2021年9月30日木曜日

献血をするわけ

 今年2回目の献血をした。人生で12回目の献血である。初めての献血は高校生の時。以来、献血などしようという気にもならなかったが、10年前に職場で実施してからというもの、たびたびするようになったのである。なぜ献血などするのかと言うと、それは自分自身、「禍福は糾える縄の如し」という考え方があるためである。人間、幸せにばかり囲まれていることはできず、不幸まみれのままでいることもない。必ず禍福は入り乱れて自分に降りかかってくると信じている。それが根底にあるのである。

 良いことがあれば悪いこともある。だから良いことが続いたら悪いことが起こるかもしれないと警戒しないといけない。しかし、悪いことが起きるのをビクビクしながら待っているのもバカらしい。そこで自ら不快(=自分にとって悪いこと)を作り出して不幸の代わりにしてしまおうという魂胆である。献血は実に不快な経験である。針を刺されるのも不快なら、機械で血液を吸い上げる際に針を通して微妙に伝わってくる振動も実に不快である。そういう不快感は、自分にとっての幸福と釣り合わせるのにちょうど良い気がするのである。

 こういう考え方は、いつの頃からか漠然とあったのであるが、欽ちゃんの『負けるが勝ち、勝ち、勝ち! 「運のいい人」になる絶対法則』(読書日記№626) を読んだ時に確信した。欽ちゃんは、かつて『欽ドン!』が視聴率30%を超えるたびに、運を使うために馬券を300万円買っていたという(もちろん、当たり狙いではなく、損してそこで悪運を使ってしまうのである)。残念ながら私にはそんな資金力はないから、自ら不快に身を委ねる方を選んでいるのである。

 献血を終えると、少し休憩するように求められ、お菓子や飲み物や、最近ではいろいろと小物をプレゼントしてくれる。飲み物は失った水分を補給するという意味で、医学的観点から飲むように言われるからそれはいいとして、いろいろもらってしまうとせっかく運を減らしにきているのにその効果が薄れてしまうような気がする。なるべくお菓子は食べないようにし、今回もらった歯磨き粉(なぜこんなモノをくれるのかはわからない)は家族に渡した。今回に限らず、献血は別途行なっているユニセフへの寄付と併せて定例化しようと思っていることである。

 毎回400ml。血液検査もしてくれるのでその数値も参考になる。前々回基準値を超えて医師の診断を勧められ、前回はギリギリ基準内だったコレステロール値が、今回は一気に下がっていた。どうやら『LIFESPAN-老いなき世界-』(読書日記№1243) を読んで感化されて始めた「一日二食」の生活の効果が現れてきたのかもしれない。これも「空腹」という不快を毎日味わうという目的もあったのだが、体重も春から7㎏落ちて腹回りもスッキリし、ズボンも緩くなった。コレステロール値の改善は想定外だったが、運を減らすつもりがいい結果につながってしまうと、良いのか悪いのか複雑な気分である。

 また、今年は町内会の班長役が当番で回ってきている。これも面倒だしやりたくないのは本心だが、こういう面倒ごとを引き受けるのも「運減らし」の効果があるかもしれないと考えている。だからなるべく積極的に参加している。妻はこれ幸いとばかりに私にすべてを押し付けてくるが、「少しはお前もやれよ」とは決して言わないのはそういう考え方があるからである。仕事でも、やらなくても誰にも何も言われないことをわざわざ引き受けたり、何かあれば二つ返事で引き受けたりしているが、それもこういう「運減らし」の考え方である。

 この世は不条理であり理不尽であり不公平である。心正しき者が必ず幸せになるとは限らず、憎まれっ子は世に憚る。それを嘆いても仕方がない。この世に神様がいたとしても、とても全人類を公平に見ることなんて不可能だろうから期待はしない方がいい。であれば個々人が不条理な世の中で心安らかに暮らしていく術を身につけるしかない。普段から運減らしをしていれば、大きな不運には襲われないと信じて平穏に暮らせるのであればそれでいいではないかと思う。

 今年に入って突然理不尽な失職を味わった。とは言え、再就職の相談に乗ってもらった人たちは皆真摯に対応してくれた。それほど人付き合いがうまいとは思えぬ自分であるが、まだまだ友人知人には恵まれている。そして縁あって再々就職した今の会社も、いい雰囲気で楽しく仕事ができている。収入が減ってしまったのは難事であるが、あっちで減った運、減らした運の分だけ良いことがこっちでちゃんと起こっているように思う。少なくとも今の職場はストレスとは無縁である。

 献血した400mlもどこかで誰かの役に立っているかもしれない。もしかしたらアマのジャッキーな血が混じって迷惑しているかもしれないが、それは笑って許してもらおう。個人のささやかな思い込みであるが、それで日々穏やかに暮らせて、少しだけ誰かの役に立っているとしたら、まぁいいだろうと思う。これからも少しの不快と面倒とを自分のために引き受けていこうと思うのである・・・


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【本日の読書】
  


2021年9月27日月曜日

メンタルヘルス

 不動産会社からシステム開発会社に転職してはや2ヶ月弱。業種的にはまったく異なるが、「総務」という観点からはあまり関係がない。銀行に入った時は、お金のことに詳しくなれば銀行を辞めてもどこかの企業で財務部長くらいになって食っていけるだろうという漠然とした思いがあったが、財務を専門にしていると、業種に捉われなくてもいいという利点があると改めて思う。とは言え、中小企業ゆえに財務部などと独立したものはなく、財務兼人事兼の総務である。

 そんな総務部に着任して、本業の財務の把握が落ち着いたところで個人的に問題意識を感じているのが「メンタルヘルス」である。既に社員が3人も休んでいる。医師の診断はみんな同じ「適応障害」。適応するのに障害があるというなんともよくわからないようで、適したような診断である。調べてみたら、実はIT関連業界は適応障害に罹る比率が高いようなのである。在宅勤務や客先常駐などの勤務形態がそれを助長しているらしい。1日パソコンに向かい、人との交流が少なくなりがちな環境が良くないのであろう。

 なんとかしたいと思うのはいいが、まず困るのは「症状について想像がつかない」ということ。頭が痛いだとか熱があるとかならわかるが、「適応障害」という症状については想像がつかない。その昔、銀行の敬愛する先輩が過去に鬱になって銀行に行けなくなったという話を聞いたことがある。その時にも思ったのだが、自分にはそういう経験がない。冬の朝、布団から出たくないといった類の「会社に行きたくない」という感情ならわかるが、家を出て会社に向かう途中で苦しくなってしまうというのはもう理解の範囲外である。

 その昔、私も大失敗をして何千万円という損害を出してしまったことがある。さすがにその時は堪え、周りの視線も痛かったし、出勤すればその瞬間から針のむしろであった。しかしながら、そんな針のむしろであったが、「行きたくないな」と思いつつ毎日きちんと出勤した。休んだ方が精神的には楽だったが、休めば当然「そういう目」で見られるし、それよりもむしろ針のむしろの方がマシだという感覚が働いたのである。その時、「会社にいけなくなるのってこういう気持ちなんだろうか」とは思ったが、結局出勤できていたのでそれが本当にそうであったかどうかはわからない。

 銀行を辞める時も実はゴタゴタがあって、夜眠れないという経験をした。食欲もなくなり、寝ても夜中に何度も目が覚めてしまう。一日中、心ここに在らずという状態で、家族との会話も上の空であった。また、一昨年は会社の借り入れの連帯保証をし、会社がダメになったら自己破産というプレッシャーからやはり眠れなくなった。会社の状態も不安定だっただけに、恐怖感溢れていた。不安なまま眠ると夜中に夢を見て目が覚めてしまう。経営者であればそういう経験をしている人も多いだろうが、実に嫌なものである。それでも会社に行けなくなるというところまではいかなかった。

 思うになんとなく自分には心のヒューズみたいなものがあって、ストレスが一定の限度を越えてしまうとそれが飛んでそれ以上のストレスを感じなくなる何かがあるようである。「なんとでもなれ」というような感覚になってしまい、ストレスを感じなくなるのである。見方によっては責任の放棄ともとれるかもしれないし、開き直りなのかもしれない。人の輪の中にいるよりもむしろ1人でいたいと思うから、孤独なエンジニアの気持ちなど想像しようもないが、自分なら耐性があるようにも感じる。

 外部からのストレスに対する耐性は人それぞれである。血を見て卒倒する人もいれば平気な人もいる。痛みに大げさに反応する人もいればそうでない人もいる。「覚悟」もそれには影響するだろう。体の大きさが人それぞれであるように、心の耐性もまた人それぞれである。それに「慎重」の裏返しは「優柔不断」であるように、「メンタルの弱さ」は「責任感の強さ」かもしれない。自分は割とストレス耐性が強いと思うが、だからと言って弱い人を「軟弱だ」とは思いたくないと思う。

 人事部も兼ねる総務部としては、社員のメンタル問題について考えないといけないと思っているが、自分自身想像がつかない領域なだけに苦手意識があるのも事実。さてどうしたらいいのだろうと思案しているところである。想像がつかないと言い訳する一方、それに反してなんとなく医者に対する不信感のようなものもある。心の不調を訴えて医者に行けばまず間違いなく「適応障害」などと診断を下すように思う。それは心の中という見えない世界である以上、医者としては「なんでもない」とは診断し難いだろうと思うのである。必然的に診断を下した方が無難であることは想像に難くないわけであり、返ってそう感じてしまうところがある。

 そんなことを言い出せば、問題解決から遠くなってしまうので、その疑惑はとりあえず封印して考えようと思う。自分はメンタル耐性があってよかったと思う一方、なんで耐性があるのかはよくわからない。それはもともとの脳の働きなのか、それとも「考え方」なのかもしれない。少年時代に松本零士の漫画を読んで感化された影響かもしれないし、その両方なのかもしれない。それはともかくとして、自分は大丈夫だからという上から目線ではなく、同じ視線の高さで真摯にこの問題を考えてみたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
  



2021年9月23日木曜日

文学の道

 『文学入門』という本を読んだ。70年前の古い本であるが、手に取ったのは自分の中に文学とやらを学んでみたかったという思いがあったからである。高校生の頃、将来の進路の候補として頭に浮かんだのが「法学部」と「文学部」(文系選択は迷いがなかった)。「法学部」は、なんとなく将来の職業として(映画の影響から)弁護士というのがあったのであるが、「文学部」はただ単に本が好きだったからというだけのことである。どちらにすべきかは、(文学部を出て食べていけるのかという)現実的な考えから迷うことなく法学部を選んだのであるが、なんとなくその時のやり残し感が残っているとも言える。

 その時、漠然と思ったのは、「文学ならいつでも学べる」という感覚があったのも事実。この本を手に取ったのも、それを思い出したからとも言える。一読してそれなりになるほどとは思ったが、もう少し幅広く学んでみたいという物足りなさ感があったのも事実である。しかしながら、そもそも感じたのは、「文学とは何を学ぶのか」ということ。大学の文学部では、我が娘が文学部の心理学科に行っている通り「心理学」もあり、「哲学」もある。「哲学」は本当に大学に入って学んでみたいと今でも思うが、純粋に「文学」というとよくわからない。

 古今東西の文学作品を研究するのだろうか、それとも「読み方」なのか「書き方」なのか。いくつかの大学のホームページを見てみたが、正直言ってあんまりよくわからない。ただ、『文学入門』にも書かれていたが、「読み方」などは特にあるわけではなく、そこからの「感じ方」は人それぞれによるところが大きく、「学ぶ」などという大げさなものではないように思う。それが証拠に、「直木賞受賞作品」「芥川賞受賞作品」などという謳い文句に惹かれて読んではみたものの、何がいいのかよくわからないという作品は数多くある。

 この直木賞だとか芥川賞だとかという選考基準も素人にはよくわからない。表現なのか、ストーリーなのか、そのトータルなのか。『容疑者Xの献身』が直木賞を受賞したのはわかるが、なぜ『永遠のゼロ』ではないのかはわからない。同じ作家でも『暗殺の年輪』よりも『蝉しぐれ』の方が面白いと思うのに、なぜ『暗殺の年輪』だけなのか(タイミングももちろんあると思うが)。およそ「賞」となると素人の私には良し悪しは区別できない。

 それは実は私の大好きな映画の世界にも言える。コッポラや黒澤明などの巨匠が創った名作を否定する気は無いが、では平凡な監督が同じ作品を撮ったらどうなるのかよくわからない。『地獄の黙示録』は確かに深い作品だと思うが、それはコッポラ監督によるものなのか、それとも脚本なのか、それともマーティン・シーンやマーロン・ブランドという出演者なのかよくわからない。『パラサイト半地下の家族』がアカデミー作品賞に輝いたが、同じ韓国映画でも『アシュラ』の方が断然面白かった。ハリウッド映画でも、「アカデミー賞受賞作品」などと言われても最近は鵜呑みにしないことにしている。

 いわゆる玄人受けというのはあるだろう。スポーツでもサッカーはあまり観ても面白いとは思わないが、ラグビーはメチャクチャ面白い。それはプレーの意図がわかることもあり、簡単なようでいて実は難しいプレーというものがわかるというのもある。そうした一つ一つがよくわかるので、観て面白いと思うのかもしれない。文学も映画も、そんな玄人が観たら、実はすごいということもあっての受賞なのかもしれない。深く学べば深く学ぶほど、より深く味わえるというものなのかもしれない。

 いずれにせよ、これで終わりというわけではない。学んでみたいという気持ちは強くあるし、「求めよ、されば得られん」ということもある。今後も折に触れ、文学そのものに興味を持って手を出してみたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
  



2021年9月19日日曜日

論語雑感 雍也第六(その1〜2)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。雍也可使南面。仲弓問子桑伯子。子曰。可也簡。仲弓曰。居敬而行簡。以臨其民。不亦可乎。居簡而行簡。無乃大簡乎。子曰。雍之言然。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、雍(よう)や南面(なんめん)せしむべし。仲弓(ちゅうきゅう)、子(し)桑(そう)伯(はく)子(し)を問(と)う。子(し)曰(いわ)く、可(か)なり、簡(かん)なり。仲弓(ちゅうきゅう)曰(いわ)く、敬(けい)に居(い)て簡(かん)を行(おこな)い、以(もっ)て其(そ)の民(たみ)に臨(のぞ)まば、亦(ま)た可(か)ならずや。簡(かん)に居(い)て簡(かん)を行(おこな)わば、乃(すなわ)ち大簡(たいかん)なること無(な)からんや。子(し)曰(いわ)く、雍(よう)の言(げん)然(しか)り。
【訳】
先師がいわれた。
「雍には人君の風がある。南面して政を見ることができよう」
仲弓が先師に子桑伯子の人物についてたずねた。
先師がこたえられた。
「よい人物だ。大まかでこせこせしない」
すると仲弓がまたたずねた。
「日常あくまでも敬慎の心を以って万事を裁量しつつ、政治の実際にあたっては、大まかな態度で人民にのぞむ、これが為政の要道ではありますまいか。もし、日常の執務も大まかであり、政治の実際面でも大まかであると、放漫になりがちだと思いますが」
先師がいわれた。
「おまえのいうとおりだ」
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 大学を卒業し、銀行に入ったのは1988年の春であった。同期は330人くらいいたと記憶している。その中でも同期のKは、一見すると遊び人風で(実際もそうなのであるが)、行動はどこか破茶滅茶的なところがあって、お世辞にも銀行員的とは言えない人物であった。しかし、天下のW大学ラグビー部でレギュラーを取った男でもあり、それだけでも尊敬に値する男である。そんな同期の彼が、一部上場企業の社長になったと報じられた。同じ同期ながら、ずいぶん差がついてしまったものである。

 彼の持ち味は明るくて、破茶滅茶なところはあるが、その実友人知人を大事にするところがある。どちらかと言えば、1人でいることを好む私とは対照的で、彼は人が集まるところの中心にいるような人物である。銀行に入った頃の彼は、とても社長になるような男には見えなかったが、おそらく社会人経験を積む中でそれなりのものを身につけ、そして持ち前の人柄で人脈を得て今の地位を築いたのだろうと思う。大まかなところは銀行員ぽくはないが、こせこせしない親分肌の気質は、人の上に立つに相応しいものだろうと思う。

 最後に彼に会ってからもう10年以上会っていないが、Facebookでその活躍は知っていたが、私にはないものをことごとく持っている男である。「日常あくまでも敬慎の心を以って万事を裁量しつつ、政治(=経営)の実際にあたっては、大まかな態度で人民にのぞむ」という言葉通りの男であると思う。一方、社長とは言え、「日常の執務も大まかであり、政治(=経営)の実際面でも大まかである」人物も知り合いにはいる。その人の会社はまさに迷走状態であった。政治も経営も核にあるのは同じなのだろう。

 ずいぶんと会っていないが、会えば彼はあの頃のように接してくれるだろう。銀行チームの同じジャージを着てともに試合に出ていたあの頃のようにである。同じチームではありながら、一流チームのトップでプレーしていた彼に遅れじと張り合っていた気持ちは今も私にはある。立場では雲泥の差がついてしまったが、私は私で今の立場で恥ずかしくない行動を取りたいと考えている。方や東証1部上場企業のトップ、方や中小企業の1事業部長ではあるが、自分の立場で胸を張って彼に自分の仕事の説明をしたいと思う。それにはそれなりのものがないといけない。

 先日、新入社員向けの研修では、「どんな事があっても『言われてません』、『指示されていません』とは言ってはいけない」という話をした。それを言った瞬間、「自分は指示待ち族である」と公言することになる。いい年したサラリーマンでも、結構平気でこの言葉を使っている。仕事は自ら考え、自ら動く事が大事。1人でいることを好む性分ではあるが、仕事ではどうしても人と関わり合わないといけない。であればそれなりに人の輪の中で影響力を発揮したいと思う。自分より経験の浅い人には、大らかに接しつつ、影響力を持てるようにしたい。

 人はやはり大まかな態度で接してくれるリーダーについて行きたいと思うものだと思う。自分の経験を振り返ってみても、小さなミスや漏れをネチネチと詰める上司には嫌悪感しか抱けなかった。自分もそうならないようにしないといけない。彼はきっとそんな態度は微塵も見せないだろう。こせこせしないのもその通り。仕事は1人ではできない以上、信頼して任せつつ、上手く行くように心配りをし、いざとなれば己の責任を全うする。それが人君の風を備えた彼に対する対抗策であるように思う。

 たとえ差があったとしても、彼に対しては常に恥ずかしくない自分でいたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
    



2021年9月16日木曜日

新人教育

 転職して1ヶ月。なんでもありの総務部であるが、会社の将来を見据えた上で「人材育成」が必要であると考えている。技術的なことには手は出せないが、それ以外なら何かできるかもしれないと考えて色々と調べていたら、新人向けの教材を借りられることが判明した。取引銀行が提供しているサービスである。そこで早速、DVDを取り寄せた。それは「会社の常識・非常識」をテーマにしたものである。そこでは、新人と上司との「常識ギャップ」が採り上げられていた。

 2時から会議と言われ、2時ぴったりに会議室の席に着く新人。それを見ていた上司は「せめて5分前には来い」と言う。「それならそうと言ってくれればいいのに」と思う新人。ここんな調子でいろいろな「会社(社会)の常識」が採り上げられる。そこで奇異に描かれるのは、「常識」を知らない新人たち。我々世代から見ると「今時の若い者は」と言いたくなる若者たち。いつの世も若者はおじさんたちの頭を抱えさせるものという姿。

 どうして世の新人たちはこうも常識知らずなのだろうかと考えてみる。
しかし、考えてみれば私も新人の頃は日々ムカムカしていたのを思い出す。「そんなこと言ってくれないとわからないだろう」ということは結構あった。「仕事は盗むものだ」と教えられ、「そんなの非効率だろう」と腹の中では思っていた。「新人類」という言葉が世に広まったのは、私のすぐ後の世代である。だが考えてみればそれは当然だとわかる。

 新人たちはそもそも会社の常識など知らずに入ってくる。おじさんたちにとっては「常識」であっても、それを知らない新人たちにとっては「常識」ではない。以前、イギリス王室に食事に招かれた外国の賓客がディナーの席でフィンガーボールの水を飲んでしまったと言う。女王はその賓客に恥をかかせないように自らフィンガーボールの水を飲んだというエピソードである。しかし、フィンガーボールを使う習慣(常識)のない外国人には何の水だかわからないだろう。そしてそれを「常識知らず」というのは間違いである。

 新しい環境に入れば「常識」を知らないのも当たり前。みんなそこから教えられて「常識」が身に付いていくのである。今の世のその「常識」を支えているのは、かつての「新人類」である。ではどうするか。「常識」人であれば、非常識人である新人に面倒でも気がついたら教えるべきだろう。「休暇を取りなさい」と部長に指示された新人が忙しい年度末に休暇を取ろうとして上司に呆れられるが、そういう常識を知らなければそういうことになる。「今の若い者」はという前に、休暇はあらかじめ忙しい時期を避けて取るものだと教えるしかない。もっとも、ちょっと気が効く新人なら「いつ取ればいいのか」と聞くかもしれない。

 新人からすれば、こうした「常識ギャップ」を乗り越えるためには、とにかく聞くしかない。コピーを取れと言われたら、「どのように取れば喜ばれますか」とでも聞いてみればいい。新人のうちはトンチンカンなことを聞いても大目に見てもらえる。それは新人ならではの免罪符である。始めは一々聞くのも気が重いかもしれない。それに対して必要なのはマメにコミュニケーションを取ることだろう。上の人に話しかけ難かったら、とにかく始めは挨拶からすればいい。1日に1回でも目を見て挨拶していれば、おじさんたちの方から話しかけてくるかもしれない。

 DVDでは「報連相」も採り上げられていた。「報連相」は新人に限らず大事であるが、新人にとっても大事である。良くありがちなのが、「報連相」しようと思っているが、上司が忙しそうでついつい気後れして黙っている。DVDでは「3時までに仕上げろ」と言われていた資料作成で、新人くんがわからないことがあって手が止まり、3時を過ぎて上司から怒られるというシーンがあった。「わからないならなぜ聞かない」と怒られるのだが、新人くんの気持ちもよくわかる。

 我々ぐらいのベテランになれば、相手の様子を伺って話しかけるというのは何の抵抗もない。緊急性が高ければ、忙しそうな相手でも「ちょっとすみません」と遠慮なく言える。だが、新人くんにはそういう感覚はわからない。私が上司であれば、3時になってできたかと聞くのではなく、途中で様子をチラ見しながら「わからないことはないか」ぐらいは聞くだろう。あるいは余裕のある資料ならわざと放置して様子を見るかもしれないが、そういうケースを除いては、やはり上司の方が気にかけるべきであろう。

 それはさておき、新人のうちは報連相のタイミングなどわからなくても当然である。コツはとにかく怒られても気にせずに話しかけることに尽きる。そのうち聞くべき内容の重要度と相手の様子とのバランスを見て話しかけるタイミングをつかめるようになってくる。私からすれば、新人相手に怒る方がおかしいと思う。それと怒られたとしても、「怒られた」と取るのではなく、「教えてもらった」と捉えるメンタリティも必要だろう。

 自分もそういうノウハウを教えられていたら、新人の頃の職場をもう少し気持ちよく過ごせていたと思う。まぁ、みんな自分の仕事が忙しかっただろうし、それで給料がもらえるわけでもないし、仕方がなかったのだろう。新人の研修も誰から言われたものではないが、会社の将来のためにはなるだろうし、自分の経験にもなるだろうから、半分楽しみながらやっているところもある。第2回目も予定しているので、今度はもう少しブラッシュアップしてやりたいと思う。

 会社の将来を背負う新人たちに何か残せるものがあるといいなと思うのである・・・


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【本日の読書】
  



2021年9月12日日曜日

仕事のやり方

 転職して1ヶ月。ほぼ社内の様子には慣れ、仕事の内容も概ね把握し、自分のペースで仕事をこなしている。当然ではあるが社内にはいろいろな人がいる。これまで銀行に26年半、不動産会社に6年半勤めていたが、今度の会社はまた違う人たちがいて面白い。仕事の内容が変われば当然とも言えるが、そうは言っても仕事の「やり方」というものはそう変わらない。仕事のできる人、できない人というのもそれぞれいて、しかしながらそれぞれ共通しているものだと改めて思わされる。

今度の会社の部下の1人は、若手の3年目。言われた事はそつなくこなす。直属の上司曰く、
「一つ仕事を頼むとプラスαを乗せてやってくれる」。
これはなかなかいい傾向である。仕事は、たとえコピー一つにしても考えてやれば違いをもたらすことができる。ただ、コピー機のボタンを押すだけではなく、どういう資料でどういう状況で使うのか、どういう風にコピーを取れば使いやすいのかと考えて取るだけで大違いである。私がサラリーマンの「三種の神器」の一つと考える「創意工夫」である。頼もしい部下を持ててありがたいと思う。

 一方、あまりできのよろしくない人もいる。あちこちで怒られている声が聞こえてくる人がいて、耳をすませてみると「なぜやっていないのか」と問われて、「(やるように)指示されていません」と答えていた。これはサラリーマンとしては最悪に近い回答である。典型的な「指示待ち族」である。しかもその仕事の担当者はその人なのである。自分の担当であればなおさら「やらなくてもいいのだろうか」と思わなければいけない。自分が担当で一番よくわかっているわけであるから、「何を成すべきか」を考えていないといけない。指示されていないのなら(指示がないと動けないと思うのなら)、「やらなくてもいいのですか」とか、「やってもいいですか」と自ら指示を出してもらうよう働きかけるぐらいでないといけない。

 そもそもなぜそういう回答をするかと言えば、おそらくその人は常に「やらされ仕事」をしているのだろう。仕事は自ら作り出すものである。たとえ最初は指示されたことからスタートするにしても、どこかで自分主体にならないといけない。ところがいつまでも受け身のままだと「言われるまでやらない」という事が身に染みつき、それは思考レベルで浸透するから、言われるまで自分で考えるということをしなくなる。言われて初めてスイッチが入るから(=自分がやらなければいけないとわかるから)、慌てて「聞いていません」、「指示されていません」となってしまうのだろう。

 そういう人は、A=Bだと教えられると、A=Bだと理解する。B=Cだと教えられると、B=Cだと理解する。しかし、そこで思考停止してしまい、それではつまりC=Aなんだなというところまで気がつかないのである。先日もある役所への申請について、疑問に思い調べてみたのだが、担当しているその人に聞けばあるケースAをピックアップして申請しているとのこと。しかし、ちょっと考えてみたところ、その趣旨からするとBというケースでも申請していいのではと疑問が湧いた。そこで役所に確認したところ、申請可との回答が得られた。それに該当するケースがかなり見つかったのである。

 私も初めての業務であるが、ちょっと「考えて」みればわかることなのである。少なくとも疑問には思えるだろう。そうしたら聞くなりなんなりして調べてみればいい。それだけでその仕事をより深く理解する事ができる。しかし、「言われたことだけ」やっていてはそういう疑問すら持てない。あるいは疑問にぐらいは思ったのかもしれないが、「言われてもいないことはやらなくてもいい」と考えたのかもしれない。そういう思考習慣が根付くと大変である。

 たとえば経理の仕事についたら、言われるがままに伝票を切ったりという作業から入るかもしれない。慣れてきたら、これはどうしてこういう勘定科目でどうしてこういう記帳をするのだろうと疑問に思うべきである。そしてそれを一つ一つ確認していけば、「ではこういう場合は」という疑問が次々に湧いてくる。やがてもっと詳しく知ろうと思えば、本を買って簿記の勉強を始めることもできるし、長じて簿記の資格を取ろうとすることもできる。自分の担当する仕事をそうして極めようとすれば、やがてその道のプロとなれる。それは決して「指示されていないから(やらない)」という思考回路からは出てこない。

「給料以上の仕事をするのは損」という考えがあるが、それは極めて害のある考え方である。給料以上の仕事をしたら損というのは目先のことしか考えていない。それではいつまでたってもその給料しかもらえないということに気づいていない。
「下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番になどしておかぬ」(小林一三)
なのである。日本一になるには指示を待っていてはなれない。とても大事な思考習慣である。かの人はもう大ベテランであり、残念ながら長年の思考習慣はもう変えられないであろう。

 人の振り見てではないが、他人の様子はよくわかるもの。自分は大丈夫だとは思うが、今一度油断がないかは意識したいところ。新しい環境であるがゆえにいい緊張感もあるし、そのあたりを改めて自分も強く意識したいと思うのである・・・


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【今週の読書】



2021年9月9日木曜日

島耕作と菅総理

菅首相、退陣へ 自民総裁選に不出馬―政権運営行き詰まり
2021年09月03日13時38分
菅義偉首相(自民党総裁)は3日の党臨時役員会で、17日告示、29日投開票の総裁選に立候補しないと表明した。新型コロナウイルス対応への世論の不満などから内閣支持率が下落する中、党内で「菅離れ」の動きが広がり、総裁再選は困難と判断した。首相は後継の選出を待って退陣する見通しだ。
時事ドットコム
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  ネットで無料漫画をよく読んでいるが、最近気に入っているのが『島耕作』シリーズである。これも面白いもので、学生から始まってヤング、主任、係長と出世していき、最後は会長、相談役にまでなるサラリーマンの出世物語である。それぞれに面白いのだが、先日読んだのは、『ヤング島耕作』のある話。それはまだ島耕作が3年目の若手の頃の物語で、島耕作は会社の寮に住んでおり、同じ部屋の2年目の若手の相談に乗るという内容である。

 その若手は、学生時代からコツコツ努力せよと教わり、それを実践して高卒ながら大企業である初芝電産に入社する。ところが入ってみれば真面目に働いた人が必ず報いられていないうということに気づく。むしろ調子よくやっている者の方が上司から可愛がられている。そういう者は、上司の見ていないところでは手を抜き、それでも評価されているが、一生懸命コツコツ努力し続けている自分は評価されていない。そんな悩みを島耕作に打ち明けるのである。

 そんなエピソードを読んでいて、自分もまさに同じように感じていた若い頃を思い出していた。私もどちらかと言えばコツコツ努力するタイプである。上司に媚を売る暇があったらその分努力する。上司が見ていようといまいと仕事に対するスタンスは変えない。それを良しとしていたのである。ところがお調子よくやっている同期が評価され、自分はそれ以上に努力しているのに評価されない。上司に誘われて飲みに行っては楽しく過ごす同期の男は「頑張っている」と評価され、自分も負けずにやらないとダメだと叱咤される。おかしいだろうと不満を抱えていた。

 私の同期の男も頑張ってはいた。だから評価されるのは当然だと思うが、その「頑張る方向」が私とは違っていたのである。取引先係のその同期と融資係の私とでは仕事の内容も違うから、ある程度は仕方がない。スポーツで言えば攻撃側は華々しく見えるが、守備側は地味である。そんな違いもあったが、上司に誘われても基本的に飲みに行かなかった私のスタンスもまずかったと思う(もちろん、喜んで行きたくなる上司は別である)。今振り返ってみても、サラリーマンとしては間違いなく世渡りはうまくなかったと思う。仕事だけきちんとやっていればそれでいいという考え方であったのである。

 正しく実力だけで評価して欲しいと思うのが人情だが、会社というところは残念ながらそうではない。結局、「愛いやつ」、「覚えめでたいやつ」の方が出世したりする。サラリーマンとして最も大事なものは、間違いなく「コミュニケーション能力」だと思う。実力は二の次である(もちろん、実力がなければそもそもダメであるが、「ある程度の実力」で十分である)。今でこそそう理解できるが、当時はそれがまだ理解できず、理不尽さに憤り続けていたものである。そんな経験があるからこそ、この場面に心惹かれるところ大であったのである。

 長期政権であった安倍晋三前首相の後を受けて総理になった菅首相が総裁選の出馬断念を表明した。支持率低下に歯止めがかからず、地方選挙でも負けが続いている状況であり、やむを得ないのかもしれないが、ちょっと残念に感じたニュースである。確かに話をしている姿とかに、どうも覇気のなさを感じさせるし、人気が出るタイプでは間違いなくない。イメージでだいぶ損をするタイプだと思う。しかし、伝わってくる評価では、ずいぶん仕事のできる人だと言う。評価はされていないが、実績も上げている。なんの後ろ盾もなく総理大臣にまで登りつめたのだから、考えてみるまでもなく、その通りの実力者なのだろうと思う。だが、それだけではダメなのだろう。

 国民の立場からすると、政治家は一様に何をやっているのかはよくわからない。わかるのは、テレビに出て話をしているところだけである。よほど興味を持ってその発言や功績をフォローしていないと、一般人には政治家の実力なんてよくわからないだろう。支持率なんていい加減で、その時々の雰囲気でコロコロ変わったりする。マスコミの報道も偏っているし、よほど意識しないと報道されるイメージに惑わされてしまう。コツコツ努力していたって、目につかなければそれまでだし、暗いガリ勉タイプより明るい性格のやつの方が上司には好かれるものである。それはサラリーマンでも政治家でも同じなのだろう。

 悩む若手に、島耕作は世の中は理不尽なものだと思った方がいいとアドバイスする。ものごとはあまりこうだと決めて考えない方が楽だとアドバイスする。そして寮の4人部屋仲間と麻雀をやれと勧める。禁止されているからと抵抗する若手に「だからやれ」とアドバイスするのである。今の私から見れば、いいアドバイスだと思うが、私もあの頃こういうアドバイスが欲しかったなとつくづく思う。さすれば、その後の銀行員人生もずいぶん変わっていただろうと思わざるを得ない。

 菅総理も忸怩たる思いをしているのかもしれない。私は別に自民党支持者でも菅総理支持者でもないが、政治家は根暗でも力強く話せなくても、何をやっているのかわからなくても、実はしっかり仕事をしてくれているというタイプが私はいいと思う。次の総裁には誰がなるのかわからないが、これで引退するわけではないし、菅さんには引き続き国会議員として国民のために働いていただきたいと思う。自民党支持者ではないが、共産党や立憲民主党などの「なんでも反対」野党よりは自民党の方がはるかにマシだし、そういう意味では自民党の「消極的支持者」であるとも言えるので、頑張っていただきたいと思うところである。

 世の中は理不尽である。
それはもう十分理解している。それでも、とあえて思う。イケメンでテレビ映えがするとか、コミュニケーション巧みで「愛いやつ」であるとか、そういうことではなくて、純粋に「仕事ができるか」という実力本位で評価して欲しいものだとつくづく思う。政治家であってもサラリーマンであっても。コミュニケーションが大事であることは否定しない。私も今では仕事で必要なコミュニケーション力はそこそこついたと思うが、それでもやはりコツコツと努力してやった仕事の内容に対して100%評価される世の中であって欲しいと思う。

 そういう世の中で私は働いてみたかったとつくづく思うのである・・・


Maryam62によるPixabayからの画像


【本日の読書】




2021年9月5日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その27)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、十室(じっしつ)の邑(ゆう)、必(かなら)ず忠(ちゅう)信(しん)丘(きゅう)のごとき者(もの)有(あ)らん。丘(きゅう)の学(がく)を好(この)むに如(し)かざるなり。
【訳】
先師がいわれた。「十戸ほどの小村にも、まじめで偽りがないというだけのことなら、私ぐらいな人はきっといるだろう。だが、学問を愛して道に精進している点では、私以上の人はめったにあるまい」
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 銀行に入り、初めて持った部下はどうにもできの悪い男だった。頭は悪くなかったが、それが故にか理屈先行のところがあり、物事を自分勝手に解釈して行動するところが多々あった。それまでにも随分怒られていたようであるが、私が着任してからは何とかしたいと指導していた。ある時、その男が私に言った。「仕事は真面目にやります」と。それがさも自分の得意なこと、自信を持って言える唯一のことであるかのようにである。私も自分自身そういう気持ちがあったから彼の気持ちはよく理解できた。だが、違うのである。

 仕事を誠実にこなすこと。真面目にこなすことは大切なことである。その裏には、「真面目にやっていない者がいるが私は違う」という意識があるのだろう。それはそれでよくわかるが、それでも違う。なぜなら、真面目に働くことは「当たり前」のことであるからである。小学生が「毎日学校に行っています」というようなものである。もっとも、大学生であれば、「毎日学校へ行っている」のは真面目だと自慢してもいいかもしれない。しかし、それは普通、当たり前のことであり、わざわざ強調することではない。

 サラリーマンであれば、毎日会社へ行くことは当たり前であり、真面目に仕事をするのも当たり前である。もっとも、社員の質が下がればその当たり前が当たり前でなくなることもありうることであろう。ブルーワーカー系だとそういう社員の比率は高いと思う。父が中学を卒業して田舎から出てきて住み込みで働いていた時、その真面目な働きぶりに感心した社長の奥さんがこっそりと小遣いをくれたと言う。真面目な父らしいエピソードだが、おそらくみんながみんな父のような真面目さだったらそうはならなかっただろう。

 真面目というのは一つの取り柄であるのは確かである。しかし、取り柄になるというのは、それが希少価値を持っていることが必要である。つまり誰もがみんな持っていたらそれは取り柄にはならない。銀行のように真面目な人間がたくさんいる会社では、それは取り柄にならない。彼はそれに気づいていなかったのだが、一方で真面目に働いていればそれで免責されると勘違いしていたのかもしれない。「いろいろと怒られてはいるが、仕事は真面目にやっている」という言い訳だったのだろうと思う。

 そうして「自分は真面目に働いている」ということが自分自身に対する評価になるのはいいのであるが、問題はそれが「当たり前」の会社の中ではどうなるかということである。社員の質が高くなれば、みんなが真面目に働いているから、当然ながら真面目に働くのは大前提で取り立てて言うほどのものでは無くなる。そうなると、もう一歩必要になってくる。孔子はそれを「学問」としたが、我々サラリーマンでは、それは「仕事」であろう。「愛して精通」などと言えばワーカホリックのようなイメージであるが、単純に一生懸命やっているかということであろう。

 かつて「24時間戦えますか」という言葉が流行ったが、今はそういう世の中ではない。さしづめワークライフバランスというところであるが、これは「仕事も生活も緩やかに」ということではないと私は思う。あえて言えば、「仕事も生活も一生懸命に」だろう。当たり前だが、人間は毎日1日ずつ死に向かっている。1日1日が大切な日々のはずである。
「あなたが虚しく生きた今日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日」(『カシコギ』)という言葉があるが、せっかくであれば自分も平凡な毎日を一生懸命生きたいと思う。

 転勤によって別の職場になって以来、あの時の部下とは一度も会っていないが、今どうしているのだろうかとふと思う。今も「真面目に」働いているのだろうか。考え方が変わっていないとしたら、銀行では残念な境遇にいるかもしれない。あの頃の私には大して指導力もなかったから、それはそれで申し訳なかったと思う。まあ、ほどほどにワークライフバランスしているのかもしれない。

 また明日から新しい1週間が始まる。かく言う自分もしっかりと一生懸命、ワークライフバランスしようと思うのである・・・


Gerhard G.によるPixabayからの画像 

【今週の読書】



2021年9月2日木曜日

紙か電子版か

 趣味でもあって本はよく読む。本を読むのは主に電車の中。いつの頃からか通勤電車は私の貴重な読書タイムである。であるからここ10年来、通勤が苦だと思ったことはない。むしろ7年前に転職した際、通勤時間が過去最長の1時間半になった時も、むしろ喜びを覚えたくらいである。そして今回、二度目の転職に際し残念だったのが通勤時間が半分になったことである。まぁ、物は考えようという典型かもしれない。そんな読書タイムに読む本はいまだ紙の本である。

 近年は電子書籍が幅を利かせてきている。確かに電子書籍はかさ張らないし、スマホで読めるので便利である。パラパラめくるのは面倒だが、後から戻って読み直すことも、「付箋」をチェックしておけば紙の本と同じように後から簡単に読み返すこともできる。みんなスマホに入ってしまうから何十冊、何百冊という蔵書を持ち歩くこともできる。私のように行きと帰りとでそれぞれ別の本を読む人間にとっては、大きさもまちまちな本を少なくとも2冊以上持ち歩く必要もなく、便利この上ない。ただ、なんとなくの抵抗感を除いては、であるが・・・

 最近、新聞も紙の新聞から電子版に切り替えた。値段が安いというのもあるが、パソコンでもスマホでも読めるという手軽さが良さそうに思えてである。ただ、やはり紙の新聞の優位性は動かない。電子版でも確かに紙面と同じ記事を読むことはできる。しかし、パラパラとめくっていって、ふと目についた記事を読むというのが電子版では少ない。紙面であればまず一通り目を通すことができるが、電子版だとその頻度が落ちてしまう。「目に入ってくる」のと「探しに行く」の違いと言える。そしてこの違いは大きい。

 日経新聞の場合、電子版の良さは記事の保存とかこの記事の読み返しであろう。あとであの記事を読み返したいとなった場合、紙の新聞だとガサゴソと古新聞を漁らないといけないが、電子版だと検索できる。保存しておけば検索の手間もいらない。また、私の履歴書など過去の特集も読むことができる。新聞の場合、「目に入ってくる」ことが少ないというデメリットはあるが、メリットがそれを上回る。

 電子版は漫画も同様である。こちらは一長一短だろうか。かつて漫画小僧だった私は今でも漫画を愛する。最近はもう紙のコミックを買うこともないが、無料漫画を楽しむか、『鬼滅の刃』など最近のものはKindleで購入している。昔の漫画は見開き両ページを使った場面があったが、電子版だと半分に割れてしまう。両ページであれば迫力だったものが、半分ずつだと半減してしまう。ただし、最近の電子版を意識した漫画だと、「縦読み(縦にスクロールする)」というものもあり、横に読んで行くタイプと異なる画面構成が可能になっている。これはこれで面白い。

 電子版の最大のメリットはやはり「保管」だろう。私の部屋の本棚はなるべく増やさないようにしようと思っても、やむなく溜まっていく本や漫画がかなりのスペースを占めている。これがすべて電子書籍であったらさぞかし部屋も広くなると思う。紙の本を買うのをやめれば、「スペース」のメリットは果てしなく大きい。とは思うものの、まだどうしても紙の本に心が残ってしまう。新しいテクノロジーが登場した時、どうしてもついていけない人がいる。老人が最たる者であるが、紙の本に執着が残るのは「そういうことか」と思う気持ちもある。

 紙には紙の良さがあるとは思う。ただ、だからと言ってそれに固執するべきであろうか。「スマホは画面が小さい」というデメリットを挙げてみる。それは確かにその通りであるが、よくよく文字の大きさを比べてみると、大して違わない。それにタブレットなら大きさの問題はない。立ち読みでパラパラと本をめくり、読むか読まないかを決める場合は、紙に軍杯が上がる。だが、実はそうやって読む本を選択するケースは私の場合ほとんどない。書評から選ぶのが大半だからである。

 購入ということを考えてみると、電子版の方が若干安い。ただ、古本ということになれば紙に軍配が挙がる。電子版では読み終わった本を売ることはできないし、買うこともできない。電子版には「古書」という概念がない。さらに「借りる」ということが電子版にはできない。私がKindleで購入した場合、紙の本であれば子供に簡単に読ませることができるが、電子版だとアカウントを共有する必要がある。幸い子供に知られて困る類のものはないが、読書のプライバシーは守れない。(今のところ、かもしれないが)図書館で借りることもできない。

 紙の本がいいのか電子版がいいのかという議論は不毛であると思う。電子版は一つの形態であり、好きな方を選べば良いと思うからである。実際、電子版では無料で読めるものも多く、古い本が公開されていることもある。たまたま目について読んだものでも、『遠野物語』、『善の研究』、『堕落論』等多数ある。本屋でブラブラするのと同じように、オススメとして表示されるのは電子版ならではである。どちらがいいかとあれこれ考えるよりも、あれもこれもと考えたいところである。

 それにしても便利になってきたものだと思う。かつては立派な本棚がステイタスだったが、これからは不要となるのだろう。あるいは「見栄え」で必要とされるのかもしれないが、私個人としてはスペースのメリットに魅力を感じる。先行きのところはわからないが、とりあえず漫画はすべて電子版になるだろう。小説やビジネス書の類は都度判断だ。今の段階でどちらがいいというのではなく、柔軟に使い分けていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】