2009年11月28日土曜日

お受験雑感

 子供が大きくなると必然的に「お受験」という言葉が耳に入ってくる。長女がかつて通い、長男が今通っている幼稚園は近所ではちょっとした「お受験用幼稚園」と言われている。けっこう離れたところから通ってくる子も多いようである(ちなみに我が家がこの幼稚園を選んだのは「家から一番近いから」である)。よその家の事はあれこれ言うつもりはないが、どうにも理解できない。

 そもそも何のためにお受験などさせるのか、常々興味があるので機会があれば聞いている。ある先輩は幼稚舎からの筋金入りの慶応ボーイ。こよなく慶応を愛する彼は当然の如く、子供を幼稚舎から慶応漬けにしようと夫婦で面接に行っていた。私も母校には愛着がある。だからその先輩の行動には十分納得できた。

 「公立だと荒れているから行かせたくない」、「公立だとゆとり教育の弊害でだめになる」という理由も納得できる。何より朱に交われば何とやらだし、女の子の親であれば当然だろう。また、日教組の掲げる教育方針・理念といったものは誠に理解に苦しむものである。山梨や広島や、東京でもちょっと前の国立市などはひどいものだったから、そういうところを避けるために私立へ向うのも理解できる(ちなみに私は子供たちにはしっかりと愛国心教育を授けたいと思っている、もちろん「君が代」も「日の丸」も大事にさせたい)。

 納得できないのは、「将来のため」とか「受験で苦労させないため」とかいう「表面上」子供のためを思っての「わかったつもりのお受験派」の勘違いペアレンツだ。そんな理由で私立の一貫校に入れようとする。それは大きな過ちだし、そういう親に限って「入れたら安心」して終わるのである。私は「受験大いに結構派」である。

 受験は一つの試練だ。自分自身高校受験の時はかつてない不安と緊張感を味わったし、大学受験は一度失敗し、しかもその時、一緒に受けた子供の頃からのライバルが目の前で受かるという屈辱も味わった。捲土重来の2度目の受験は、「後がない」「2度も落ちてライバルに見下されたくない」というプレッシャーに押しつぶされそうになりながら宅浪生活を送った。それらの「苦労」は精神の筋肉となって今も残っている。

 そういう苦労はむしろさせるべきなのだ。そうして鍛えれば、精神に筋肉がつく。我が子を温室に入れて育て上げ、いつまで温室で育てられるというのだろうか。卒業したらいきなり世間の寒風にさらすのだろうか。親はいつまでも子供を守れるわけではない。ならば親がサポートできる間に我が子を試練にさらすべきなのだ。そして受験はその試練としては適度な機会だと思うのだ。

 将来のためと言って仮に一流企業に入ったとしても、今や出身大学によって出世が約束されているわけでもないし、上場企業でも倒産するし、リストラだってある。仕事で失敗する事もある。その時学歴という看板はまったく役に立たない。まあ東大法学部を出て官公庁へ行けばまだ何とかなるかもしれないが・・・

 この恵まれた我が国で、毎年3万人を越える人が自ら命を絶つ。さらには鬱で会社にいけなくなる人も数多い。その理由はさまざまだろうし、一概には言えないと思うのだが、精神的なタフさがあったら少しは数字も変わるのではないかと思う。そんな精神的なタフさは早くから鍛えるに越した事はない。

「子孫に美田を残さず」
「可愛い子には旅をさせろ」
「獅子は千尋の谷に我が子を突き落とす」
これらの言葉が何を意味しているのか、今一度よく学べと「わかったつもりのお受験派」の親には言いたくなる。

 「我が家に美田なんてないじゃない」
ぼそっと妻に言われた一言に、「今に見ておれ」と心に誓うタフさも受験の賜物だと信じて疑わない私なのである・・・


【本日の読書】
「株の勝ち方はすべて外国人投資家が教えてくれた」中原圭介


     

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