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2025年8月17日日曜日

出場辞退に思うこと

 夏の全国高校野球選手権が行われているが、先日、1回戦を突破した広陵高校が大会途中で出場辞退という異例な事になった。大会前からネットで部内のいじめ問題が指摘され、出場に疑問の声が上がっていたが、個人的には今は昔ほどでもないので辞退するべきとも思わなかった。昔は何かあるとすぐ出場辞退で、野球部員でない生徒の不祥事の責任まで取らされて気の毒であった。最近はそういう辞退をあまり聞かなくなっていたのでいい傾向だと思っていたが、経緯を見れば出場の判断はおかしいと思わないし、その後の炎上を受けての辞退もやむを得ない気もする。

 大学ラグビーの世界でも今年は関西の雄、天理大学が選手の不祥事(大麻所持)で無制限活動自粛になっている。ちょっと寂しいがやむを得まい。ラグビー部で大麻と言えば、かつての関東の雄、関東学院大学がやはり部員が大麻の所持(部屋で栽培していたとか)と吸引とで逮捕され、名物監督が辞任し、以後凋落して今では関東リーグ戦1部と2部を行ったり来たりという状況である。天理大学も同じような事になると寂しいように思う。一旦、凋落してしまうと持ち直すのも難しいのかもしれない。

 学生スポーツは卒業によって選手が入れ替わる。当然ながら毎年、新しい学生の確保が大事であるが、不祥事を起こすと有望選手は入学を避けてライバル校へ行くだろう。チームが弱くなれば、強いチームでやりたいという選手はますます敬遠するだろうし、歯車の逆回転が止まらなくなる。天理大学も活動を再開したとしても、そういう影響が出るのではないかと思えてならない。その分、新興勢力が出てくるという見方もあるからなんとも言えないが、何より真面目にやっていた学生は気の毒である。

 関東学院大学の事件からもう18年経っている。天理大学のラグビー部員も関東の事件を知らなかったのだろう。誰でも大麻を吸ってみたいという興味はあるだろうから、ちょっとぐらいという誘惑に駆られたのだろう。本人もこういう事態になるとわかっていたら絶対に手を出さなかっただろう。広陵高校の野球部員もイジメは悪い事だとは知っていただろうし、その時は自分の行為がイジメに当たるという意識もなかったのかもしれない。当然、今日の事態が予測できたらやらなかっただろう。「後悔先に立たず」というやつである。

 もしも、自分が指導者だったらどうするだろうと思う。相手は若気の至りの特権のある若者であり、監視するにも限度がある。ゆえにそこは教育しかないだろう。他校の不祥事を例に取り、ちょっとした事がどんな事態を招くのか。それを語って聞かせるしかない。今は飲酒や喫煙も厳しくなっている。私の頃は高校生でも居酒屋で酒が飲めた。今でも覚えているが、クラスで運動会の打ち上げを蒲田の居酒屋でやったものである。1人高校生が混じっているなどというレベルではない。大らかな時代であったとつくづく思う。

 痴漢もセクハラもなくなりはしないのだろうが、かなり「やってはまずいもの」という認識は世に広まっている。私の若き銀行員時代は、営業担当の課長さんにお客様だけではなく、 行内に対する営業として、女性に対してもたまにはお尻を触ってやらないといかんと諭されたものである(さすがにやらなかったけど・・・)。今はそんな事をしたら大問題になるだろうが、そういう事を気軽に言える雰囲気だったのは確かである。それで世の中は、大らかだったかつてより世知辛くなったのかと言えば、それはいい方向へ改善したという事だと思う。

 これからもルールから逸脱する若者はなくならないだろうが、指導者はひたすら教育するしかないだろう。練習だけさせるのが指導者の役割ではない。野村監督も語っていたが、「人間的成長なくして技術的な成長はない」だろうから、練習以外にも教え諭す必要があるだろう。広陵高校の辞退という事態を受けて、甲子園出場を狙える学校の野球部監督はもちろんであるが、そうでなくても、まずは指導者たる者は今回の例を採り上げて生徒に話してみるくらいはするべきではないかと思う。

 学生スポーツの場合は、何よりも勝負の前に教育があるべきであろうし、それは学業もさりながら勝負に臨む前の姿勢という事でもある。また、指導者にしてみれば「リスクコントロール」という面もある。広陵高校の監督さんは、野球部の出場選手全員から「尊敬する人」とされていたようであるが、野球以外の指導に漏れがあったのは確かであろう。私には無縁の世界であるが、指導者にしてみれば「対岸の火事」ではなく、「他山の石」とすべきであると思うのである・・・


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【今週の読書】
 ビジュアル図鑑 昆虫 驚異の科学 - デイヴィッド・A・グリマルディ, 丸山 宗利, 中里 京子 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  カラー図説 生命の大進化40億年史 中生代編 恐竜の時代ーー誕生、繁栄、そして大量絶滅 (ブルーバックス) - 土屋 健, 群馬県立自然史博物館  片想い (文春文庫) - 東野 圭吾





2025年6月6日金曜日

若返り

 先日、何気なく目に入ってきたテレビ番組で、老化についての研究の最前線の様子がレポートされていた。マウスによる実験では、実際に細胞が活性化し若返りが確認されたという。2030年代には実用化されるような可能性も報じられていた。実に素晴らしい。不老不死は太古から人類の夢であり、生物である以上、それは無理な夢かと思っていたら、どうやら不老は少し延ばせるのかもしれない。実用化されたとしてもそれは果たしてどのくらいのものなのだろうか。まさか永久的にとはいかないだろうが、平均寿命が120歳というようなレベルであれば素晴らしい事である。是非とも早期実用化を願うばかりである。

 シニアのラグビーをやっていて、愕然とさせられるのはシャワールームである。みんなの裸体が一目瞭然。たるんだ皮膚、皺。40代くらいまでだとまだ皮膚に張りがある。ところが私より上の世代では見事にたるんでくる。特に尻。老化の現実をもろに見せつけられる瞬間である。自分の背中とか尻とかは見えにくいが、たぶん似たり寄ったりなのだろうと悲観的な気持ちになる。パスのスピードも走るスピードも遅くなる。咄嗟のプレーに対応できない。「花園に出場した」という経験を語る人もプレーにその片鱗は見られない。私が目にしている老化の現実である。

 若返りが可能になれば、私のようにスポーツに勤しむ者はいつまでも十分な形で楽しむ事ができる。病気も減って国の医療費の軽減につながるだろう。何より個人の人生をより長く充実して楽しむ事ができる。良いことづくめのように思える。しかし、心配なのは年金財政だろう。今の制度ではあっという間に破綻してしまうだろう。今よりもさらに寿命が延びるわけである。支給開始年齢も65、70、75歳と延びていかざるを得ない。いったいいつになったら年金をもらえるのかわからなくなる。まぁ、その分健康寿命も延びれば働けるわけであり、自分の食い扶持は自分で稼ぐという事になるのかもしれない。

 さて、そうなった場合、世の中はどうなるのであろうか。定年が80歳まで延長されたら出世の階段も雲の上に届くくらい長くなるのだろうか。それでも階段を登れるうちはいいが、登れない人にとっては長い苦痛の時間か、プライドを傷つけられての忍耐の時間があるだけである。登れたとしても次の段までがまた長いだろう。そうなると、なかなか給料も上がらないかもしれない。今でもそういう動きはあるようだが、伝統的なピラミッド型の組織構造も変わっていくのかもしれない。

 個人的な経験からすると、やはり一つの企業に長くいるよりも幾つかの企業を渡り歩いた方が面白いと思う。50〜60歳くらいまでの間は最初の企業で頑張って生活の基盤を安定させ、後半は少しリスクを取って中小企業など自分が幹部として活躍できる場所に移れば面白い経験が積めると思う。出世の長い階段を前に立ち尽くすよりも、実力の蓄積と生活基盤を整える事に集中して、時期が来たら「第二の就活」に乗り出す事もできる。80歳までのビジネス人生を前半後半の二部構成で考えられる。

 もっとも怖いのは「精神の老化」だろうか。年齢を経てくると人間は間違いなくめんどくさがりになる。自分でやるより人にやってもらおうとする。新しいものは「わからない」と初めから敬遠するようになる。あえて自分から手を挙げようとしなくなる。昨日と同じやり方で今日を乗り切ろうとする。それが脳の働きが劣化することによる生物的・必然的な反応であり、それも若返り化によって改善されればいいが、単に精神的なものであるなら問題である。いくら体が若くても、「魂の老人」は若者の足枷となる。

 人間はなかなか自分の考え方を変えられない。年齢を経れば経験も加わって自分の考えが深まっていく。そうなると新しい考え方を受け入れできないところがある。我が社でも以前高齢の顧問とあるソフトウエアを巡って意見が対立した事があった。顧問には初めから否定されてしまい議論にすらならなかった事がある。最後はその話をしようとすらさせてもらえなかった。意見を聞いて試してみて、それでダメだと言われるならまだわかる。試しもせずにダメと決めつけられてはこちらとしても納得がいかない。「老害」とはこういう事かと思ったものである。私なら一通り相手の主張を聞いた上で判断するが、そう言っていられるのも今のうちなのだろうか。

 その昔、銀行員時代に支店の上司がサミュエル・ウルマンの詩を見つけて感動し、ご丁寧に支店の全員に配った事がある。
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言う」
というものであるが、当時はまだ若かったし、元々根っからの天邪鬼である私は、「年寄りが青春にしがみついている」と冷ややかに見つめていたが、サミュエル・ウルマンがその詩を書いた年齢に近づくに従って思うのは、青春よりも精神のアンチエイジングである。

 肉体の若返りももちろん素晴らしいが、併せて精神の老化は避けないといけない。若返りの薬が実用化された時、それが果たして庶民に手の届くものであるなら是非手にしたいし、その時にはそれにふさわしい精神年齢を維持したい。「実るほど頭が下がる稲穂かな」の精神は、意識すれば維持できる。若返り薬を期待しつつ、自分でできる精神のアンチエイジングは意識していきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓





2024年10月20日日曜日

袴田事件雑感

袴田巌さん無罪確定へ 事件から58年 検察が控訴しない方針
2024年10月8日 22時03分 
58年前、静岡県で一家4人が殺害された事件の再審=やり直しの裁判で、袴田巌さんに無罪を言い渡した判決について、検察トップの検事総長は8日、控訴しないことを明らかにしました。これにより一度、死刑が確定した袴田さんの無罪が確定することになりました。
NHK WEB
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 袴田事件が起こったのは今から58年前。私が2歳の時であるから当時の事件の記憶などない。それにしても、無実の罪で逮捕され、死刑判決を受け、長い期間拘束されていた心境はいかばかりかと思う。事件の真相を知る者は、袴田さんご本人と真犯人しかいないわけで、それを第三者が犯行を認定していくというのは難しい事である。本人が素直に自供すればいいが、そうでなければきちんと証拠固めをして公開の法廷で犯行を認定していかないといけないわけである。証拠がなければ有罪にはできないのである。

 ニュースによれば、捜査機関がその証拠の捏造を行ったという。その真偽はわからないが、認定の通りだとすると、とんでもない事である。なぜ、証拠の捏造などという事を行なったのだろうか。悪意的に罪に陥れようとしたものではないだろうから、たぶん当時の捜査担当者の強い思い入れから行き過ぎた行為に走ったのだろう。すなわち、「犯人はこいつで間違いない」という強い思いと、「だから証拠を捏造しても構わないだろう」という考えだったのだろう。犯罪を犯したのは間違いないのだから、その罪を償わせるためには証拠の捏造もやむをえないと考えたのだろうと思う。

 日本の法律では証拠の捏造がダメなのは当然として、確かな証拠であったとしても違法に収集されたものだと裁判では使えないことになっている。そうでなければ人権侵害が起こるという過去の歴史の経験から決められたルールであるが、「正義であれば何をしてもいい」という考え方への否定である。それが捜査機関の足枷になることもあるのだろうが、そうしたルールを守ってもらわないと、ある日突然無実の罪に問われるなどという事が起こりかねないことになる。「刑事の勘」で犯人にされてはかなわない。

 当時捜査にあたった警察では、内部でどんなやり取りがあったのだろう。被害者の身近な人物の中では、確かに袴田さんに怪しいところはあったのだろう。「こいつに違いない」と思い込んだ人たちがいて、「なんとか自供させろ」という動きになったのだろう。そういう中で、ひょっとしたら他に犯人がいるかもしれないと疑った刑事もいたかもしれない。しかし、組織が「袴田犯人説」で動く中で、それに反した行動は取れなかったのかもしれない。ましてや起訴した後に真犯人を捜査するなどという自己否定的な行動は許されなかっただろう。

 事件は日々起こっているし、起訴してしまえば警察の役割も終わりであり、あとは起訴した以上なんとしてでも有罪にしなければならない検察が、死刑判決に満足して終わりである。後でいくら無罪を訴えても、素人に犯罪捜査は不可能だろうし、その結果長い法廷闘争となる。そしてその間、恐ろしい事に(警察の捜査は終了しているので)残虐な事件を起こした真犯人は捕まる心配もなく安堵して生活していたわけである。考えてみるになんともやり切れない思いがする。

 警察も当然、善意の下で行動していると思うが、本当に真犯人を逮捕するという大前提の下、「刑事の勘」などに頼ることなく、さまざまな可能性を考慮してしっかり捜査してほしいと思う。今はいろいろと「可視化」されて冤罪を防ぐ仕組みができているが、人間の考え方はなかなか変えられるものではない。硬直的な考え方で思い込み捜査をやられては、仕組みの裏をかく事を今度は考えるようになるだろう。「裁判で有罪にする」ためだけに尽力してほしくはないと思う。一方で、捜査の手足を縛れば犯人が逃げ延びる可能性は高くなるわけで、なかなか難しい事だと思う。

 「法でさばけない悪を退治する仕事人」が映画や漫画などで持て囃されるのは、ある意味厳格なルールで縛られた捜査の裏返しであるかもしれない。それはそれで我々市民にとっても、映画の関係者にとってもいいことかもしれない。幸い、これまで犯罪関係とは無縁の生活を送ってこられたが、これからも犯罪とは無縁に暮らしたいと、袴田さんに深く同情すると共に思うのである・・・

James Timothy PetersによるPixabayからの画像

【本日の読書】
世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書) - 高田明典  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦






2023年12月7日木曜日

ジェンダー

性別変更、生殖不能の手術要件は「違憲」 最高裁決定

生殖機能をなくす手術を性別変更の事実上の要件とする性同一性障害特例法の規定が憲法違反かどうかが争われた家事審判で、最高裁大法廷(裁判長・戸倉三郎長官)は25日、「規定は違憲で無効」とする新たな司法判断を示した。

日本経済新聞20231025

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 先々月になるが、日経新聞に載っていた記事である。その時は当然の判決のように感じたが、時間が経ってみると何となく「当然なのだろうか」という気がしてきた。性別変更が認められていることは何となく知っていたが、厳密な要件がある事までは知らなかった。その要件とは以下の通り。

1.18歳以上
2.現在結婚していない
3.未成年の子がいない
4.生殖腺がないか生殖機能を永続的に欠く
5.変更する性別の性器に似た外観を備えている

 このうち、手術要件とされるのは4(生殖不能要件)と5(外観要件)であるという。今回違憲と判断されたのは、4のみ。5については「高裁で検討がなされていない」という理由で「差し戻し」になっている。4は、具体的には「卵巣・精巣の摘出」であり、5は「陰茎切除」などであるようである。1から3については、「まぁそうだろうなぁ」と思われる。されど「手術要件」は本当に不要なのだろうか。

 4の手術要件であるが、不要とした場合、女と認定された「元男」が他の女性に子供を産ませたらどうするのだろうか、と考えてしまう。実際はともかく、理論的には可能である。その逆も然り。その場合、生まれた子供は「戸籍上」女同士、あるいは男同士から生まれたことになる。どちらが父親になるのか、どちらが母親になるのか、役所の人も困るだろう。身体の性を捨てるという事は、やはり生物学的にも捨てなければダメなのではないかと思う。

 また、Xでつぶやかれていたのは、「完璧に工事された」女性と温泉で一緒になった女性の感想。当初女性だと思っていたが、声で分かったのだという。そこからどうにも気持ち悪くなって風呂を出たのだとか。完璧に工事されていてもそういう反応があるのだから、工事されていなければもっとだろう。「体は男だが心は女」という「女性」が女湯に入っても問題はないのだろうか。

 逆の立場で考えてみる。すなわち、男湯に「体は女、心は男」という「男性」が入ってきた場合である。これはかなり困ると思う。「女の裸が見れていいだろう」と思うかもしれないが、基本的に「ええかっこしい」の私としては、ジロジロと見るのもカッコ悪い。見るなら誰もいない所で見たいと思うし、見たいのに見ない努力をするのは苦痛に感じるだろうから、そんな公衆の場では逆に迷惑に思うだろう。たとえ混浴であっても遠慮したいと思うほどなので余計である。

 また、普通に考えても、そんな「体は男、心は女」人間が堂々と風呂やトイレに入るのは問題があるように思う。「詐称トランスジェンダー」が現れたらどうするのだろう。変態人間がトランスジェンダーと称して女湯やトイレに入らないとも限らない。それをどう防ぐのだろうか。やはり手術要件(特に5)は必要なのではないかと思わざるを得ない。手術と言うと大事であるし、体への悪影響もあるかもしれない。だが、それだけの覚悟がないなら、心とは違っていたとしても体の性別に甘んじればいいのだと思う。

 基本的に私は「男は男らしく、女は女らしく」と考える昭和世代の男である。子供の頃からナヨナヨした男は大嫌いである。ただ、他人に男らしくしろと言うほど押し付けがましいことはしない。心は女だというのならば、なりたければ女になればいいと思う。しかし、なるなら中途半端にではなく、徹底的になれと思ってしまう。「手術が嫌なら諦めろ」と正直思う。諦めないなら、女湯に入れなくても、女子トイレを利用できなくても我慢すればいいのである。そこは「心も体も女」が利用する場所なのである。

 LGBTを認め、多様性を認め合う世界は素晴らしいと思うが、そこには一定の線引きがあって然るべきである。その線を越えたければ、それなりの覚悟を持って望めばいいのである。江戸時代の日本では公衆浴場は混浴であったというが、それを分けたということは大きな意味があるのである。そこは「心が女」なのではなく、「体が女」の人が利用する場所なのである。

 何でもかんでもLGBTとして尊重するのもいい加減にすべきであると思うのである・・・

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【本日の読書】

  







2023年9月3日日曜日

最低賃金に思う

最低賃金「30年代半ばに1500円」 首相表明

 岸田文雄首相は31日、最低賃金について「2030年代半ばまでに全国平均が1500円となることを目指す」と表明した。最低賃金は10月から平均1004円に上がるものの、主要国に比べ水準はなお低い。物価高で消費は弱含んでおり、賃上げ持続で内需主導の成長を促す。

日本経済新聞2023.8.31

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 政府が2030年代半ばまでに最低賃金の全国平均を1,500円となることを目指すと表明し、それについてさまざまな意見が飛び交っている。例えば「X」では、ちきりん氏が、

《現時点での他の先進国の賃金より低い時給を10年後の達成目標にするなんて、本当に日本て余裕があるというか呑気というかスピード間の欠如した国というか、腰が抜けそう》

と酷評しているほか、批判の意見も多いようである。ちなみに、202314月の為替相場で各国の最低賃金を比較すると、日本は961円で最低レベル。ドイツ・フランス1,386円、イギリス1,131円で、日本は韓国の991円よりも下回っており、オーストラリアは71日から時給2,230円に引き上げているという。


 これに対してどう考えるべきなのであろうか。確かに単純比較ではわが国の賃金の低さが際立っている。ちきりん氏はかなり思考能力が高く、さまざまな情報を元に鋭い意見を表明していて、私も著書を何冊も読んでいるが、果たして公平に比較している意見なのだろうかと思う。例えば、各国の失業率を見ると、日本の2.80に対し、ドイツ3.57、フランス7.86、イギリス4.83、韓国3.64、オーストラリア5.12といずれも日本より高い。いくら最低賃金が高くても、そもそも就職できなかったら意味はない。


 それに気になるのは物価水準。例えば、ロンドンは物価が高いと言われている。ランチ代の平均は、日本の1,118円に対して2,511円だそうである。ニューヨークも似たようなものだと以前テレビでやっていたし、それがすべてとは言わないが、そういう物価も考慮に入れないと本当に日本の賃金が安いのかどうか(安いとしてもそれが問題なのか)は一概に言えないのではないかと思う。外国とだけではなく、国内でも同様。以前、長野県に住む従兄弟と話したが、東京は賃金が高いとは言え、生活コストの高さを考えるとどちらがいいかわからない。

 

 従兄弟は長野県の佐久市で働いている。給料は、たぶん私の方が高い。しかし、土地の単価は東京と佐久市とでは一桁違い、私は30坪の家に住んでいるが、従兄弟の家は100坪で住宅ローンもない。夜な夜なスナックに行くお小遣いも私よりある。まぁ、1,500円は全国平均だから、当然、東京の最低賃金は長野県よりも高いだろう。そこは目をつぶるとしても、賃金と物価とを併せて比較議論しないと公平な議論にはならない。私も給料が上がるのは嬉しいが、今なんとか苦心してワンコインに抑えているランチ代が上がるのならあまり意味はないと考える。


 また、中小企業経営の立場から考えると、ここも苦しいところがある。今年はまた最低賃金が引き上げられ、東京都は1,113円になるが、我が社の初任給の一部がこれに引っ掛かり、来年の専門学校卒の初任給の一部を引き上げざるを得なくなった。社員の給料はなるべく高くと思うが、それには収益力が伴わないといけない。社員を低賃金で働かせるつもりは毛頭ないが、毎年昇給を実施していくためには収益力も上げないといけない。しかし、経営環境は厳しく、それは簡単ではない。一つの指標だけを取り上げてどうこうという議論には違和感を禁じ得ない。


 私が銀行員になった1988年の初任給は確か128,000円だったが、2022年は205,000円である。失われた20年とか言われているが、初任給ほど物価は上がっていないような気がする。若手時代は土日の昼飯はよく吉野家の牛丼の大盛りを食べていたが、当時は確か500円だったように思う。なんとなく、ではあるが、賃金は「相対的に」それなりに伸びているように思えてならない。政府は最低賃金だけを目標にするのではなく、「物価の抑制と併せて」、最低賃金の引き上げを目標にしてもらいたいと思う。その時大事なのは、諸外国と比べてどうかという事ではなく、あくまで国内の生活実感としてどうかである。


 中小企業の経営の立場としては、もちろん、最低賃金以上の給料を払うのは当然の事。少しでも多くなるようにしていきたいところ。最低賃金はあくまで「最低」、業界平均を上回れるよう、頑張っていかないといけないと思うのである・・・



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【本日の読書】

  


2023年8月30日水曜日

議論に思う

 このところX(旧ツイッター)をチラホラ眺めている。見るだけでつぶやきはしないのだが、いろいろな考えが発信されていて興味深い。このところ福島の処理水の海洋放出を巡る意見に目が留まる。賛否両論を読んでいると(と言っても圧倒的に反対論が多い)、自分も考えてしまう。そもそも論として、「貯水の限界」があると思う。事故から12年半経っていて、その間ずっと冷却しているわけだから、その冷却水をずっと貯められるのも凄いと感じてしまう。しかし、それにも限界があるのは当然なわけで、海洋放水という出口に行きつくのも当然だと思う。海洋放水の議論はここから始まっていると理解している。

 反対論は、一言で言えば「危険な水を海洋に放水するな」ということになる。ここから、議論は「安全だ」、「安全でない」というものに終始している(ように思える)。一体、どちらなのか。「安全」なら海洋放水に何の問題もないのは当たり前で、そうでないなら海洋放水などするべきでない。そこが我々にはわからない。「トリチウム」という物質が焦点になっているようだが、これは安全基準の40分の1というレベルのようであり、それだけ聞けば問題はなさそうに思う。しかし、反対論の中には、トリチウム以外の物質についてチェックしていないという。

 それに対しては、トリチウム以外にもチェックしているという反論もあり、その範囲も考えると素人的にはついていけない。一つの指標として、外部の専門機関の意見はどうなのかと言えば、国際的な権威であるIAEAの査察を受けて「問題なし」とお墨付きを得たことを考えれば、やはり問題ないと思わざるを得ない。そもそももうこれ以上貯められないという問題をどう解決するのかが気になるところ。問題の出発点があるわけで、その解決策を提示しない反対論は意味がないと思う。個人的には「代替論のない反対論」は意見として認めたくないという思いがある。何らかの問題があって意見を出しているのであり、反対するならその問題をどう解決するかを提示しないといけない。

 では、この点はどうかというと、「敷地はある」というのがその代替論。どのくらいなのかまでは示されていないが、ではこれが代替論として相応しいかというと、「敷地がなくなるまで問題を先送りするのか」と考えてしまう。それはどうだろうと思う。敷地に余裕がなくなってから議論するよりも、早い段階で(と言っても12年半も経っているが)議論すべきであるのは言うまでもない。どちらが正しいのかという事に関しては、個人的にどちらの肩を持つつもりもなく、中立的に考えているが、そこにももしかしたらバイアスがあるのかもしれない。

 反対論の主張者の中には「何でも反対」の人がいる。政府のやることはとにかく間違っていて、間違ったことばかりであると思っているのだろう。共産党の人はその最たる人たちである。そういう「何でも反対」の人は、それだけで「またか」と思わされる。その点、「是々非々」で意見を言う人であれば、その都度「どんな意見なんだろう」と聞いてみたいと思わされる。それは逆に「何でも賛成」の人にも当てはまることで、やはり数は少ないが、政府のやることをいつも擁護する意見を主張している。

 「何でも反対」でも「何でも賛成」でも信頼性は薄い。「是々非々」の人に関しては、信頼性は高い。本当は是々非々の人の意見だけ聞ければいいのだが、そうもいかない。であれば、賛成反対それぞれの意見を聞いて、自分の中でバランスを取って考えるしかない。福島の処理水の海洋放出については、自分に直接何の利害関係もないので、比較的冷静・公平に考えられる。しかし、それでも何が正しいのか判断に迷うのは、結局のところ「安全か安全でないか」が我々にはよくわからないということに尽きる。そこで「安全」というのに100%を求めてはいけないが、もう少し分析結果を詳しく公開したらいいのではないかと思えてならない。

 こういう議論を読んでいると、自分が何かの立場を主張する時の参考になる。身近なところでは仕事での議論だが、常に是々非々で判断する態度と、事実に基づいて考えるスタンスは大事だとわかる。取締役会で、常にある役員の意見に否定的だったり、肯定的だったりではなく、是々非々で判断する。誰にでもわかりやすい事実を根拠として自分の考え方を説明する。そういう態度が、他の人の信頼を得る元になるように思う。感情論を振り回すのは論外だろう。

 たまにはXなどを除いて、そういう賛否論に触れて見るのも悪くはないと思うのである・・・

Susanne Jutzeler, Schweiz 🇨🇭 suju-fotoによるPixabayからの画像


【本日の読書】

  






2023年7月27日木曜日

企業経営に大事なもの

 ♪車を売るならビッグモーター♪で有名なビッグモーターが揺れている。なんでも修理で預かった車に故意に傷をつけて保険を割り増し請求していたとか。常識で考えればとんでもない事であるが、経緯を見れば何年も遡ることができるみたいであり、常態化していたようである。なぜそんな悪質な行為が蔓延していたのかと言えば、それは経営からの「売上に対する圧力」だそうである。どこかで聞いたような話である。そしてトップはそれを「知らなかった」というのもまた然り。東芝で大問題になったのに、他山の石にはならなかったようである。

 企業が売上を重視するのは当然である。企業は成長し続けなければならない。と言うと反発心を持つ人もいるかもしれない。しかし、単純な話だが、そういう反発心を持つ人に対しては、「毎年給料が上がってほしいか?」と尋ねてみればよい。売上が上がらなければ、当然ながら給料だって上がらない。我が社でも人事面談でそう質問すれば100%の人が「上がってほしい」と答えるし、したがって企業が成長しなければならない必要性も理解してくれる。

 しかし、難しいのは簡単に成長できるものではないという事である。市場環境もあるし、競合もいる。企業はどこだって支払は低く抑えようとするし、それは自社の取引先も然り。そこを何とか上げていかないといけないのである。東芝もビッグモーターも法令やモラルに反してまで儲けろとトップが指示したわけではないのだろう(私は基本的に性善説の立場に立って考える)。ただ、儲けろという指示だけで、「どうやって」がなかったのだろうと想像できる。

 それにどうやらノルマを達成できないと降格人事もあったようで、降格となれば給料も下がる。家族持ちには大変だろう。「達成不可能なノルマを与え、できなければ降格」となれば、私も良心が咎めつつも不正に手を染めるかもしれない。現場で不正を働いた人を責めるのは酷なように思う。責めるべきは、そういう環境を作り出した幹部という事になる。「儲けろとは言ったが、不正をしてまでとは言っていない」というのは、負け犬より空しい遠吠えである。

 責められるべきは社長であり、トップのただ儲けろというだけの無能な指示をなんの疑問も持たずに下に下ろした取締役であり、その下の部長なりの現場までの責任者だろう。経営者であれば、東芝事件が起こった時に、「我が社は大丈夫か」という危機感を持たなければならない。取締役も然り。そして現場に近い管理職ほど、「無理なノルマ」だという事はわかるだろうから、そういう可能性も考えないといけない。おそらく、そういう正論を吐ける空気もなかったのだろう。

 最近は「心理的安全性の高い組織づくり」などということがもてはやされている。「こんなノルマ無理です」と言える環境も大事だし、上に立つ人間はそれに対し、「何としてでもやれ!」という根性論をぶつのではなく、「こうすればできるのではないか」という方法論で対処すべきであり、先頭に立って実行するリーダーシップが大事だし、それができないなら責任は上へ上へと行くべきである。つまり、ノルマ未達で降格させたなら、その直属の上司も降格すべきであり、その上の取締役、社長まで降格すべきなのである。そうでなければ人心は廃れ、組織は荒廃するだろう。

 上場企業であれば、成長を求められるのは当然であり、そのレベルも高いものが要求されるだろう。どういうレベルを目指すかは難しいが、少なくとも高過ぎもせず低過ぎもしない目標というのも難しいのは事実。簡単に手が届く目標はもちろん、「どう考えても無理」という目標を立ててもモチベーションは上がらない。ただ、「考えに考え、さらに考えてがむしゃらに実行したら目標達成できた」という事もあるから、一概に高過ぎる目標はダメとも言い難い。そこを見極めるのは難しい。

 1つ言えることは、「売上至上主義」ではダメだということ。それは言い換えれば「何をやっても売り上げを上げたら勝者」ということであり、何でもやるだろう。それがたとえ不正であっても。成果主義なども同様で、売上を求める一方で、モラルも維持するような風土も同時に育まなければならない。考えてみれば、「売上を上げろ」と言っているだけであれば、誰でも経営者になれる。自分が「誰でもなれる経営者」ではないと思いたいのであれば、ただ「売上を上げろ」だけではなく、その道筋も示さないといけない。

 我が社も年率15%アップの中期経営計画を立てている。そしてその筋道もきちんと示している。やる事は明確である。できなければ取締役の責任で、できなければボーナスも出ない(社員は出る)。当たり前だと思っていたが、どうやらビッグモーターよりは立派な経営陣だと胸を張れるのかもしれない。胸は張れてもボーナスが出ないのでは洒落にならない。妻にも白い目で見られてしまう。何とか頑張って業績目標を達成したいと思うのである・・・


3D Animation Production CompanyによるPixabayからの画像



【本日の読書】

 




2023年7月9日日曜日

不倫報道に思う

 広末涼子の不倫が報じられ、まだまだ関連記事をあちこちで見かける。芸能人の不倫と言えば興味本位の報道に終始がちかと思うが、今回はラブレターの公開にいたって「やり過ぎではないか」という意見もあったりして、擁護論的な意見が出ているのはちょっと安堵する部分もある。芸能人の宿命と言えばそうなのかもしれないが、個人的には不倫報道には何の興味もないし、広く世間にさらされて、さらには損害賠償なんて話もあって誠に気の毒だなという風にしか思わない。


 そもそもなんで不倫なんか報道するのだろうかと考えてみると、それは「記事が読まれるから」に他ならない。読まれもしない記事なんか書いても商売にはならない。「読まれるから書く」のだろう。しかし、読む方からすれば、「書かれるから読む」的なところもある。実際、私もそうである。だが、それで「記事としての価値がある」と思われるとちょっと違う気がする。たとえば道を歩いていて、ある家の玄関のドアが開いていれば自然と中を見る。他人の家の中を覗きたいとは思わないが、ドアが開いていれば見る。しかし、それは果たして「興味」なのだろうか。


 「興味」もいろいろである。例えば高校時代、「誰と誰が付き合っている」などという話は興味深かった。「知りたいか」と問われれば「知りたい」と答えるだろう。それは確かに興味ではあるが、なんでも知らないことを知りたいと思うのは人間の本能とも言える。社内恋愛もその類といえるし、それが身近な知り合いとなればさらに興味は増す。「知りたい」という「興味」である。芸能人もそうなのかもしれない。もちろん、同じ高校でも会社でもまったく知らない人同士であれば興味もわかない。それと同じなのかもしれない。


 不倫報道ではたいてい叩かれる。芸能人であれば、番組の降板などにつながってその影響は大きいだろう。そもそもなんで降板させるのかという疑問はある。問題行動だとしても、それは本人の家族に対するものであって世間に対するものではない。犯罪として処罰されるようなものではないし、なんで他人がとやかく言うのか、それこそが問題であるように思う。倫理的に問題なのは間違いないが、他人には関係のない話である。番組の降板も本人の責任なのかと思うと、それも疑問である。ただの世間に対する忖度でしかないように思う。そんな忖度で降板させた者の判断であるのにそれを本人に負わせるのはいかがかと思う。


 それにしても文春もよく暴くなと思う。あらゆるところにネットワークを張り巡らせているのだろうが、大したものだと思う。だが、仕事としてはどうなのかとも思う。職業に貴賤はないと思うが、「やりたい仕事」、「やりたくない仕事」というのはある。個人的には人の秘密を暴くような仕事は「やりたくない仕事」の筆頭である。それがウォーターゲート事件のようなものならやりがいもあるかもしれないが、熱愛報道、不倫報道の類はそうではない。たぶん私がやっても成果は上げられないだろうが、選ぶ自由がある限りはやりたくない仕事である。


 芸能人の不倫報道は尽きることがない。そのたびに叩かれ、仕事も(一時的に)なくなり、芸能人としては不利益しかないが、なぜみんな不倫をするのだろうか。バレたら大変なことになるというのは誰もがわかることだろう。それでも不倫をするのは、一つには「自分はバレない」と思っているからでもあるし、もう一つには恋愛にブレーキはかけられないからだろう。恋愛に結婚しているか否かは関係ない。ロミオとジュリエットの時代から、禁じられた恋は障害があるからこそ盛り上がったりするところもあるだろう。


 そもそも不倫は本当にいけないことなのか。配偶者に対する裏切り行為としては批判されるべきであるが、他人がどこまでそれを批判できるのかは疑問に思う。モラルを重視する人にとっては、たとえ他人に迷惑をかけないからと言っても許されるものではないということはあるだろう。そう考えると、私はモラル意識よりも「人間だもの」と考えてしまう方が大きいのだろう。まだまだ不倫報道は続くだろう。石川五右衛門ではないが、「世に不倫の種は尽きまじ」である。


 不倫報道なんてするべきではないとやっぱり思う。それに対して、「読む人がいるから」と言うなら、自分は「読まない人」になろうと思う。私一人そうなったからと言って何が変わるというものではない。ただ、世の中を変えようと思ったらまず自分から。まずは自分が無関心になるところから始めたいと思うのである・・・

Victoria_RegenによるPixabayからの画像

【今週の読書】

     





2023年6月21日水曜日

十人十色

 先日、ダイヤモンド・オンラインで、『「子供産まなくてよかったです、マジで」投稿に賛否、子育てパパが抱いた違和感とは』という記事を目にした。記事の内容自体にどうこうというものはない。とある女性が「子供を産まなくてよかった」と語っているものである。それに対し、読んだ人から賛否の意見が殺到しているらしい。また、記事を書いた記者もそれに対する俯瞰的な意見を述べている。こういう「どちらがいい」的な意見を見ると、個人的にはいつも覚めた目で見てしまう。どちらがいいかなど「その人次第」だからである。

 「どちらがいいか」的な議論ほど空しいものはないと個人的には思う。なぜならそれは「蓼食う虫も好き好き」の世界だからである。「かつ丼がいいか、カレーがいいか」は人それぞれ(私はかつ丼派)。それを唾飛ばしあって「どちらがいいか」を議論しても永遠に結論は出ない。どんなにカレーがいいかと強調されても、私は「(カレーも好きだが、どちらかと言われたら)かつ丼が好き」という意見を変えるつもりはない。個人の好みだからである。

 個人的には、「子供を産んでよかった(産んだのは妻だけど)」と思っている。その前の結婚もしてよかったと思っているし、だからと言って「(結婚)しない方がいい」と思っている人が間違っているとも思わない。自分の人生なのだから、自分が望むように生きたらいいのであり、その生き方は人それぞれである。子供を持つ喜びはもちろん大きいが、苦労もある。経済的な負担も大きい。子育て方針を巡る妻との意見相違はストレスだし、子供も親が望むようには育ってくれない。

 ショーペンハウアーの言うように、「生きることとは悩むこと」というほど人生は苦悩に満ちている。子供を持てば持ったなりに、持たなければ持たないなりに苦労は伴う。どちらがいいかなどは比較しようがない。そこにあるのは、「どちらの苦労を選択するか」でしかない。もっとも、苦労ばかりではなく、どちらにも喜びがある。自分のDNAを受け継いだ子供が生まれたという喜び。ハイハイした姿を見る喜び。何気ない仕草の一つ一つ。今はもう過去の思い出であるが、それらは仕事の疲れも一瞬で癒す喜び。自分は子供を持って良かったと思う。ただそれだけ。それが万人に当てはまるというものではない。

 同じように「家を買った方がいいか、賃貸がいいか」もよくある論争だが、これもどちらがいいかはその人次第である。個人的にはどう考えても持ち家の方がいいと思う。何より賃貸は永久に支払いが続く。返せば終わりの住宅ローンとは大きな違いである。月々の家賃が10万円としても年間で120万円。それだけのお金が年金生活に入ってもかかるわけである。持ち家ならそれを旅行に回せる。比べるまでもないと思うが、それはあくまでも私個人の話で、賃貸派の人にはまた独自の心地よい理由があるだろう。それを否定することは誰にもできない。

 では、議論することが無駄かと言われればそうではない。お互いの意見を知れば考え方が変わる可能性もある。自分の意見は自分の意見として、違う意見を聞くのも悪いことではない。個人的には人の意見を聞くのは嫌いではないので、そういう議論もいいと思う。ただ、どこまで行っても平行線的な議論は、適度なところで切り上げたいとすぐに思ってしまうのも事実である。そういう不毛な議論にはすぐに飽きてしまうクチである。

 最近はネットで意見を発信しやすくなっているし、いたるところでそういう議論に出くわす。そういう議論は「どちらがいいか」と悩んでいる人にはいいと思う。「これから結婚すべきか」「子供を持つべきか」「家を買うべきか」等々、そういう悩んでいる人に対しては、大いに参考になると思う。特に自分がいいと思う意見をその理由とともに説明してくれれば、双方のメリット・デメリットを比較し、選択する判断材料になる。

 その際だが、思い通りの意見だけではなく、「思い通りでない」意見もあった方がいいかもしれない。すなわち、「したかったけどできなかった」意見である。「子供が欲しかったけどできなかった」「子供は欲しくなかったけどできてしまった」「家を買いたいけど買えなかった」などの意見である。こうした「後悔」系の意見もこれからの人には参考になるに違いない。人の生き方は、それこそ人の数だけあっておかしくない。これと決めるのもおかしな話。それぞれが自分に合った生き方をして、それで幸せだと思えるのであれば、それを他人がとやかく言うべきものではない。

 「子供産まなくてよかった」という人の気持ちは私にはわからない。「家は賃貸がいい」という人の気持ちもわからない。いくら言葉を尽くしてその良さを説明されても納得はできない。だが、それでいいと思う。私も自分の意見を押し付けようとは思わない。夫婦も死が2人を分かつまでともに暮らすべきだとも思わない。私もこのまま子供たちが巣立ったあと、妻と2人で暮らしていく自信はない。互いの価値観はここにきて大きく異なっており、離婚するかどうかは別として、一緒に暮らすメリットは少ないと感じている。別居夫婦も選択肢の一つである。

 人の生き方はそれぞれと言ったが、自分の生き方もまた世間の常識にとらわれたくない。自分にとって心地よいものにしたいと思う。たとえそれが人からどう思われようと、生きるのは自分であって他人ではないのだから。これからもいろいろな議論を参考にしつつ、心地よい生き方を目指していきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

 




2023年5月10日水曜日

経営者保証について思う

 「経営者保証求めません」 地銀、相次ぐ融資慣行見直

日経新聞202358

地方銀行で融資先の企業に経営者保証を求めない動きが広がっている。八十二銀行や山陰合同銀行、福岡銀行など少なくとも10行以上が原則、経営者保証を求めないことにした。万が一の場合、経営者個人が私財を差し出して借金を返済する経営者保証は、心理的負担の重さから起業や経営への弊害がある。こうした融資慣行の見直しは、スタートアップの育成などにつながる可能性がある。

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 銀行が企業に融資をする場合、基本的に社長個人に保証人になってもらう。上場企業などの一部を除き、中小企業ではほとんど必須である。もしも倒産などで企業が借入を返済できない場合、社長は個人保証をしているので個人の預金や自宅などすべて債務の弁済に取られてしまうことになる。ただでさえ会社が倒産すれば収入がなくなるのに、住む場所もなくなればそのダメージは大きい。倒産すればほとんど再起不能になりかねない。これが日本の起業率の低さの元凶だとかなり以前から経営者の個人保証を外そうという動きがあったが、ここにきてようやく進展があるのだろうか。


 しかし、以前から問題にはなっているものの、進んでいなかったのには訳がある。それは「悪用」があるからである。今や法人など簡単に作れる。簡単に設立して、今ならスタートアップのための「創業支援資金融資」なんてのもあるから担保がなくても借りられる。借りるだけ借りて後は知らん顔すれば、借りたお金はまるまる丸儲けにできる。逃げる必要もない。「すみません」と頭を下げれば済んでしまう。しかし、経営者保証をつけていたらそうはできない。会社で返せなければ個人で払わなければいけないので逃げられないのである。


 そうでなくても、会社が傾き始めれば、経営者も馬鹿ではない。密かに自宅の名義を奥さんに変えたり、預金を奥さんの口座に移したりするものである。保証がなければそんなことをする必要もない。その昔、故石原慎太郎が都知事の時、「保証人を取らない」と大見栄を切って都民のお金で新銀行東京を設立した。当時銀行員だった私は冷ややかに見ていたが、不良債権市場には2年もしないうちから新銀行東京の貸付債権が流れ出てきていた。結果は大失敗。金融素人知事の無知による税金の無駄遣いであった。


 今日まで経営者保証がなくならないのには理由があるのである。されど起業や事業承継にはこの個人保証がネックになるのも事実。「どうにかしなければ」というのも当然の議論である。しかし、私から言わせれば実に簡単なことである。「取るか取らないか」の二者択一で考えるから難しいのである。取った上で「外す仕組み」を作ればいいだけのことである。一旦は保証を取っても、「一定の条件を満たせば外す」ということにすればいいのである。


 例えば企業と言っても、「夫が社長で妻が経理」なんて企業は基本的に個人事業と変わらない。こういう企業は保証付きにしておくのは止むを得ない。ある程度の規模になり、利益も出していて、少なくとも「会社と社長の財布ははっきり分ける」ことが必須だろう。家族でご飯を食べに行ってその領収書を会社の経費で落とすなんて公私混同をしているようではダメだろう。社長に多額の貸付金がある場合も然り。銀行員に事業の目利きを求めることは不可能であるが、こういうことなら充分チェックできる。


 ちなみに以前から、「銀行が事業の目利きをきちんとすれば個人保証に頼る必要はない」という意見をもっともらしくいう人がいるが、これも素人発想。例えばコロナ禍で倒産した企業について、「コロナ禍を果たして予測できる人間がいるか」と考えてみれば自ずと明らかである。フィルムが急速にデジタル化され、富士フィルムは生き残ったが、コダックは倒産した。ではコダックの倒産を目利きできた人間がいただろうか。何が起こるか予測できないから、日本の銀行は長年担保主義だったのである。


 それは今でも変わらない。倒産リスクを睨みつつ、貸しすぎないように貸すしかない。そして一定条件をクリアーしたら経営者の個人保証を外すというルールを明確化すれば、みんなそれを目指して健全経営を心掛けるだろう。利益も計上しないとダメとすればそれは税収入にもつながり、一石何鳥もの効果があると思う。我が社も近い将来の事業承継に向けて社長個人の保証を外すべく、経営の健全化を図っている。経営者保証をなくすという流れは追い風になると歓迎している。


 ちなみに、民間のこういう動きに対して、信用保証協会は頑なに個人保証堅持の姿勢を崩さない。むしろ代表取締役として登記をすると、社長以外にも会長や副社長なども個人保証を求められる(民間の金融機関は社長だけにとどめてくれる)。公的機関がそんな前近代的なスタンスでどうするのだと思わなくもない。ただ、経営者保証を外すのはいいけれど、ただ「外す」だけでは、それはそれで問題がある。銀行員も金貸しのプロならば、保証を「取るか取らないか」の二者択一ではなく、「外せる企業」を見極める能力を磨くべきだと思う。


 そんな議論をせずして二者択一の議論に終始するのは、「やっぱり保証は取らないといけない」という後戻りを招くような気がしてならない。もっと頭を使って考えればいいのになと、元銀行員としては思うのである・・・


MaxによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 





2022年12月18日日曜日

防衛費増額議論に思う

「継戦能力」予算を倍増 防衛3文書、装備品整備に9兆円

20221210 2:00 

政府は国家安全保障戦略などの防衛3文書で自衛隊の「継戦能力」に関する予算の倍増を盛り込む。202327年度までの5年間で、定期的に防衛装備品を点検し老朽化した部品を取り換えるといった維持整備費に9兆円、弾薬補充に2兆円を充てる。装備品をいつでも使える状態に保って稼働率を上げ、継戦能力を高める。相手のミサイル発射拠点をたたく「反撃能力」の手段となる長射程ミサイルには5兆円を確保する。防衛力整備費用は5年間の総額を現行計画の1.5倍にあたる43兆円に増やす。

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 最近、我が国の防衛力を巡ってのニュースが目につくようになった。特に「継戦能力」なるものが際だってきたと感じていたら、とうとう「防衛費増強」という名目で、しかも財源は増税でということも新聞に出るようになった。新聞に出るというのは、ある程度政府が意図的に流しているからなのだろうと思う。日本には記者クラブというのがあって、そこでクラブに加盟している記者が政府から情報を得て報道しているというし、という事は政府が国民に伝えようという意思表示なのであろうと思う。


 何となく唐突感はあるが、そうではないと思う。水面下で問題が生じ、どうにも予算は増やさねばいけないということになり、とは言え財源は確保しにくいし、増税は国民の理解を得にくい。という中でどうするかというと、最初は関係のないところから小出しに出していって少しずつ問題に触れさせ、徐々に増税のムードを作り上げておいて満を持して「増税が必要」という議論に持っていこうというものではないかと思う。「嘘も100回つけば本当になる」と言われるが、「必要だ」と繰り返せば何となく必要感が醸成される。そこが狙いなのだろうと思う。


 そもそも防衛費なんて必要なのかと考えると、残念ながら今の人類のレベルでは必要なのだろう。本来は争いなどせず、平和的にやれば万事うまく行くと思う。されど人類の歴史は戦争の歴史。今もウクライナでは戦火が炎上中で、その影響が為替や物価に及んでいる。我が国も台湾危機に備えて、各企業が中国からの調達シフトを進めており、それは少なからず調達額の増加=利益の圧迫につながっているという。互いに譲り合える世界なら物価高などとは無縁に暮らせるのにと思わざるを得ない。


 もともと人間には欲があって、「もっともっと」というのは人間の本能に近いと思う。それ自体悪いとは思わないが、そこに「自分だけ」が加わると、他人を排除しようということになる。「自分だけは」がやがて「自分の家族だけは」になり、「自分の住む地域だけは」、「自分の住む国だけは」となるのだろう。それが領土を巡っての争いとなる。それが高じれば戦争となる。そういう歴史を繰り返してきて、ようやく戦争は少なくなったが、それが人類が賢くなった証かと言えばさにあらず。結局は、「抑止力」でようやく均衡を保つ世界となっている状況である。


 「抑止力」に頼らざるを得ないというのも本来情けない話ではある。「抑止力」は非常に危うい。「あいつはケンカが強そうだ」と思えば人はケンカを避けようとする。しかし、勝てると思えばケンカも辞さない態度になる。ケンカを避けるためにはケンカに強くならなければならないというおかしな世界になる。相手がケンカに強くなろうと武術を習い始めたと聞けばこちらも対抗して習い始めなければならない。なぜなら、相手が強くなってこちらに勝てると思われたらケンカを売られるかもしれない。それが国家レベルになると軍拡競争になる。


 防衛費の増強については、ついに「反撃能力=敵基地攻撃能力」を保有するという宣言が日本政府によってなされた。これまでは「殴られたら殴り返す」としていたのを「殴られそうになったら殴られる前に殴る」と改めたわけである。軍事的な事はわからないが、背景には兵器の性能が上がってきた事があるように思う。「殴られたら殴り返す」と言っていても、一発でノックアウトされたら意味はない。北朝鮮が核ミサイルを発射しようとしていたら、「殴られるまで待て」は果たして正解なのかと問われたら、反対派の人は何と答えるのだろうか。

 

 しかし、かと言って怖いのはそれが拡大解釈される事。「大量破壊兵器を隠している」と言いがかりをつけて、自分たちの意にそぐわない政権を先制攻撃によって倒してしまった大国の例もある。力は正しく使ってこそであるが、正しく使える人が常にその地位にあるかどうかの保証は何もない。議論をすることはいい事だと思うが、何となくもう結論が出ていることに対して、増税のムード作りのためになされているような気がしてならない。そして本来、そういう議論にもっと国民全体が関心を持つべきだと思うが、そうではないところが残念なところ。


 また、議論が盛り上がるとしても、我が国はマスコミの報道に一方的に流されるところがあって、それもまた怖いところがある。この先どうなるのだろうか。せめて自分はしっかりと関心を持って成り行きを見守りたいと思うのである・・・

 

Mike CookによるPixabayからの画像 


【今週の読書】