先日、何気なく目に入ってきたテレビ番組で、老化についての研究の最前線の様子がレポートされていた。マウスによる実験では、実際に細胞が活性化し若返りが確認されたという。2030年代には実用化されるような可能性も報じられていた。実に素晴らしい。不老不死は太古から人類の夢であり、生物である以上、それは無理な夢かと思っていたら、どうやら不老は少し延ばせるのかもしれない。実用化されたとしてもそれは果たしてどのくらいのものなのだろうか。まさか永久的にとはいかないだろうが、平均寿命が120歳というようなレベルであれば素晴らしい事である。是非とも早期実用化を願うばかりである。
シニアのラグビーをやっていて、愕然とさせられるのはシャワールームである。みんなの裸体が一目瞭然。たるんだ皮膚、皺。40代くらいまでだとまだ皮膚に張りがある。ところが私より上の世代では見事にたるんでくる。特に尻。老化の現実をもろに見せつけられる瞬間である。自分の背中とか尻とかは見えにくいが、たぶん似たり寄ったりなのだろうと悲観的な気持ちになる。パスのスピードも走るスピードも遅くなる。咄嗟のプレーに対応できない。「花園に出場した」という経験を語る人もプレーにその片鱗は見られない。私が目にしている老化の現実である。
若返りが可能になれば、私のようにスポーツに勤しむ者はいつまでも十分な形で楽しむ事ができる。病気も減って国の医療費の軽減につながるだろう。何より個人の人生をより長く充実して楽しむ事ができる。良いことづくめのように思える。しかし、心配なのは年金財政だろう。今の制度ではあっという間に破綻してしまうだろう。今よりもさらに寿命が延びるわけである。支給開始年齢も65、70、75歳と延びていかざるを得ない。いったいいつになったら年金をもらえるのかわからなくなる。まぁ、その分健康寿命も延びれば働けるわけであり、自分の食い扶持は自分で稼ぐという事になるのかもしれない。
さて、そうなった場合、世の中はどうなるのであろうか。定年が80歳まで延長されたら出世の階段も雲の上に届くくらい長くなるのだろうか。それでも階段を登れるうちはいいが、登れない人にとっては長い苦痛の時間か、プライドを傷つけられての忍耐の時間があるだけである。登れたとしても次の段までがまた長いだろう。そうなると、なかなか給料も上がらないかもしれない。今でもそういう動きはあるようだが、伝統的なピラミッド型の組織構造も変わっていくのかもしれない。
個人的な経験からすると、やはり一つの企業に長くいるよりも幾つかの企業を渡り歩いた方が面白いと思う。50〜60歳くらいまでの間は最初の企業で頑張って生活の基盤を安定させ、後半は少しリスクを取って中小企業など自分が幹部として活躍できる場所に移れば面白い経験が積めると思う。出世の長い階段を前に立ち尽くすよりも、実力の蓄積と生活基盤を整える事に集中して、時期が来たら「第二の就活」に乗り出す事もできる。80歳までのビジネス人生を前半後半の二部構成で考えられる。
もっとも怖いのは「精神の老化」だろうか。年齢を経てくると人間は間違いなくめんどくさがりになる。自分でやるより人にやってもらおうとする。新しいものは「わからない」と初めから敬遠するようになる。あえて自分から手を挙げようとしなくなる。昨日と同じやり方で今日を乗り切ろうとする。それが脳の働きが劣化することによる生物的・必然的な反応であり、それも若返り化によって改善されればいいが、単に精神的なものであるなら問題である。いくら体が若くても、「魂の老人」は若者の足枷となる。
人間はなかなか自分の考え方を変えられない。年齢を経れば経験も加わって自分の考えが深まっていく。そうなると新しい考え方を受け入れできないところがある。我が社でも以前高齢の顧問とあるソフトウエアを巡って意見が対立した事があった。顧問には初めから否定されてしまい議論にすらならなかった事がある。最後はその話をしようとすらさせてもらえなかった。意見を聞いて試してみて、それでダメだと言われるならまだわかる。試しもせずにダメと決めつけられてはこちらとしても納得がいかない。「老害」とはこういう事かと思ったものである。私なら一通り相手の主張を聞いた上で判断するが、そう言っていられるのも今のうちなのだろうか。
その昔、銀行員時代に支店の上司がサミュエル・ウルマンの詩を見つけて感動し、ご丁寧に支店の全員に配った事がある。
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