理だったが、中小企業に転職したからこそ得られた自由と言えるかもしれない。


 そういう職に就けたのは運という要素が大きい。しかし、運だけでは当然ない。そこには仕事を楽しむというスタンスが良かったのだろうと思っている。今でも面倒だなと思うことは数多くある。されど、「我がものと思えば軽し傘の雪」である。問題は起こるものであり、それを解決するのが自分であり、それによって会社での存在感を示せるのであれば、問題こそ仕事を面白くしてくれる要因だとさえ言える。これから70歳まであと11年。できればそれ以上。楽しく働いていきたいと思うのである・・・

 

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【今週の読書】

  




2023年11月15日水曜日

論語雑感 述而篇第七(その22)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰天生德於予桓魋其如予何

【読み下し】

いはく、てんとくわれせり、桓魋くわんたいわれくことなにぞ。

【訳】

先師がいわれた。

「私は天に徳を授かった身だ。桓魋かんたいなどが私をどうにも出来るものではない。」

『論語』全文・現代語訳

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 「天に徳を授かった身」と自ら言ってしまうところが、自己主張の強い中国人気質なのか、日本人的には抵抗感のある物言いである。それはともかくとして、桓魋という人物との関係がよくわからない中、この言葉だけを採り上げて何かを論じるのは適さない。言葉はその時々の前後の状況によって解釈が変わるからである。一説によると、孔子は桓魋に命を狙われていたという。その理由はよくわからないが、己の信じるところに従い、危険などに怯みたくないという孔子の思いなのであれば、強い信念を感じる言葉である。


 自分に何か確たる考えがあり、それを他人によって変えさせられたくないというのは、現代でも良くあること。徳を授かったとまでは言わなくとも、「正義は我にあり」くらいは誰にでもあることだろうと思う。1年半にわたって裁判で争った前職の社長との係争も和解することになった。お互い「正義は我にあり」という思いを抱いているわけで、どちらが正しいのかは立場によるのだろう。


 改めて振り返ると、持病もあって会社経営を終わらせたいと考えた社長は、M&Aで会社を売却した。購入した相手は「従業員はいらない」という条件を出し、社長は全員に解雇を告げた。一応、就職先として知古の上場企業に再就職の斡旋をしてくれた。ただし、正社員ではなく契約社員であり、給料は保証してくれるものではなく、私などは半減であった。退職金は「規定がない」という理由で支給を拒否された。とうてい受け入れられるものではなく、社員を代表してそれは酷いだろうと抗議したら、一応、雀の涙ほどの退職金の支給に応じた。私などは1ヶ月分の給料にも満たない額である。

 

 その会社は、もともと親が金を出して設立し、社員も親が集めてできた会社で、その息子は用意してもらつた社長の椅子に苦労もなく座ったのである。社長とは言いながら何か考えがあって経営していたわけではなく、会長として後見していた父親が亡くなると、途端に経営は迷走。私が誘われて入社した時点で、過去8年中6年赤字を計上し、累積赤字は1億を超えて債務超過一歩手前であった。それを私がテコ入れし、他の社員の協力を引き出して、在籍していた6年間すべてで黒字計上し、累積赤字も一層した。最終年度は過去最高益を計上したが、そこでお役御免となったのである。


 裁判も我々社員vs社長という構造。社長は裁判で、「退職金の多寡は立場によって意見が分かれるもので、十分払った」と自らの正当性を主張するのに終始。我々からすれば呆れる主張だったが、元々自分の父親が金を出して設立した会社であり、「会社のすべての資産は受け継いだ自分のもの、社員にはきちんと給料とボーナスを払って来たので十分報いている」という意識があったようである。それはそれでわからなくもない。自分も病気を抱えて先行き不安であるし、会社を売ったお金を(億単位なのであるが)すべてもらって何が悪いということなのだろう。


 そこはお互いの正義があり、相手が何と言おうと自分の正義に従って恥じることはないのだろう。「天に徳を授かった身」と思っているか否かは別として、己を正当化する心理はお互いに共通であろう。人は皆そういうものではないかと思う。条件的には負けに等しい和解であり、忸怩たるものがあるが、そこは仕方がない。気持ちを切り替えて今の仕事に邁進するしかない。お互いに正義を信じていても、その正義は人の数だけあるものなのだろう。自分が信じるものを絶対視するのは、今も昔も変わらぬ人の心理であると思うのである・・・

 

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【本日の読書】

  




2023年11月11日土曜日

海水浴の思い出

 先日、金沢へ出張に行った。北陸新幹線に乗るのは初めてであったが、線路は糸魚川で日本海に行き当たり、そこから西へと進路を変える。窓の外には日本海が見える。その日本海を見ていて、小学生の頃、一度だけ直江津に海水浴に行ったのを思い出していた。当時、長野県の御代田に住む従兄弟の家に春休みと夏休みに1人で遊びに行くのを楽しみにしていたが、その時ちょうど町内会で海水浴に行くことになっており、私も一緒に連れて行ってもらったのである。長野県には海がない。近い海となると、関東へ出て太平洋というより、北上して日本海だったのだろう。

 初めての日本海。そこは直江津の海水浴場だったが、波がとにかく静かだったのを強烈な印象として覚えている。朝早かったのと、電車の中でおにぎりを食べた事以外はほとんど忘れてしまったが、波が本当にかすかにあるというくらいの海だけは覚えている。それまで太平洋の波を見ていて、それが普通だと思っていた。波が打ち寄せる音と波飛沫が飛び散るのが当然だと思っていたので、そよそよと打ち寄せる波に驚いたのである。外洋につながる太平洋に比べると、日本海は内海だから波も穏やかだというような説明をされて納得したものである。

 その頃、御代田に遊びに行く以外の楽しみと言えば、海水浴だった。あまりたくさんは覚えていないが、小学校の低学年の時には、木更津や鎌倉に行った記憶がある。木更津は友達2人とその母親とで、確か友達のお母さんの1人の実家だったように記憶している。そこで生まれて初めて潮干狩りをしたのである。父親がいなかったのは、当時は週休1日の時代で、平日たっぷり働いた父は貴重な休みの日まで出かけたくなかったのかもしれない。友達とその母親とみんなで伊豆に行った記憶もある。どこも昭和の週末母子家庭だったのかもしれない。

 その中でも鎌倉は唯一(記憶に残っている限りという意味でだ)、家族で行った海水浴である。旅館の部屋で父が海水パンツに履き替えている時、中居さんがガラリと引き戸を開けて入ってきた。慌てて、「すみません」と戸を閉めたが、何を思ったのか親父は「いいですよ!」と声を掛けて母に咎められた。子供の頃は、そういうつまらないエピソードをよく覚えていたりする。その時の記憶なのかよくわからないが、夕方遅くまで海に入っていて遊んだ記憶がある。

 小学校の高学年になるともう少し記憶も鮮明になってくる。千葉の九十九里浜に少年野球の合宿で行ったのを覚えている。午前中に練習して、午後はプールだった。波が荒くて子供を遊ばせるのは危険だと思ったのだろうか、海水浴ではなくプールだった。さらに中学の頃だったかもしれないが、やはり友人とその母親と3組くらいでどこぞの海に行ったこともある。その時の強烈な記憶は、夜の浜辺で見たUFOと思しき不思議な光だろうか。動きからしてスピードもあり、その時はUFOかもしれないと思ったが、真相は謎である。

 高校時代に海水浴の思い出はなく、最後は大学の時だ。ラグビー部の同期の男だけで千葉に実家のある男の家に泊めてもらい、近くのビーチに繰り出した。男だけでよくも行ったものだと思う。女の子に声をかける勇気があるわけでもなく、浜辺で腕相撲などくだらないことをしていた。1人ウィンドサーフィンの経験がある者がいて、ボードを持ってきていたのでみんなでやってみた。しかし、まともに立つことすらできず、傍から見ていたらコメディグループに見えたかもしれない。

 その後、社会人になると、場所は海外に移る。セブ島では体験ダイビングをやり、ニューカレドニアでは無人島に行き、娘はワイキキビーチで海デビューした。グアム、サイパン、国内では沖縄。子供が生まれると、自分の楽しみというより、子供を楽しませたいという目的に変わる。自分と比べると、私の子供はずいぶんと恵まれている。足の指が見えるくらい透明度の高い海ばかりだと、海というのはみんなそんなものだと思いもしないかと心配になる。由比ヶ浜などに行こうとすれば、濁った海水と渋滞とで辟易するに違いない。

 子供も大きくなると、家族で海水浴ということももうない。次は孫ができた時かもしれない。何年先になるかわからないが、その時体力がなくなっていれば一緒に楽しむのも覚束なくなるだろう。「財布」として呼んではくれるかもしれないが、一緒に海に入って楽しむ日が再びくるだろうかと思ってみたりする。新幹線の車窓に広がる日本海を見ながらそんな事を考えていた。仕事でなければ途中下車して浜辺まで行ってみたいと思った。日本海の波はやっぱり静かなのか。機会があればもう一度行って確かめてみたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

 





2023年11月5日日曜日

楽しいラグビーとは

 先日、高校のOBチームで試合をした。相手は毎年定期戦をやっている別の高校のOBチーム。試合は勝ち負けをガチガチに競うというより、親善的な要素の色濃いもの。試合に出る者には80代(紫パンツを履く)もいれば70代(黄色パンツを履く)もいる。私もルールに従い、今年から赤パンツ(数えで60代)の仲間入りをしたが、上の世代とまともにやっては怪我人が出てしまう。そこでいつも緩和ルールを敷いている。「楽しいラグビーをしよう」とみんなが言う。しかし、私はいつも「楽しいラグビーってなんだ」と思う。「普通に激しいコンタクトをするラグビーは楽しくないのか」と。

 ラグビーは激しいコンタクトを伴うゆえに、試合が終われば大きな怪我をしなくても普通にあちこち痛むもの。ゆえに連戦などとても難しい。せめて2週間くらいの間隔は欲しい。先日開催されたラグビーのW杯は、1週間間隔だったから、選手はさぞかしキツかったと思う。しかし、そこから得られる満足感はそれゆえに格別である。コンタクト制限したラグビーは、確かに「痛くはない」かもしれないが、そういうラグビーをやりたいか、見たいかと問われると、やはり答えはNOである。ラグビーはコンタクトを伴うからこそ面白いのである。

 また、別の日、私は所属するチームの定期戦に出場した。その日は赤黄パンツの試合と、白紺パンツ(白は40代以下、紺は50代)である。私は赤黄の試合に出たのだが、赤同士の試合は拮抗していたが、後半は相手が黄パンツメンバーが中心になると、俄然我々赤パンツチームが圧倒した。相手を抜くと簡単に振り切れるし、相手の当たりを止めるのも容易。こちらのダメージも少なく、私自身トライを2本も取ることができて、それなりに「楽しい試合」であった。相手が弱かったと言えばそれまでであるが、人間はどうしても老化は避けられない。黄色パンツの人たちもかつてはもっと手強かったはずである。年齢を経て力が衰えたのである。それは当然のことであり、だからラグビーは年齢別で試合をするのである。

 その日、メンバーの関係で私は紺白の試合にも後半だけ出場した。相手は抜くよりも当たって崩すタイプのチーム。味方もタックルに行くが次々に跳ね飛ばされてトライを取られていった。見ているうちに沸々としたものが心に湧いてくる。怪我人も出たりして、最後の後半にメンバーが足りないとわかると思わず手を挙げていた。試合は案の定、ディフェンスに終始。正面からタックルに行くが、フォワードの選手とは体重差もあり跳ね飛ばされる。それが1本、2本と続く。ますます闘志が湧き、本来はフォワードの選手が行く場面もそれを押し除けてタックルに行った。

 それで試合結果が覆せるほど甘くはなく、チームは大敗した。しかし、私には満足感が漂っていた。気持ちよく「負けたぁ〜!」と叫べる試合とでも言えるだろうか。初めに出た赤黄相手の試合より、トライを2本取るよりも、私にとっては「面白かった」と言える試合であった。これが「楽しいラグビー」でなくて何が楽しいラグビーなのだろうかと思う。人によって「楽しいラグビー」の定義は様々だ。学生や社会人でやり切って、もう体力もないと早々に現役を退く人もいれば、紫のパンツを履いて頑張る人もいる。それぞれに「楽しいラグビー」の定義があるのだろう。

 コンタクトのない「痛くないラグビー」が楽しいという人もいるだろう。高校のOBチームの親善試合では、「怪我しないのが一番」という合言葉でやっている。それはそれでいいのである。私にとっては違うけれども、まぁ「練習の一環」だと考えれば十分許容範囲内であり、「こんなのは楽しいラグビーとは言えない」などと言って空気を壊すほど大人気なくはない。いずれ自分も体の老化が進み、今のようにコンタクトができなくなったら、「楽しいラグビー」の定義も変わるかもしれない。それまではコンタクトのあるラグビーを楽しみたい。今の「楽しいラグビー」を心から楽しもうと思うのである・・・

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【本日の読書】

  








2023年11月2日木曜日

ラグビーワールドカップ2023雑感

 4年に1度のラグビーワールドカップが終わった。今回も全48試合をテレビで観戦した。Jスポーツは本当にありがたいと思う。普段からテレビのチャンネル権がない私としては、毎朝1時間早く起きてみんながまだ寝静まっている中、1人楽しんだ。決勝戦も、また私が事実上の決勝戦だと思っていた準々決勝の南アフリカ対フランス戦も紙一重の差もない実力拮抗した試合で、手に汗握る好ゲームだった。それ以外のどの試合もため息が出るような一流の技術を観る事ができて大満足であった。

 全48試合の中で、個人的にベストプレーだと思ったのは、南ア対フランス戦での南ア・コルビ選手のキックチャージだろうか。トライが決まった後、コンバージョンキックでフランスは追加点を狙うが、ルール上ではこのキックに対しチャージができる。しかし、実際には難しい(ゴールラインからキッカーまで全力疾走しても大抵は間に合わない)のと、ゲームが止まっている間に息を整えたかったりして黙って見ている選手が多い。それをコルビ選手は全力疾走してなんとチャージしてゴールを阻んでしまった。

 例えば普通の試合でも、終了間際で逆転がかかった時などは全員でチャージに行くなんてことはあるが、試合の中盤ではあまりない。それを真面目にやって、しかも成功させてしまったのには驚いてしまった。最終的にこの試合は1点差で南アが勝ったが、このチャージがなければ逆にフランスが1点差で勝っていたので、まさに試合を分けるチャージだったわけである。誰にもできないようなスーパープレーもいいが、こういう誰もが本当はやらないといけないような地味なプレーこそ、世界中のラグビープレイヤーがお手本とすべきもので、さすがワールドカップ・プレーヤーだと思う。

 その試合も決勝戦も1点差の死闘。どっちが勝ってもおかしくはなく、もう一度やってもどっちが勝つかわからない。運次第とも言えそうな内容はさすがに世界のトップレベルである。何気なく蹴ったボールの飛距離など、私が全力で蹴っても飛ばない距離だし、パスのスピード、距離、ハンドリングスキル等は見ていてほれぼれするもの。簡単にこなしているが、おそらくあのレベルにまでいくには、もともと持っている運動神経だけではなく、かなりの量のトレーニングの賜物でもあると思う。まだシニアでラグビーをやっているものとしては、1ミリでも近づけるようになりたいと思うものである。

 全試合を録画していたが、試合として最後に観たのは、プール戦の最終戦であるトンガ対ルーマニア戦。どちらもすでに3敗していて予選敗退は確定しているが、「1勝」をかけて激突。国歌斉唱の時点で涙ぐむ選手もいて、勝利にかける意識が伝わってくる。ラグビーファンの関心は決勝トーナメントに向いていたと思うが、そんな地味な試合でもそれにかけている選手がいて、現地で応援するファンがいる。試合はトンガが勝ったが、ルーマニアの奮闘も素晴らしく、好ゲームであった。満足のいく48試合目であった。

 4年前にワールドカップが日本に来て、「にわかファン」なるものが急増し、日本におけるワールドカップも盛り上がったが、今回は日本が予選で敗退してしまうと、終息感が漂っていた。どのスポーツでも自国が負けてしまうとファンの関心もしぼんでしまうものだとは思うが、たとえ自国以外であろうと、決勝戦に目を向ける人こそがコアなファンだと思う。さらに言えばどの試合であろうと目が行く人こそそうであろう。私もJスポーツをうっかりつけて、どこのチームかわからない試合でも、ついつい見入ってしまったりする。そういう人が少しずつ増えていくと、もっと放送も増えるのかもしれない。

 季節はちょうど大学生の公式戦が佳境に入る頃。そろそろ上位校同士の戦いが始まるので、次はそちらに目が行く。対抗戦にリーグ戦、観ようと思えば関西のリーグ戦まで観られるが、ワールドカップのように片っ端から録画して毎朝観るというのもしんどい。学生が終わればトップリーグも始まるし、テレビとは言え、観戦は控えないと他のやりたいことに支障が出てしまう。こちらはほどほどにセーブして楽しみ、あとは自分でプレーする方に回したいと思う。次のワールドカップは2027年オーストラリア。こちらは現地に行きたいなぁと思っている。仕事とお金を今から意識して何とかしようかという思いが脳裏をよぎる。

 39年ぶりにオーストラリアの地を踏むというのも悪くはないなと思うのである・・・


【本日の読書】