2009年11月28日土曜日

お受験雑感

 子供が大きくなると必然的に「お受験」という言葉が耳に入ってくる。長女がかつて通い、長男が今通っている幼稚園は近所ではちょっとした「お受験用幼稚園」と言われている。けっこう離れたところから通ってくる子も多いようである(ちなみに我が家がこの幼稚園を選んだのは「家から一番近いから」である)。よその家の事はあれこれ言うつもりはないが、どうにも理解できない。

 そもそも何のためにお受験などさせるのか、常々興味があるので機会があれば聞いている。ある先輩は幼稚舎からの筋金入りの慶応ボーイ。こよなく慶応を愛する彼は当然の如く、子供を幼稚舎から慶応漬けにしようと夫婦で面接に行っていた。私も母校には愛着がある。だからその先輩の行動には十分納得できた。

 「公立だと荒れているから行かせたくない」、「公立だとゆとり教育の弊害でだめになる」という理由も納得できる。何より朱に交われば何とやらだし、女の子の親であれば当然だろう。また、日教組の掲げる教育方針・理念といったものは誠に理解に苦しむものである。山梨や広島や、東京でもちょっと前の国立市などはひどいものだったから、そういうところを避けるために私立へ向うのも理解できる(ちなみに私は子供たちにはしっかりと愛国心教育を授けたいと思っている、もちろん「君が代」も「日の丸」も大事にさせたい)。

 納得できないのは、「将来のため」とか「受験で苦労させないため」とかいう「表面上」子供のためを思っての「わかったつもりのお受験派」の勘違いペアレンツだ。そんな理由で私立の一貫校に入れようとする。それは大きな過ちだし、そういう親に限って「入れたら安心」して終わるのである。私は「受験大いに結構派」である。

 受験は一つの試練だ。自分自身高校受験の時はかつてない不安と緊張感を味わったし、大学受験は一度失敗し、しかもその時、一緒に受けた子供の頃からのライバルが目の前で受かるという屈辱も味わった。捲土重来の2度目の受験は、「後がない」「2度も落ちてライバルに見下されたくない」というプレッシャーに押しつぶされそうになりながら宅浪生活を送った。それらの「苦労」は精神の筋肉となって今も残っている。

 そういう苦労はむしろさせるべきなのだ。そうして鍛えれば、精神に筋肉がつく。我が子を温室に入れて育て上げ、いつまで温室で育てられるというのだろうか。卒業したらいきなり世間の寒風にさらすのだろうか。親はいつまでも子供を守れるわけではない。ならば親がサポートできる間に我が子を試練にさらすべきなのだ。そして受験はその試練としては適度な機会だと思うのだ。

 将来のためと言って仮に一流企業に入ったとしても、今や出身大学によって出世が約束されているわけでもないし、上場企業でも倒産するし、リストラだってある。仕事で失敗する事もある。その時学歴という看板はまったく役に立たない。まあ東大法学部を出て官公庁へ行けばまだ何とかなるかもしれないが・・・

 この恵まれた我が国で、毎年3万人を越える人が自ら命を絶つ。さらには鬱で会社にいけなくなる人も数多い。その理由はさまざまだろうし、一概には言えないと思うのだが、精神的なタフさがあったら少しは数字も変わるのではないかと思う。そんな精神的なタフさは早くから鍛えるに越した事はない。

「子孫に美田を残さず」
「可愛い子には旅をさせろ」
「獅子は千尋の谷に我が子を突き落とす」
これらの言葉が何を意味しているのか、今一度よく学べと「わかったつもりのお受験派」の親には言いたくなる。

 「我が家に美田なんてないじゃない」
ぼそっと妻に言われた一言に、「今に見ておれ」と心に誓うタフさも受験の賜物だと信じて疑わない私なのである・・・


【本日の読書】
「株の勝ち方はすべて外国人投資家が教えてくれた」中原圭介


     

2009年11月25日水曜日

歴史について想う

 明日は旧暦で言えば亥の月(旧暦十月)の最初の亥の日で、昔から亥の月の亥の日に暖房器具を使い始めると安全で火難を逃れるという言い伝えがある。上記のような習わしから亥月亥日は「炬燵の日」あるいは「炬燵開き」とされ、江戸の頃は武家では亥月最初の亥日、町民は亥月二の亥日に暖房を使い始めたそうである。
 そして、茶の湯でも明日は旧暦十月朔日(ついたち)、中旬の亥の日に行われる「炉開き」は、それまでの風炉をしまい茶室に地炉を開き新茶を楽しむことから、茶の湯の正月とも言われている。お茶をやっている方にはお馴染みだろう・・・
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 私はいつの頃からか歴史好きである。自分の生まれる以前の世の中を想像しては、そこはどんな世界だったのだろうと考える事が好きなのだ。日本史や世界史や人類史やらいろいろあるが、そのどれもが興味深い。

 学校では日本史・世界史と色分けしていたが、私は「世界史」派であった。特に理由があったわけではなく、「なんとなく」というのが正直なところである。もっともどうしても受験勉強となってしまうのが学校で習う歴史というもの。受験勉強というとへどが出るくらいやったからもう二度とごめんだとは思うものの、それでも世界史だけは苦にならなかった。

 ただ、今考えてみると、受験用の世界史というと何年に何があったという事実を学ぶのが大半だったように思う。当然の事ながら、歴史にはなぜそうなったのかという事情があるのだが、多くの場合それらはほんの申し訳程度にしか語られていない。

 そうして一生懸命覚えた年号も最近は変わってきているものもあるらしい。例えば「いいくに作ろう鎌倉幕府」で有名な鎌倉幕府の成立は1192年であった。ところが最近の教科書では1185年(いいはこ作ろう鎌倉幕府)らしい。実質的に幕府が成立したのは1185年、1192年は源頼朝が征夷大将軍に任じられ、「名実ともに」幕府が完成した年という事らしい。まあ事実は一つなわけで、それはそれでいいのであるが、一生懸命年号を覚える勉強のあほらしさがわかるというモノである。

 受験生の頃は世界史派であったが、最近はもっぱら日本史派だ。そのきっかけとなったのは 「逆説の日本史」シリーズだ。これがほんとうに面白い。たんなる事実の説明ではなく、それはなぜなのか、当時どんな事情があったのかを推測も交えて考証していく。

 著者は、「資料が残されていないからといってその事実がなかったということにはならない」と資料絶対主義に反旗を翻して歴史を順に語ってくれる。資料が残っていないものについては仮説を立て、ただ単に何年に何があったというものではなく、事実はこうだったのではないかと歴史を語っていくのである。そしてこのたび楽しみにしていた16巻が発売された。ほぼ1年に1冊のペースで発売されているが、毎年読むのを楽しみにしている。

 その昔、小学生の頃、「歴史学者になりたい」と母親に言った事がある。無邪気な子供の夢は「よしなさい、食べていけないわよ」という母親の無情なアドバイスで砕け散った。だが、「逆説の日本史」を読んでいるうちに、やっぱり自分でも研究してみたいと思うようになった。将来名所旧跡を訪ねながら、歴史を研究してみるというのも面白いかもしれないと思っている。

 いつかそんな生活をしてみたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「マスターの教え」ジョン・マクドナルド
「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」田中森一

 
    

2009年11月23日月曜日

早慶戦

 11月23日はラグビー界では「早慶戦の日」として知られている。伝統ある両校(慶応のグラウンドには日本ラグビー発祥の地の碑が立っている)ゆえ、12月第一日曜日の早明戦とあわせて不動の日程である。そしてこの日には同じ対抗戦グループに所属する大学は公式戦を組まないという不文律もある。

 そもそも関東大学ラグビー界は対抗戦グループとリーグ戦グループとの2つがある(これ以外にも地区対抗グループがあるが、大学選手権に出場資格はない)。対抗戦とはもともと古くからある早稲田、慶応、明治といった伝統校が対抗試合を始めたのが始まりである。以来、年に一度互いの力をぶつけ合う場として定期戦を組んできたのである。

 やがてラクビーが各大学に広まるが、伝統校は新興大学とは一線を画しており、新興勢力は独自にリーグ戦グループを形成する(ちなみに弱小ながらも我が母校は1922年創部の伝統を誇り、対抗戦グループの一角を担っている)。やがて大学一番を決めるという流れができてくる。しかし伝統ある対抗戦グループはあくまでも年一回の定期戦を重視し、「順位を決める」という考え方に反発する。しかし、それが抗しきれなくなり、渋々順位を決めるようになったという経緯がある。

 最初は伝統ある定期戦第一で、その結果に基づき便宜的に順位を決めていたのであるが、何せ各校バラバラに組んでいた定期戦。試合数がバラバラで順位を決めるのが困難になってくる(慶応・東大などの保守的グループは試合数を増やさなかったし、帝京などは伝統がないためやたらとグループ内で定期戦を組んで地位向上を図っていた)。そしてとうとう今のABグループに分けて、試合数を均一化し順位が明確になるようになったのである。

 だが、定期戦の伝統は脈々と生きていて、その象徴が今日の早慶戦と12月の早明戦と言える(我が母校も東大との定期戦の伝統があり、かつてABに分かれて公式戦はなくなった事があるが、その時でも定期戦としての試合はやったのである)。聞くところによると、早慶戦・早明戦に出る事は、選手にとって限りない名誉らしい。そんな試合だからか、結果は終わってみなければわからない。他の試合ではありえない力を発揮し、その日までに何敗かして優勝戦線から離脱したチームが、全勝で来ている相手に予想を覆して勝つという事も過去にあったほどである。そんな特別の試合に際し、他の対抗戦グループ各校もこの日に試合を組まない事で、両校に敬意を示しているのである。

 そして私も今日は試合開始の5分前にはテレビの前に陣取っていた(もちろん、奥様に言いつけられていた事はすべて終わらせて、である)。試合は今年全勝同士の「事実上の決勝戦」に相応しい迫力あるものであった。観ている時に「矛盾」の元となった故事を思い出した。どんな盾でも貫く矛で、どんな矛でも跳ね返す盾を突いたらどうなるか、というあれである。その答えが今日の試合だったような気がする。どちらを応援するという事もなく、ただ良いプレーを堪能していたが、20-20の引き分けという結果は、見応えあるものであった。

 観終わると体が疼く。学生の頃は次の日の練習には力が入ったものだ。体はともかくとして、気持ちの上ではあの頃のままだ。今週末の最終戦を控え、現役の学生たちはきっと力が入っているに違いない。本日、秩父宮競技場には22,000人の観客が押しかけたそうである。まだまだラグビー人気は健在なのだろうか。ラグビー・シーズンもいよいよ後半戦。じっくり楽しみたいと思うのである・・・
      



2009年11月21日土曜日

新型インフルエンザ到来!

 昨日熱が出て寝込んでいた我が家の長女。本日さっそくかかりつけの小児科に連れて行ったところ、見事「新型インフルエンザ」との診断。ある程度予想はしていたので、昨夜から隔離して寝かせていたが、かくして我が家の3連休は家で大人しくして過ごす事になる。

 それにしても春先にメキシコで流行と騒がれていた新型インフルエンザ。国内上陸時には罹っただけでニュースになっていたが、その後は国内各地に感染拡大。そしてとうとう我が家にもやってきたわけである。変な意味で感慨深いものがある。

 そんな暢気な気でいられるのも「死ぬほどではない」という安心感からである。「私などは、早く罹れば免疫ができていい」と思っていたので、なんら逃げ隠れするつもりもなかったし、したがってマスクなどもつけようとすら思わなかった。ただ、知り合いの小児科医の先生によると「子供と年寄りと病気もちは気をつけないといけない」という事だったので、子供に移さないようにとうがいと手洗いは励行していた。

 今のところ熱はあるものの、まぁ大丈夫だろうと安心はしている。妻などは「軽く済めば予防接種も不要になるからラッキー」とのたまわっている。予防注射もやりたかったのだが、新型はできなかったのである。何せ近所の病院はどこも、かかりつけ医でないと打ってくれないという「一見さんお断り」状態。そして頼みのかかりつけ医2件はいずれも喘息やアレルギー分野に秀でたところで、それらの重い子供優先なので我が家の子供たちまで順番が回ってこない状態なのだった。

 逆に耳鼻科や整形外科などの病院で打ってもらったというお友達もいてびっくりした。何でも医者であれば要請するとワクチンをまわしてもらえるらしい。耳鼻科で打ってもらったお友達は、たまたまいつものように行ったところ、「あるよ」と言われてその場で打ってもらったとのことだ。だが、そういうところは通院歴がないので我が家の子供たちは行っても打ってもらえない。そんな凸凹があるようである。

 それにしてもウィルスの感染力は大したものである。あっと言う間に世界中に広まっていく。それだけ世界がグローバルに密接になっている証拠であるが、これが映画のように致死力の強いものだったら、人類にはなす術もないのかもしれない。そうならないようにするにはどうしたらいいのだろうか。新型インフルエンザに対する対応だけをみていると、今のところ有効な手段は「お祈り」しかなさそうである。

 せめて得意の「気合」で感染を防げるかどうか、実践してみようと思うのである・・・


【本日の読書】
「金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか」ローレンス・マクドナルド他
    
    

2009年11月20日金曜日

官と民

 前回の記事を書いていて、かつて特殊法人に出向していた時の事を思い出した。そこでは民間の各銀行からの出向者(いわゆる「民」)と国税・社会保険庁・警察からの出向者(いわゆる「官」)との混成部隊による組織であった。不良債権関連の調査をやっていたのだが、出向早々に上司となった官の方(国税局査察部ご出身の方だった)から「民間だと1億円回収するのに2億円はかけないでしょう、でもここ(官)はできるんですよ」と言われた。それまでコストに手足を縛られながら走っていた身としては小躍りして喜んだものだ。これで思い切って好きなように仕事ができる、と・・・

 しかしそんな悦びは少しの間しか続かなかった。その使い方がひどかったからだ。まず調査する先を選ぶ基準が「地方に何らかの関連があるか」であった。なぜかと言えば、その地方に「出張に行ける」からだ。だから北海道や沖縄などに関連があったりすると、それだけで調査対象に選ばれるのだ。当然、出張とは「ついでに調査もしてくる官費旅行」に近いものだった。

 半日で済む大阪での調査も、今なら(当時でも)日帰りが当たり前だが、まるまる二日かけるのは当たり前(当然二日間出社しない)。近場でもちょっと離れていれば「直行直帰」は当たり前だった。それに反発して銀行にいる時のペースで仕事していたら、やんわりとたしなめられたものだ。「気楽にやったらどう?」と。その後私が独自に選んだ調査案件は、「人気のない」純東京圏内完結案件ばかりだった。

 グループで調査分担を決める時など、地方の旅行、もとい出張案件は譲ってあげたものだ。それでとても感謝された事もある。私としても行って成果が上がると見込めるなら、人を押しのけてでも行くが、行っても無駄だと思う出張調査などに行きたくなかったのだ。よく会議では、「成果が見込めるかどうかを考えるべきだ」と主張したが、「無駄だとわかっただけでも調査の甲斐があったではないか」という官の理論に跳ね返された。「2億円かかる」わけである。

 そのうち、「官が2億円かけるところを民なら1億、いやそれ未満でできる!」と主張していたものである(もちろんやんわりと、ではあるが・・・)。しかし、そうして日々カッコいい正論を吐き続けられたのも、2年間限定出向という立場の為せるわざであった事は間違いない。ぶつかっても後腐れないから好きな事が言えたのだ。

 それに官の人達には「俺たちは儲けるために仕事しているわけではない」という「一段上の意識」がある。何せ士農工商の歴史ある国だ。利益のために奔走する者を見下す意識が、外には出さなくてもなんとなく雰囲気で感じられたのだ。そうしたモノへの反発に他ならなかったと思う。

 官の人にしても、母体に帰ればそれなりにハードワークが待っているみたいだったし、けっしていい加減な人達ばかりだったわけでもない。出向期間中は何の評価もされなかったらしいので、必然的にそうなったようだった。それに民はやっぱり「コストが嵩めばやらない」が、官は「何が何でもやらないといけない」という事もあるだろう。要は文化の違いなのである。私も官の世界に行っていたら、おそらくそんな一人になっていたのだろう。

 事業仕分けでは「無駄を省く」と息巻いているが、そもそも官の人達には「無駄」という概念がない。すべて「必要」なのだ。そうした論理を理解していないと、「本当の無駄」は削減できない。一人一人の意識が高まらないと借金は益々増え続け、つけはあとで確実に自分たちに回ってくる。それをもっと意識していきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか」ローレンス・マクドナルド他
「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」田中森一

    

2009年11月18日水曜日

事業仕分け雑感

 最近「事業仕分け」が話題を呼んでいる。
景気対策を始めとして、誠に景気の良い大盤振る舞いを約束した民主党としてはその政策の弱みである財源をヒネリ出そうとしているのだろうし、何よりも「無駄を排除します!」と言いたいが為のパフォーマンスなのだろう。それはそれで、やらないよりましだとは思うが、どうにもじれったい気がする。

 それでヒネリ出そうとしている金額は3兆円だというが、予算全体の95兆円からみればわずかだし、何よりも収入の2倍近くを使うという予算の枠組みは変わらない。宣伝効果以外は正直言ってあまりないのではないかという気もする。それに公開されているやり取りを聞いていても、どうにも議論が噛み合わない。

 それもそのはず、削る方と削られる方のそれぞれの拠って立つ根拠が異なるからだ。削られる方は必死になって「必要性」を説く。一方削る方は、「代替可能性(他-例えば民間-でできないか)」か「優先性(他と比べて優先されるべきか)」で考える。だから両者の議論は相容れない。

 「私の話も聞きなさい」とどこかのおばちゃんがヒステリックに叫んでいたが、そもそも根拠が違うのだから議論が成り立たない。「必要性」の話など聞いても仕方ないのだ。削られる方はそれが理解できていない。

 一方削る方ももどかしい。そもそも財政を立て直すなら根本からやり直さないとだめだ。イノベーションの例としてよく語られるが、「馬車を何台繋げても自動車にはならない」のだ。ちまちま「おこずかい」を削ったところで「収入の2倍の支出」という構造を変えない限り意味はない。だから「子供手当てを増やして扶養控除を減らす」というほとんど朝三暮四の政策でお茶を濁す事になる(小さい子がいる家庭はどうやら恩恵があるようだ)。

 もっと大胆に、例えば「今年の予算は前年の90%!」と決めてしまって、あとはその中で官僚に考えてもらうようにしないと解決にはならない(政治家がやってもいいのだが・・・)。日本の官僚は優秀だから、その中で効果的な予算の使い道を考えろとすれば、あれこれとうまくやれると思うのだ(民間にできる事ができないわけはない)。

 そもそも「予算は使うもの」という意識が官の人達にはある。よく巷にも伝わってくるが、「余っているから使ってしまわないといけない」とか、「使わないと必要ないとみなされて翌年からもらえなくなる」というのが実情だ。自分の財布の中のお金だったら絶対そんな使い方はしないだろう(まぁ中にはそうでない人もいるかもしれない・・・)。

 そんな官の人々のエネルギーの向う先を変えればきっとうまく行く、と考えるのは希望的観測であろうか・・・
 いずれにせよ、当の政治家も政治主導と言いながら、官をそして国民をリードしていくほどのリーダーシップに溢れるところを見せてはいない。とんちんかんな亀井さんのような政治家だけが目に付いている。始まったばかりとはいえせっかくの政権交代だし、早く何らかの効果をあげてほしいと思うのである・・・


【本日の読書】
「金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか」ローレンス・マクドナルド他
「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」田中森一
    



2009年11月15日日曜日

ノーサイド


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♪彼は目を閉じて 枯れた芝生の匂い 深く吸った
長いリーグ戦 しめくくるキックは ゴールをそれた
肩を落として 土をはらった
ゆるやかな 冬の日の黄昏に
彼はもう二度と かぐことのない風 深く吸った♪
                 松任谷由実「ノーサイド」
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 大学ラグビーは今がピーク。世間では「お正月のスポーツ」というイメージで捉えられているが、お正月に試合をしているのは、秋のシーズンの戦いを勝ち抜いたほんの一握りである。そしてそんな「ほんの一握り」になるべく、全国各地で熱い戦いが展開されているのである。

 先日も触れたが、今年のわが大学ラグビー部はいいところにきている。残り2試合に全部勝てば対抗戦Bグループで単独2位となり、史上初めてAグループ7位との入替戦に臨む事ができるのである(ちなみに1位だとAグループの8位との対戦になる)。そしてその鍵を握るのが今日の試合であった。

 残念ながら観戦にはいけなかったが、家族サービスはしていても心はグラウンド。相手は皇室ご用達の学習院大学。これまでの戦績では分が悪いが、今年は向こうも負けが込んでいる。しかもこちらが毎年分がいい武蔵大学に今年は負けている。そしてわがチームの最終戦はその武蔵大学。つまり今日の学習院大学が最後の壁なのであった。

 結果はOBのメーリングリストでまわってくるのだが、待ちきれずに「関東ラグビーフットボール協会のサイト」でチェック!その結果は・・・・
「11-36」 (T悔T)
力が抜けてしまった・・・
しかしたぶん学生たちはもっとショックだっただろう。
 
 学生のスポーツはその場限りだ。勝っても負けても同じメンバーで同じ相手と試合をする事は二度とない。次の年には4年生はいなくなっているし(一部いたりするが・・・)、4年であればもうチームのジャージを身につけてグラウンドに立つ事はない。次のシーズンには同じゼッケンをつけた誰かが駆けてゆくのだ。

 今のこの時期、そんなドラマがグラウンドでは繰り広げられている。季節は秋から冬へと移りゆく。夏には雑草取りに追われたグラウンドも枯れ草が土に混じるようになる。一試合終わるごとに二度と戻る事のない日々が過ぎてゆく寂寥感に襲われる。たぶん4年生はそんな思いに駆られている事だろう。

 残り1試合。相手は対戦成績のいい武蔵大学。気落ちする事なく、今シーズンの勝ち越しと有終の美を飾ってほしいものである。最終戦は11/29。次回はなんとか観に行こうかな。自分にとっても誇らしく、汗と涙と得難い経験がたくさん詰まっているあのグラウンドに久々に行ってみようかと思うのである・・・


【本日の読書】
なし

     

2009年11月14日土曜日

規律ある生活

 11月11日はアメリカではVeteran's Dayと呼ばれる祝日である。これは退役軍人の日という事で、文字通り復員軍人を称える日である。ずっと戦争をやっている国だけあって、退役軍人を正当に評価することによって士気を高めるという狙いもあるのだろう。これはニュースで知ったのであるが、これを聞いて先週観た映画「告発のとき」のワンシーンを思い出した。

 映画はボスのCMで今や日本でもすっかり有名人となったトミー・リー・ジョーンズが主演である。彼が演じる退役軍人は、イラクから帰還後行方不明となった息子を探しに行くが、泊まったモーテルの一室での事。四隅まで丁寧に折りたたんでベッドメーキングし、靴をピカピカに磨き、ズボンの折り目もきっちりと伸ばす。かつて現役時代の習慣が残っている事をうかがわせるシーンだ。

 個人的に軍隊生活の経験はないが、あちこちの映画で軍隊での生活態度に対するこうした厳しさを目にする。新兵などは靴がちょっと汚れていたというだけで、重装備で走らされたりする。そんなシーンを目にしているので、軍隊というところはそういうところだと何となく知っているのである。

 そうした規律がなぜ必要なのかと言えば、やはりちょっと間違えば命を落とす世界だからであろう。命令は忠実に果たさねばならないし、武器も普段から嫌というほど整備しておかなければならない。いい加減に扱えば命取りだ。厳しすぎるくらいきっちりしていなければならないというのも頷ける。

 ただ、先の映画でも「部隊内で盗難が多い」というセリフもあった。そういえば、昔習志野自衛隊とラグビーの試合をした時も、着替えとして提供されたロッカールームで、「盗まれるからモノを残すな」と案内してくれた隊員さんに注意された。洋の東西を問わず、そうしたところは厳しい規律とは裏腹らしい。

 軍隊でなくても大学の体育会などでは、厳しいところがやっぱりあるようである。私の場合は幸いな事に比較的規律の緩いチームだったから、気楽で良かった。だが、時間のけじめとかいくつかのところでは「グラウンド10周!」となる規律があった(練習後、体力消耗したあとでの10周はけっこうキツイのだ)。それはやっぱり必要な緊張感を生み出すのに役立っていたと思う。

 家庭内でのそれは躾だろう。我が家ではそんなに大した事をしているわけではない。靴を揃えさせたり、食事の時のちょっとしたマナーだったり。他にもすべき事があるのかもしれないが、たぶん最低限このくらいというレベルでずっと続けている。それがこの先どう活きてくるのかはわからないが、たぶん何かの役に立ちそうな気がする。自由はすばらしいが、他人と暮らしていかねばならないのがこの世の中。規律ある集団の中で生活した経験は、何らかの形で生きていくのではないかと漠然と思うのである・・・


【昨日の読書】
「金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか」ローレンス・マクドナルド他
「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」田中森一
   



  

2009年11月11日水曜日

ドラマの行方

 我が家の奥様はここのところ日曜日のドラマ「JIN」にハマっている。現代の医師が江戸時代末期にタイムスリップし、そこで現代医療を駆使して活躍するというストーリーである。原作は村上もとかの漫画であるが、「全巻買い揃えたらいくらになるやろ」とぶつぶつ呟くほど我が家の奥様は気に入っているらしい。

 この番組に限らず最近は、「原作は漫画」というドラマが多い。何せ日本は世界屈指の漫画大国なだけに、ネタにはまったく困らないだろう。そしてストーリーもけっこうしっかりしていたりするから、ドラマとしても視聴率が稼げるのだろう。観る立場としては「面白ければよい」のだから問題はない。

 ところが一方では「脚本家が育たない」という懸念が生じているようである。安易に漫画のドラマ化が主流となると、これまでのような専門の脚本家(放送作家というのだろうか)の出番がなくなり、次の人材が育たなくなるというのだ。なるほど、そういう悪影響もあるのか。

 たぶん、スポンサーなどに新番組を売り込む時は、「脚本は売れっ子の○○先生で、主演はキムタクで・・・ヒット間違いなしです!」などとやっているのだろう。そんな時に、「脚本はこれがデビュー作の○○で・・・」となると、スポンサーから「大丈夫なのか?」などとなって、当然スポンサー社内でも同様のプレゼンがあるのだろうから、そこでも決裁に支障がでたりするのかもしれない。

 そうした冒険をするよりも手っ取り早く、「ただいま好評連載中の・・・」とやりたくなるのかもしれない。まあ漫画が売れて、それがドラマだ映画だとなれば漫画家の地位も収入も向上して、漫画家を目指す若者が増えて、そういう好循環からさらに漫画業界が活況を呈するのなら、それはそれで歓迎なのだろう。「あちらを立てれば」ではないが、自然淘汰されるのならば、それはそれで仕方ないのかもしれない。

 それにしても「JIN」の漫画は面白い(まだ始めの方しか読んでいないのだが・・・)。個人的に日本史は大好きで、「江戸を舞台にした」などというだけで、興味をそそられるから尚更だ。これから少しずつ読んで行くつもりだ。

 ところで、今から350年程前、江戸の町のおよそ6割を焼失し多数の犠牲者をだした明暦の大火があった。被害の大きさで歴史に残る大火事となっているが、この出来事をきっかけに、火に強い街づくりの一環として施されたのが銀杏の植樹。「水を噴く」といわれるほど火に強く燃えにくい樹木で、火除け地や防火帯を多数作る意図のもとに公園や主要道路などにも銀杏の植樹が盛んに行われたそうである。今では東京都のシンボルマークとなっているイチョウにも、江戸の世からのこんな歴史がある。
 
 そんな歴史の面白さが味わえるといいなと、ドラマには少し期待しているのである・・・


【本日の読書】
「金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか」ローレンス・マクドナルド他
「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」田中森一


     

2009年11月8日日曜日

民主党とマニュフェスト

 民主党が政権をとって2ヶ月が経過。八ツ場ダムだとか普天間基地だとかいろいろと話題になっている。日本郵政の社長も脱官僚の掛け声に反した動きになっているようだし、首相自身の献金問題も燻っている。マニュフェストに拘る姿勢に対する批判もある。まあもともと政治などは何をやっても批判はあるものだから、それがどうだとか今の段階で判断するのは難しいだろう。

 マニュフェスト批判については難しいところだ。メディアではマニュフェストに拘泥する姿が連日批判されている。それは確かにそうだとは思うが、でも待てよとも思う。そもそも選挙で「政権を取ったらこうします」と約束したのがマニュフェストだ。実際に政権を取ったら、公約を果たそうとするのは当然だ。わずか2ヶ月で「やっぱり無理でした」では、「マニュフェストはそんないい加減なものを作っているのか」、と逆に問いたくなる。そこはどう考えるのか、マニュフェスト主義を批判するメディアには何のコメントもない。

 実際、聞くところによると民主党は経済界からも官僚からも距離を置かれた状況らしい。いわば現場の状況がわからない中でマニュフェストのみを頼りに突っ走っているところがあって危険だという意見も聞いた。状況は変化しているのだから柔軟に対応しなければならないのだ、とも。それはやっぱりそうなのだろう。

 亀井さんの暴走は結局理性的な取り巻きがうまく骨を抜いて鞘を納めた。あれだけ大騒ぎしたモラトリアム法案も、結局わけのわからないシロモノに落ち着いた。無知な人に権力を渡すのは危険なのだという良い例であり、またそんな人が権力を持ったとしても、うまく花を持たせつつ納めるところに納めてしまう安全装置があるという良い例でもある。

 この先民主党政権がどうなるかは未知数だ。日米関係も、アメリカは共和党政権より民主党政権の方が、日本にとってベースとしては安心だという意見もある一方で、きな臭さもプンプンしている。いろいろと批判もあるし、私も民主党を支援しているわけではない。ただ忘れてはいけないのは、国民は自民党にNoと言った事実である。選択肢がない以上はしばらく任せるしかない。結果に対する判断は次の選挙できちんと下せばよい。それまでは、これまた問題の多いメディアの報道に惑わされないように自分の頭で考えていきたいものである。

 それにしても期待していた子供手当て。結局扶養控除と差し引きというなら、あんまり意味はなさそうだ。財源がないのだろうが、まさかサルと同等と思われたのだろうか、朝三暮四のマニュフェストにはがっくりなのである・・・


【本日の読書】
なし


     

2009年11月6日金曜日

ジャイアンツファンの憂鬱

 日本シリーズも終盤。いよいよあと1勝でジャイアンツも日本一である。しかし、昨年ここから連敗して日本一を逃しているだけにまだ安心はできない。

 ちょっと前まではFAで選手をかき集め、札束攻勢と言われるチーム作りで世間の批判を浴びていた。私も個人的に清原などは好きではなかったため、ファンとはいえ苦々しく思っていたものだ。そんなにお金があるなら、いっそのことメジャーからバリー・ボンズでも引っこ抜いてこいと思ったものである。

 国内で有力選手の奪い合いをするよりも、メジャーに選手を取られたままよりも、ずっといいと思っていたものだ。それこそ日本のファンも喜ぶだろうしと思って、事あるごとに主張していたが、そんな主張はオーナーの耳に届くはずもなく、また当時の近視眼的発想の某Wオーナーには無理な期待だったようで、密かに嘆いてばかりいたものである。

 ところが最近は山口・松本・オビスポといった育成選手がレギュラーで活躍するなど、かつての札束攻勢が影を潜めている。原監督の選手起用もあるのだろうが、実に良い感じだ。もともとV9の時代は、国内唯一の日本人だけのチームだった。一部トレード組はいたが、純粋ジャイアンツの選手だけだったのだ。それで日本シリーズも1つか2つしか負けない圧倒的強さだった。そういうジャイアンツに戻ってほしいものだ。

 育成選手が活躍するのはいいのだが、今一番気になっていることは、「エースと4番がいない」事だ。今は外人頼りだ。これは問題だ。エースと4番はチームの看板。それが外人では顔がないのと一緒だ。松井も上原も海を渡ってしまったからだが、これだけは何とかドラフト指名選手から出てきてほしいものである。

 海の向こうではその松井がワールドシリーズで大活躍。ジャイアンツファンとしては喜ばしい事だが、古巣の惨状をみると複雑である。今年一杯という話も出ていたが、戻ってくるという選択肢はないものであろうか。まあ明日は日本ハムの「看板」ダルビッシュだろうか。なんとか看板を叩いて優勝を決めてほしいと思うのである・・・


【本日の読書】
「現代の経営戦略」大前研一
「できるだけ塾に通わずに受験に勝つ方法」松永暢史
    
    

2009年11月4日水曜日

子供番組雑感

 最近長男の好みでバトルヒーローモノを観る機会が多い。日曜日には「侍戦士シンケンジャー」なるものを観た。内容はといえば大人がどうこういう事はない。侍戦士とあるように侍をモチーフとした正義のヒーローが悪を倒す勧善懲悪ものである。子供がどこまで理解しているのかよくわからないが、わずか30分の番組に、実にたくさん盛り込んでいる。

 今回のストーリーは、普段は屋台ですし屋をやっている戦士の一人が、ひょんな事から作ったカレーが大ヒット。メディアを巻き込んでの大騒動。連日の繁盛に店を出すというところまでとんとん拍子に進む。ところがここで彼は悩む。店を出す事はずっと夢だったのだが、それは寿司の道であり、カレーではなかった。寿司を諦めてカレーの店を出して一国一城の主となるか、はたまたあくまでも寿司の道を進むべきか・・・

 悩んだ末(この間怪人が暴れてそれをシンケンジャーが退治するのだ)、彼は安易な道を捨て客の減った屋台で寿司を握る道を選ぶのである。子供たちには「困難であっても夢をあきらめてはいけない」というメッセージだったのだろうか。わずか30分の間になんとすばらしいメッセージを込めているのだと感心してしまった。

 ただ大人の目でみれば、店を出しても良かったのにと思うのだ。何も夢をあきらめる必要はない。せっかくお客さんの支持を得ているのだ。それで店を出せばいいのに。そこで資金を貯めて、店舗運営のノウハウも身につけ(アルバイトを雇ったり、経理をしっかりやったりと実務は大変なのだ)、そのあとで満を持して寿司店を出すという手だってある。

 目指す山の頂上に至る途上にはアイガー北壁のような絶壁がある。歯を食いしばってそこを登るのもいいが、一旦隣の山に登ってそこから尾根伝いに頂上を目指すという道もある。創業資金を貯めるために、ハードな佐川急便で3年間働いたという社長の話を読んだ事があるが、それと同じだ(ただ、絶壁を登る事に意味があるのなら別なのだが・・・)。まあ子供にはそこまで必要はない。いずれ学べばいい事だ。たかが子供番組で、このストーリーに思わず唸ってしまった。

 それにしてもこの侍戦士。侍のくせに武士道というものを知らないようである。いくら悪とはいえ、たった一人に6人がかりとは卑怯千万。昔はヒーローは一人で敵をバッタバッタとなぎ倒したものだが、そんな事でいいのだろうか?悪い奴はどんな事をしてでも倒せばよいというのか?ヒーローであれば、「悪の倒し方」にも拘ってほしいと思うのは私だけだろうかなどと思ってみたのである・・・


【本日の読書】
「現代の経営戦略」大前研一
「できるだけ塾に通わずに受験に勝つ方法」松永暢史

     

2009年11月2日月曜日

続・秋の日雑感

 昨夜、我が母校(大学)のラグビー部通信で、公式戦3連勝のニュースがOBの間に流された。これで今シーズン成績は3勝2敗。あと残り2試合に勝てば、史上初の対抗戦2位となり、入替戦出場となる。しかもその可能性はかなり期待できる。これは応援に行かねばなるまい、と心に思う朝であった。

 そんな朝の西武線が10分程度遅れた。朝の10分は貴重とはいえ、それでもたかだか10分だ。私にしてみれば「10分間本を読む時間が長くなってラッキー」でしかない。だが改札のところで駅員さんに「遅延証明書」をもらっている人がいた。感じた事は二つ。「そんな必要があるんだ」という事と、「10分程度の遅れで遅刻なの?」という事だ。

 私の職場にも始業時間というものがある。だから遅刻する場合は事前に連絡しておかないと回りに迷惑がかかる。でも何も証明書をもらう必要までない。証明書が必要だという事は、「それだけ信用がないのか?」と思えてしまう。もっともタイムカードで出退勤を管理されたりしていたら、遅れた日の証明としているのかもしれない、などと想像する。

 そんな事よりも10分くらいで遅刻するような出勤はいかがかと思う。30分くらい前に出勤するのは当たり前のような感覚が私にはある。電車だっていつも遅れないとは限らない。諸々に備えて30分くらい早目に出勤してもいいのでは、と思う。何も仕事をしろとは言わない。新聞読んでたっていいではないか。世間的にはそういう感覚は受け入れにくいのであろうか・・・

 先週末は外出して気持ちの良い日差しの中歩いていたら、突然若い女性に話しかけられた。
「新人研修で名刺の交換をさせてもらっているのですが・・・」
きちんとしたスーツを着て感じの良い子だった。私も男だからつい、「名刺くらいは」と脳裏を過ぎったが、次の瞬間には反射的に断っていた。たぶん、うっかり交換なんぞしようものなら、あとでセールスの電話がかかってくるに違いない。長く社会人生活を送っていると、どうしても「そんな話には裏がある」と当たり前のように考えてしまう。そういう世の中が悪いのか、素直に人を信じられない自分がひねくれているのか?道端の募金活動でさえ、素直に協力できない自分なのである・・・

 そのあと稲毛からタクシーに乗った。稲毛と言っても東京寄りの千葉だし、田舎というほどではない。ところがその運ちゃん、いかにも田舎の素朴なおっちゃんという感じであった。そしていろいろと話しかけてきた。悪い気はしない。感じよかったので、帰りもそこのタクシーを呼んだ。

 帰りの運ちゃんも人のいいおっちゃんだ。ここは良い会社なのかもしれない、などと思う。ふと窓に張ってあるカード会社のシールに目が行った。それを見て、「最近はカードも使えるんですね」と聞くともなしに聞いてみた。「いえ、使えません」ときっぱり。

 「なんだ看板に偽りありか」と思うと、そんな私の心中を察したのであろうか、運ちゃんが続ける。「いえね、相方は使っているみたいなんですけどね、ここにほら、機械もあるんですよ。でもね、私使い方わからないんですわ、ワッハッハッハ」
実に朴訥とした運ちゃんだ。苦笑いしながらタクシーを降りた。

 11月である。これから日一日と寒さに向っていくわけである。まあ寒いのも日本の四季のうち。終わりゆく秋とともに日々楽しみたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「現代の経営戦略」大前研一
「できるだけ塾に通わずに受験に勝つ方法」松永暢史