2016年5月29日日曜日

運動会

昨日は息子の小学校の運動会であった。この時期に運動会をやるところも多いらしく、フェィスブックではあちこちの運動会の様子がニュースフィールドを賑わしている。高校生になった娘の運動会はやっぱり今月の平日に行われた。本人はあんまり親に来てほしくなさそうだし、わざわざ休みを取って行くのもなんだしと思って行かなかったが、息子の運動会は休日だ。「ビデオ撮影担当」という家族内での役割もあり、早起きして学校に向かう。

幼稚園の時は、「場所取り」というのが大事だったが、小学校の運動会ではそれがない。6学年もあるからかもしれないが、父兄も適宜場所を交代して観戦している。それはそれでありがたい。ビデオ撮影班の私は脚立を使うので、前の人の頭が邪魔になるということはほとんどない。脚立を使うと、前の人の頭に煩わされることもなく、そればかりか少し高い位置から撮ると、立体的に撮れるというメリットもある。並んだ時に、手前の生徒だけでなく、一緒に奥の生徒まで撮れる訳で、これは再生する時に違いが出るのである。

さて、そんな撮影には事前準備が重要である。あらかじめ妻が息子に各競技の際の立ち位置を聞き出しておく。その情報に基づいて、撮影ポイントを決めるのである。撮影の腕は思いっきり素人だから、せめて「ポジショニング」で技術をカバーすることも大事なのである。幼稚園の時は、親子競技があったが、この時は競技に参加しながらもカメラの位置を意識して動くということもやってのけたが、まぁ基本中の基本である。

最初の競技は「大泉ソーラン」というダンス。娘も小学校ばかりか中学校の運動会でもやっていたから、ローカルなダンスでもなさそうである。全員お揃いのTシャツを着て、鉢巻を締めて踊るのである。さすがに低学年の子達の「かわいいダンス」と比べて、動きも大きく躍動的で成長の跡を感じさせてくれるものである。これと6年生の組体操が、演技種目としては見応えがあったが、当然なのであろう。

個人的に徒競走は応援にも力が入る。何せ「運動会=徒競走」だと思っているくらいである。私も子供の頃は足が速かった方であるし、リレーには常に選手として選ばれていた。幸い、息子も足は早い方で、その点では父親の期待に応えてくれている。しかしながら高学年になってから徒競走は事前のタイムトライアルで走る順番が決められるようになっている。我が息子は、「一番最後の組=一番足の早い子たちのグループ」なのであるが、ここは強豪ぞろい。期待むなしく残念ながら息子は4着であった。

4着と言っても、事実は「学年4位」なわけで、まぁそれはそれで良いと言える。私は個人的に1番よりも2番の方を何となく好む傾向がある。それも圧倒的な差のある2番ではなく、「僅差の2番」である。こう言う位置付けに心地良さを感じるのである。子供の頃も、足の速さで学年1番になった記憶はないが、息子もそんなところ父親に似ているのかもしれない。

最後の高学年リレーでは、息子は5年の走者として走る。スタートからゴールまで、すべて撮影したが、リレーはやっぱり面白い。終わって妻がママ友からリレーのビデオを撮ったかどうか尋ねられた。なんでもそのママ友は同じリレーの選手であった娘さんを撮り損なったらしい(男女混合リレーなのである)。ダビングしてあげようと再生したところ、走った順は息子のすぐ後。その時、カメラはバトンを渡し終えた第5走者の息子の勇姿を追っており、第6走者だった娘さんが走るシーンはほとんどなく、せめて第7走者以降であれば、走る場面も撮れていたのだが、そのママ友にとっては残念な映像になっていた。

あちこちでたくさんのパパママがビデオを回し、写真を撮っていた。同じ運動会でもいろいろなドラマがあり、どの家庭のビデオもそれぞれ撮影した映像は異なるのだろう。リレーでは次々とバトンが渡されていく。どの家庭でも我が子が主役。主役が走っていれば、走っている選手が画面の中心であるが、息子がゴールした我が家では、走者は画面の片隅でリレーがまだ続いていることを示す参考情報でしかない。仮にたとえ一緒に走っていたとしても、その画面では我が子は後ろから迫ってくる、あるいはもう少しで抜けそうな対象でしかないわけである。
かくしてとりあえず、ビデオをダビングして差し上げたが、娘が脇役でしかないビデオをどのように見ただろう。

何となくこの時期の運動会には抵抗感があるものの、こればっかりは仕方がない。来年はいよいよ最終学年。メインの組体操もあるし、息子のさらなる成長を楽しみにしたいと思うのである・・・



【今週の読書】
    

      

2016年5月25日水曜日

アンドロイドはどこまで人間に近づくべきなのだろうか

 一説によると、2029年までにAI(人工知能)はあらゆる面において人間を凌駕するらしい。テクノロジーの進歩を考えるとそれも不思議ではない。そして現実はともかく、既に映画の世界では様々な形でAIが描かれている。
 
 『イーグル・アイ』では神のような万能の存在、『ブレード・ランナー』では、定められた死期を逃れようと人間のように苦悩し、もがくレプリカント。レプリカントの姿かたちは人間と見分けがつかない。『ターミネーターⅡ』では、初めは冷酷な機械だが様々なことを学びながら最後は人類の為に行動する人間型の機械。
何となく究極的にはほとんど人間に近い姿が完成形であるようなイメージがする。
だが、それはどうだろうかと想像力を働かせてみた。
 
 スティーブン・スピルバーグ製作総指揮のドラマ『エクスタント』を観た。このドラマでは人間の子供のアンドロイドヒューマニクスが登場する。独自に進化を遂げ、やがて両親に反抗したりするようになり、より人間の子供に近づいている。ターミネーターが目的を達成する機械なら、ヒューマニクスは存在そのものに目的がある機械とも言える。どちらが望ましいのかは、やはり「何を目的とするか」によるのだろう。

 ヒューマニクスに求められる役割は、いわば「家族の代替」と言える。実際、私も子供が23歳くらいまでは本当にかわいくて、家に帰るのが楽しみであった。もちろん、今でも子供はかわいいが、その内容は変わってきている。ペットを飼う人もこの心境に近いと思うが、そうすると、人間に近づきすぎてもいかがなものかという気がする。
『エクスタント』を観ていても、親に反抗する子供には正直イラッとする。実際の子育てもそうであるが、それは人間こその成長の証であり、だからこそ許せるものであるが、時として怒らないといけないこともある。それが果たしてアンドロイドにも必要なのだろうかという気がする。

 およそ人間の悩みの多くは人間関係から生じているだろう。鬱になって会社に行けなくなるのも人間関係に原因があるのが大半だろう。お互いに感情があるから対立するし、だからストレスも感じるし、夫婦は離婚する。アンドロイドが人間に近づく=感情を持つということは、ストレスの原因をつくることにもつながる。そこまでにする必要があるかと言えば、そういう機械はほしいとは思わない。

 逆に目標達成型のアンドロイドであれば、指示したことを完璧にこなしてくれるだけでありがたい。特に年をとって動けなくなってきたら、24時間365日不眠不休で寄り添う「ターミネーター型」のアンドロイドがいれば、不安はない。子供も親の心配をしなくてもいいし、介護疲れや介護離職などという事もなくなる。サポートされる方も気楽だろうし、私が将来介護される必要が生じた時は、人間よりも「竹内結子」型アンドロイドに介護して欲しいと思う。

 しかし、そうした美人アンドロイドにかわいい子供アンドロイドが普及すると、わざわざ結婚したいと思う男はいなくなるかもしれない。いちいち奥さんに小言を言われることはないし、飽きたら「北川景子」型に外見を変更することもできる。そうすると結婚生活は楽しいことだらけになるだろうし、私も間に合うなら今からでもそういうアンドロイドがほしいと思う。ただし、本当に実現したら人類は少子化が一層進み、やがて滅亡へと向かうかもしれない。

 『ターミネーターⅡ』では、防衛システムが「最大の危険は人類」と判断し、人類抹殺に動く未来が描かれていた。それはあながち誤った判断とも言えず、AIが賢くなり過ぎるのは危険かもしれない。人間に限りなく近く、かつ従順となれば結婚も崩壊し、人類は衰退するかもしれない。そんなことを考えてみると、とどのつまり「進化もほどほど」なのが良いかもしれないとも思う。
私が生きているうちにそんなテクノロジーの進化がありうるのかどうかわからないが、未来は今より幸せなものであってほしいと思う。
 
 それにしても、人類衰退の危機があるとしても、「竹内結子」型介護ロボットの夢だけは、実現してほしいと思うのである・・・



【本日の読書】