2021年1月31日日曜日

成果を挙げること

 日本の社会にも成果主義が当たり前のように浸透している。銀行員時代は、月々の給料は定額であったが、賞与は事前に課されていた目標の達成度によって金額が変動する仕組みであった。プロスポーツの世界や外資などから比べると、増減幅の小さな成果給であったが、それでももらう金額や昇格などに影響があるとなると無視もできない。それなりに半年間成果を意識して取り組んだものである。

 そうした成果に結びつく「目標」は、目の前にぶら下げられたニンジンであるが、そうしたニンジンに勢いよく飛びつこうとする者もいれば、クールに振る舞う者もいる。すなわち目標に対して取り組みはするものの、ガツガツすることなく、場合によっては達成できずとも気にしないというスタンスの人である。日本人はもともと「お金」を卑しいものと考える風潮がある。お金儲けにガツガツしないというのは、それだけで評価を得られる。

 我々は何のために働くのかと問われれば、それは当然お金を得るためである。それで生活をしているわけであり、綺麗事を言っても始まらない。やり甲斐も大事であるが、それは「無報酬でも働く」と言えてこそであろう。ほとんどの人は、働く目的の第一はお金であるわけであるが、では成果主義が必要か否かとなると、やはり必要であろう。それは給料が払われる対象の違いでもある。

 定例の給与は、あえて言えば「プロセス」に対して払われるものである。出勤して仕事をすることに対して、報酬が払われる。それに対し、成果主義は「結果」に対して払われるものである。例えば、一日足を棒にして営業に回ったとする。成果が出なくても給与は払われるが、成果が出なければプラスαのボーナスは支払われないのである。企業側からすれば、大事なのは結果。ゆえに成果主義を取り入れる理由である。

 そういう成果主義がいいかどうかという点に関しては、社会全体としては善という結論が出ている。成果主義とは、言ってみれば資本主義と同義であり、かつてのソ連をはじめとして社会主義の失敗を見れば明らかである。やはり人間は「やってもやらなくても同じ」であればやらないものなのである。一生懸命やっても適当にやっても給料が同じであれば、仕事は適当にやってそのほかのものに注意を向けるのが人間なのだろう。

 それが会社となればどうかと言えば、それはやはり善であろう。目の前にぶら下げるニンジンは必要になるが、そのニンジンが食べられる時は確実に成果に結びついているわけであり、「プロセス」に対して給料を払うのに比べれば、ずっと良いわけである。もちろん、定額給与だけで仕事自体にやりがいを感じてどんどん成果をだす社員がいればそれに越したことはないが、やはり人間は「やれば報われる」と分かればやるものであり、企業としては当然それを取り入れるべきであろう。

 では、個人単位であればどうであろうか。私個人としての考え方でいけば、プロであれば給与をもらう以上、それ以上の成果を挙げるべきと考えるので、別に成果主義であってもなくても同じであるが、「あればなお張り合いが出る」という感じである。個人に関しては人それぞれであるから何とも言えない。ただ、目標に対してできてもできなくても変わらないという態度の人は如何なものかと感じてしまう。

 実際、そういう人はいるわけであり、ボーナスに対してあくせくしないというスタンスはカッコいいとは思うが、それはあくまでも目標を達成しての話だろうと思う。できもしないのに必死にならないというのは、「やる気がない」という風に感じてしまう。実際そうなのか、それとも腹の中では一生懸命もがいているのかはわからないが、腹の中でももがいていれば表に何らかの形で出てくるものだと思う。ゆえに「そう見えない」のはやはり「そこまでやる気がない」と言っても間違いではないように思う。

 そういう人のことをあえて批判はしない。所詮、人は人である。ただ、自分としては「給料分以上の仕事をする。求められている成果は挙げる」ということを基本に考えている。だから目標を達成できなかったのに平然としている姿には違和感を感じてしまう。そこに彼我の違いはある。お金のためにガツガツするのではなく、お金をもらう以上は期待に応えるという意味で、これからも成果をきちんと上げたいと思うのである・・・


Free-PhotosによるPixabayからの画像 

【今週の読書】
 



2021年1月28日木曜日

論語雑感 公冶長第五(その13)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子路有聞。未之能行。唯恐有聞。
【読み下し】
子路(しろ)は聞(き)くこと有(あ)りて、未(いま)だ之(これ)を行(おこな)うこと能(あた)わずんば、唯(た)だ聞(き)くこと有(あ)るを恐(おそ)る。
【訳】
子路は、一つの善言をきいて、まだそれを実践することができない間は、さらに新しい善言を聞くことを恐れた。
************************************************************************************

 子路という人は随分慎重な人だったのかもしれない。1つの教えを受けてそれを真面目に実行してからでないと次の教えを聞くことができなかったようである。実際はどうだったのかはわからないが、そもそも教えというものは、すぐに実践して終わるというものではなく、強いて言えば「身につけるもの」であり、そういう意味ではどんどん聞いてストックしていけばいいのにと私は思う。

 子路が意識した「聞くこと」がどういうものかは知る由もないが、私も名言の類は好きで昔からメモして手元に残すようにしている。そういう名言(言葉)には不思議な力があり、落ち込んでいる時に元気が出たり、勇気が出たり、気持ちが落ちついたりするものである。それらは「実践する」というよりもストックしておいて常に眺めたりしている。それは私生活でも仕事でも、一旦立ち止まって考えさせてくれたりする。

 そんな名言をいつからストックするようになったのかは、はっきりと覚えていない。しかしながら、なんとなく松本零士のマンガが記憶に残っている。

【サナギを醜いとあざけり笑う者はサナギから生れ出る蝶の美しさを知らない】(『大純情くん』)
このマンガの主人公はパッとしない男の子。日の当たらない四畳半一間で明日を夢見て今日も歯を食いしばって生きている。喧嘩も弱いから人にバカにされても反撃できない。そんな主人公の姿と、「いつか自分も」と思う気持ちがダブったのかもしれない。今は自分はサナギなのだと思うと、今を嘆かず頑張ろうという気持ちが芽生えたのである。

【幸せは得るものではなく気付くもの】
誰の言葉だったかわからなくなってしまったが、青い鳥ではないが、幸せはどこか遠くにあるものと思いがち。しかし、住む家があって、働く場所があって、両親はまだ健在で、子どもも健康で、と指を折っていくと実に自分は幸せだなと気付く。それに満足していてはいけないと思うが、そうした足元の幸せも意識したいと思わされる言葉である。

【底荷のない船は不安定でまっすぐ進まない 一定量の心配や苦痛・苦悩はいつも誰にも必要である(ショーペンハウエル)】
考えてみれば、自分はいつも何かに心を煩わせている。それはプライベートであったり仕事であったり、1つ片付くと次の問題が沸き上がってくる。だからこそ、こういう辛い思いをしなくて済むよう、幸せになりたいと思ってしまうが叶わない。しかし、うらやましいなと思う友人も、子どもがいなかったりするとその点だけは自分は幸せだと思うし、たぶんどんな金持ちでもそれなりに悩みはあるのだろう。そう考えると、自分の悩みも受け入れようと思えてくる。むしろもっと大きな問題よりいいかもしれない。

【あなたが生れた時、まわりの人は笑ってあなたは泣いていたでしょうだからあなたが死ぬ時はあなたが笑ってまわりの人が泣くような人生を送りなさい(村枝賢一)】
まさにその通りだなぁと思う。そしてその通りに実践するとしたら、心掛けたいのは、
【男は生き方】
であると思う。

【あふ時は 語りつくすと思へども 別れとなれば残る言の葉(大石主税)】
赤穂浪士の大石内蔵助の息子の言葉であるが、実家の両親などと日頃からコミュニケーションをもっと取ろうと意識させられる。

【あなたが空しく生きた今日は 昨日死んだ者があれほど生きたいと願った明日(『カシコギ』)】
当たり前のように過ぎゆく一日一日がいかに大事な日々かと思わされる。

【あれを見よ深山の桜咲きにけり真心つくせ人知らずとも】
誰も見ていなくてもお天道様は見ている。言い方は違うが、言っていることは同じ。そういう行動を心掛けたいと思う。

【努力家がみな成功するわけではないが成功者はみな努力家だ】
才能よりも努力で勝負するしかない自分としては、励みとしたい言葉である。

【信頼とは信じても頼らず、信用とは信じても用心すること】
仕事では特に有効な言葉。信頼、信用という意味を改めて意識させられる。

【万事休すという状況で諦めていないか 本当はそこから本物の知恵が湧く】
これから起こるかもしれない会社のピンチに備え、心しておきたい言葉である。

【上司がAと言ったらA+Bの仕事をこなさなければならない(大前研一)】
【仕事には面白い仕事のやり方と面白くない仕事のやり方がある(同上)】
大前研一はさすがに超一流コンサルタントだけあって、いろいろヒントになることが多いが、常に意識しておきたいのがこの二つ。常に給料分以上の仕事をしよう、辛いのを我慢するのではなく楽しく仕事をしようという自分にとっては、非常にいい言葉である。

 他にもまだまだたくさんあるが、どれも手元に置いてある手帳に書き込んである。常時読み返しては忘れないようにと意識している。さらに言えば、まだまだこれからいい言葉があればどんどんストックに加えておきたい。子路のように実践できないうちは受け入れないというのではなく、どんどん受け入れて己の行動指針にしたいと思う。そうしてそのうち、父の言葉として子どもたちに何かオリジナルの言葉を残せたらいいなと思うのである・・・


Jessica WoodによるPixabayからの画像 

【本日の読書】




2021年1月25日月曜日

社員教育を考える

 改めて社員教育とは何かについて考えてみた。社員教育は大手の会社であれば当然のこととして、ある程度の規模の会社であればどこでもやっていると思う。真っ先に思い浮かべる社員教育は、やはり新人研修だろう。私も名刺交換のやり方とかタクシーや応接での席順とかが記憶に残っている。将来起業したいと考えている学生でも、最初は一般企業に入った方がいいと私は思うのだが、それはこうした新人研修は受けておくと自分が会社を創った時に役にたつと思うからである。

 新人研修が終われば、基本的にあとはOJTだろうか。実務をこなしながらその会社で必要なスキルを身につけていくことである。場合によっては関連する資格を取得したりする支援もあったりするかもしれない。社内資格を設けているところもあるだろうし、私も銀行に在籍していた26年間、いろいろな研修を受けたものである。そして40代後半に退職後(銀行では50代半ばで退職して関連会社や取引先に転籍したりする)に備えての研修(銀行内では「たそがれ研修」と称されていた)を受けたのが最後であった。 

 翻って社員10人の中小企業に移った今、社員教育が必要かどうかと考えている。社内には反対意見もある。今さら「教育などおこがましい」という意見である。というのも、我が社の場合、社員はみな転職組で平均年齢は60歳の組織である。そんな組織で長年の習慣が変わるわけもなく、やるだけ無駄であり、何よりそんな年齢の人に上から目線で「教育」などおかしいというのである。まぁ、その意見はもっともである。ただ、「それでいいのだろうか」という思いもある。

 「60を過ぎた人間の考え方などもう変わらない」というのは真実だと思う。ただ、一方で、「考え方」は変わらなくても「行動」は変えられるというのもまた事実である。頭の柔軟な人であれば、「こういうこと(行動)をして欲しい」ときちんと伝えればその通りにしてくれる。「自分が会社の意思決定をするつもりで」と伝えたところ、自分の意見を言うようになった人もいる(まだ遠慮がちではあるが)。要はそれまでの会社員人生で、そういう行動を取る(取るべき、取っても良い)と言うことを知らなかったのである。

 考え方は変わらないかもしれないが、仕事はしてもらわないといけない。どんな仕事をしてもらうかは会社の方で決めるとしても、それができるかどうかという問題はある。できない場合は、「できるようになってもらうか」それとも「(やってもらうことを)諦めるか」しかない。「できるようになってもらう」を選ぶ場合は、「どうやって」を考えないといけない。本人が自発的に勝手に努力してくれるのなら問題はないが(まぁ、年齢的にもこのくらいの自主性は備えていてほしいと思う)、そうでなければできるようになる「手伝い」をしないいけない。その「手伝い」こそ「社員教育」だと思う。

 それが単に「作業」に属するものであれば簡単だが、「考える」部分については難しい。傍から見れば非効率なやり方を疑問を持たずに続けていたり、「○○だからダメ」とそれ以上考えずに制約条件を前提に仕事をしていたりすることは多々ある。効率的なやり方を考えたり、制約条件をクリアすることを考えたりという発想ができれば良いのだが、できない人にはそういう「考え方」を教え、手本を見せないとできないかもしれない。それこそ「社員教育」だろうと思う。

 「教育」とつくから何やら上から目線の感じになってしまうが、「仕事のやり方を覚えてもらう」、「工夫してもらう」と考えればおかしなことではない。むしろ必要な事だと言える。もちろん、それが一社内にとどまらず、どこに行っても通用するようなものだったら凄いことである。よくリクルートが「人材輩出企業」と呼ばれているが、どこに出ても活躍できるような人が育つ環境が出来上がっているのだと思う。

 改めてそういう観点から我が社で必要な社員教育を考えるとすれば、それは「考える習慣をつける」ことと言える。それは仕事に対する考え方でもあるし、目の前の仕事の「創意工夫」もある。制約条件を絶対条件と考えずに、「何とかできないか」と考える柔軟な発想。考えないで手だけ動かしているのは確かに楽であるが、それだと単なる「作業員」で終わってしまう。楽でいいかもしれないが、我が社はちょっとした波でひっくり返るような中小企業船であることを考えれば、単なる作業員では海に放り出されたらイチコロである。

 「教育」はまたする方もいろいろと考えないといけない。それはそれでいいトレーニングになる。そんなことを考えると、少ししっかり考えないといけないと思う。「小さな人材輩出企業」を目指して、やっぱり社員教育を考えたいと思うのである・・・

Werner MoserによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
 
 





2021年1月21日木曜日

中国が世界一になる日

 先日から中国に関する専門家2人の意見を目にする機会があった。個人的に抱えていたイメージと異なっており意外な気もしたが、言われてみれば不思議なことではなく、その通りなのだろうと思う。それによると、極めて近い将来、中国が世界一の国になるというのである。

 1人の方からは、現在の中国の変化を教えていただいた。既に一部の地域で自動運転が実現している。路線バスのようであったが、日本ではまだ実現の兆候のかけらすら見られないのに、である。自動運転はゆりかもめの例を見るまでもなく、当面は鉄道に限られるという意見を聞いたことがあるが、自動車の中では路線バスはなどが一番早いのだろうと思う。それがもう中国では実現している。

 さらには自動配送。これは大学のキャンパス内のようであったが、ロボットが荷物を学生の近くまで配達していた。まだ一般の地域には至っていないが、限られた範囲内ではもう普通に実現している。これはなかなか衝撃的である。中国版YouTube微博でその様子が見られる。

后疫情时代,逆势爆发... - @竹内亮导演 的视频 - 视频 - 微博210102

 GDPでは既に中国は日本を抜いて世界第二位になっている。日本人としては心中穏やかならぬところがあるが、まだ「一人当たりGDPでは日本の方が上」という支えがある。日本の方がまだ豊かであるという安ど感である。ところがこれは、中国では農村部が遅れているために全体の足を引っ張っているものであり、既に都市部ではかなり差が縮まっているらしい。今後、農村部が伸びてくれば2040年頃には一人当たりGDPでも抜かれるだろうと予想されている。

 中国と言えば「安かろう悪かろう」というイメージがこびりついているが、今も日本国内の製品の多くがメイド・イン・チャイナであることを鑑みれば、日本製品と遜色ないレベルになってきているのだろう。世界の大学院ランキングで世界第一位は清華大学だという。これに対し東大は100位に入っていないというからこの差は大きすぎる。アメリカを抜いてGDP世界一になるのも既に視野に入っているようであり、メイド・イン・チャイナが高品質の証になる日も近いのかもしれない。

 中国では、国民に配慮することなく何でも政府が実行に移せるところが強みだろう。プライバシーも何も関係なく、自動運転のバスを見るまでもなく、実験もどんどん行える。アメリカの大学に留学する中国人も日本人とは桁が違うし、それは勉強云々だけではなく、人脈という意味の強みにもなり、日本人が一生懸命弱みを探しても虚しそうである。そうなるとアメリカ頼みというのも危うい。

 また、アメリカの高性能・高額な空母も、中国の安価な高性能ドローンの攻撃リスクにさらされるというし、そうなるとアメリカの軍事的優位も危うくなる。それはすなわちち我が国にしてみれば、尖閣諸島は大丈夫かと不安になる。朱健栄教授によると、それは大丈夫らしい。国際協調の中、中国もそうした暴挙には出られないという。経済制裁をされれば中国も困るというのだが、GDP世界一になった時に果たして経済制裁ができるのかと想像すると、どうも安心感は抱けない。

 野口悠紀雄教授によると、そもそも歴史的にずっと中国は世界一の国家であり、「没落」したのは近代の何十年かだと言う。そういう意味では「世界一奪回」であるわけであるが、歴史上ずっと物理的な距離が縮まった現代で、経済・軍事で世界一となった中国はなかなかの脅威になるような不安がある。とは言え、現代ではかつてのように戦争の脅威があるわけではないし、軍事面での心配はないのかもしれない。

 また、経済的に豊かになった中国人は、そのうち出稼ぎにも出なくなるだろうと野口教授は予測する。そうなると、今日本は事実上移民受け入れに舵を切っているが、その主力となる中国人がいなくなると外国人労働者も増えないという可能性もあるという。労働力が足りないなら外国人を入れよと単純に言えなくなるというのである。これもその通りに思える。

 これから子供達が成長していく世界はどんな景色になっているのだろうか。少子高齢化が進み、それだけでも大変だと言っている我が国が、世界一となった中国の隣でどんな国になって行くのだろうか。想像力の乏しい我が身にはわからないが、それでもいつまでも中国は格下というような意識は捨て、中国の進化を偏見のない目で見ていきたいと思うのである・・・


HYUNGNAM PARKによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
 


2021年1月17日日曜日

差別について思う諸々のこと

 毎週末の夜は映画を観て過ごしているが、この週末は『ブラック・クランズマン』という映画を観た。1979年を舞台に、KKKに潜入捜査を行った警官の物語である。ここで描かれるのは人種差別。人種差別の映画は珍しくもないが、映画のラストで2017年のアメリカにおける事件が描かれていて、それが昔の出来事ではなく、現在もまだ色濃く残っている問題なのだと思わされる。デビッド・デュークというKKKの要人は、当時既に演説で「アメリカ・ファースト」と訴えている。

 幸い我が国はここまで酷い人種差別はないが、あるのは(あったのは?)部落問題だろうか。この問題を初めて知ったのは、大学を卒業して就職した銀行の研修であった。関西系の銀行であったから余計に意識が高かったのかもしれないが、最初は「いつの時代の話なんだ」と面食らったものである。そんなのが現在進行形であるとは思っていなかったのである。同じ研修を受けた関西出身の妻は、小学生の頃からそういう教育を受けていて、「またか」という感覚だったらしい。考えてみれば、私はそれだけそういう差別問題とは無縁に育ったということだろう。

 ただ、両親が結婚した時(昭和34年)、長野県の望月に住んでいた祖父(母の父親)は、父の実家(長野県富士見)に突然訪ねて行ったそうである。距離にして60キロくらいあるが、祖父は原付バイクで往復したそうである。なぜそんな行動をしたのかと言うと、後からわかったのは、父が部落出身者でないかどうかを確認するためだったと言う。部落出身者を差別する気持ちはなかったようであるが、娘がそんな相手と結婚して苦労するのは避けたいと思ったのだろう。

 自分自身の経験としては、小学生時代に朝鮮人のことを「チョン」と呼ぶことを知ったことだろうか。差別といえば差別であるが、どちらかと言うと「あいつらはヤバイ(=危ない)」という意味で、侮蔑するというニュアンスよりも「近寄らないほうがいい」というニュアンスだった。ヤクザとおんなじ感覚である。もちろん、朝鮮人に対しては歴史的には関東大震災時の流言による大量殺害事件なんかもあり、侮蔑的な差別をしてきたのだろうが、私の経験はその程度である。

 そんな差別問題は、今はほとんど身の回りにない。したがって、我々の社会は差別の少ない社会だと言えるのではないかと思う。そもそも人はなんで差別をするのだろうかと思う。どうしても自分よりも下の存在を作り出していじめたいという意識があるのかもしれない。自分より劣った相手を見出すのは、1つには安心感がある。それが社会ベースで行われるのが差別と言えるのかもしれない。

 その昔、妻の祖母が部落差別について、「差別される人にはそれなりの理由がある」と語っていたと言う。祖母は差別肯定者ではなかったと思うが、おそらく幼少期よりそう教えられて育ったのだろう。私に部落差別の意識がないのも、親にそういう教えを受けなかったからに他ならない。差別を植え付けられて育ってもそこから脱出する人はいるだろうが、私はそれほど人格者ではないから、そんな教えを親に受けていたら、今頃多分立派な差別論者になっていただろうと思う。三つ子の魂なんとやらである。

 現代では差別というより「ヘイト」の方が問題かもしれない。ネットでの誹謗中傷や反韓といった問題である。個人的には、私は嫌韓である。韓国は大っ嫌いであるが、しかし(在日含む)韓国人というだけで嫌うようなことはしない。目の前で韓国人を紹介されれば丁寧に応じるし、いい人間であれば友達にもなるだろう。そこで慰安婦問題を持ち出されれば、歴史的な事実関係を知らないのだろうと哀れに思って距離を置くだろうが、そこまでである。自分からは近寄らないからあまり問題にはならないレベルではないだろうか。

 アメリカの黒人(先の映画ではユダヤ人も差別されていた)は外見が違うので、差別を助長しやすいというのはあるだろう。人間は異質なものに対する忌避感は誰もがあると思う。それに数的優位が加われば差別が出来上がる。日本でも穢多非人が多数派であったなら部落問題は起こらなかっただろうと思う(あるいは逆差別が起きていたかもしれない)。そして親からの教育が差別の存続を促すのだろう。

 映画を観ていて思うのは不快感。差別は当事者だけでなく、側にいる者も不快にさせる。トランプ大統領の言動を見て不快感を覚えるのは、健全な証拠かもしれない。部落問題のような大きな差別はなくても、個人レベルの小さな差別は出てくるかもしれず、そういう意味では気をつけたい。ただ、私の場合、女性差別だけはなくならないと思う。女性というだけで何事につけ甘くなってしまうのは本能レベルの問題で修正不能である。

 映画を観ながら、アメリカの黒人差別はあと100年くらいはなくならないのではないかと思った。これから日本にも外国人が増えていくかもしれないが、そういう差別社会にならないように願いたいと思うのである・・・


Melk HagelslagによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

2021年1月14日木曜日

相手の見ている景色

WHOの「新型ウイルス起源」調査団、中国に入れず 「大変失望」と事務局長

2021年1月6日BBC NEWS

世界保健機関(WHO)は5日、今月に中国・武漢市で予定していた新型コロナウイルスの感染症COVID-19の発生源調査について、調査チームが中国への入国を拒否されていると明らかにした。WHOによると、調査チームのうち2人はすでに、5日早朝に中国に向けて出発していた。ロイター通信はWHOの緊急対応責任者マイク・ライアン博士の話として、1人は引き返し、もう1人は第3国でトランジット中だと報じた。WHOは、入国に必要なビザの手続きに不備があったと説明した。数カ月にわたるWHOとの交渉の末、中国は長く待ち望まれていた新型ウイルスの発生源調査に同意していた。

************************************************************************************

 上記のニュースは新聞の一面に掲載されていたのをチラッと見た記憶がある。新聞の論調でいくと、中国がWHOの調査に難色を示しているかのような印象を受ける。その後、結局調査チームは武漢入りしたと今日のニュースで報じられていたが、これに関しては、先日かねてから親交のある東洋学園大学の教授のお話しを伺う機会があった。それによると、実際はちょっとニュアンスが異なるようである。

 お話によると、中国側は受け入れ自体は認めており、問題は「隔離期間」だったという。中国内では既にコロナは収束に向かっており、怖いのは海外からの流入。そのため入国者には一定の隔離期間を設けているが、WHOはこれを緩和しろと要求し、中国が拒否しているのが実態だとか。そうなると、ちょっとニュースのニュアンスも違ってくる。中国側の言い分もある意味もっともだからである。

 ここで疑問に思うのは、「ホントかな」ということと、「裏取りしないのかな」ということ。マスコミであれば、こうした場合、WHOの発表だけを鵜呑みにせず、中国側に確認をすべきだと思うが、そんな形跡は少なくともニュースでは見当たらない。そんな価値もないと判断したのかもしれないが、一応一方方向の報道だけではなく、両サイドから取材するのが報道機関のあり方だと思えてならない。

 実はこの手の話は過去に何度も伺っている。「犯人は中国風の男で・・・」と報道されたり(というといかにも悪人らしく聞こえる)、大きなところでは2011年に尖閣諸島で起きた漁船衝突事件の報道もあった(いかにも漁船だけが悪いように報じられた)。闇雲に擁護するつもりなどサラサラないが、漁船衝突事件は冷静に考えれば中国側の主張も頷けるところがあり、日本のマスコミの報道だけを鵜呑みにするわけにはいかないと感じたところである。

 日常生活でも相手の真意を測りかねることはよくあること。会社でも議論をしてみると相手はこちらが予想もしなかったことを考えていたということはよくある。よって、何か相手に意見を言う時には、十分相手の言い分を聞くようにしている。仕事においては、行動面での改善を要求することがあるが、相手には相手の理屈があってそういう行動を取っているわけである。それを聞いた上でないと批判は難しい。

 しかし、相手の言い分がわかったとしても、ではこちらの意見を変えられるかというとそうでもなかったりする。それは正誤の問題ではなく、「見解の違い」「立場の違い」であったりするからである。会社内でよくあるのは、「個人の立場の意見」と「全社的な立場からの意見」の違い。両者は異なってくることがしばしばある。個人レベルでは非効率であっても、会社レベルでは必要だったりすることはあるからである。

 そうなると、個人の納得感を得るのは難しかったりする。会社側の都合を理解してくれればいいのだが、そうでなかったりする場合もあるからである。ただ、それはもう仕方がないことであるが、ただ、それでも相手の考えを知っているのと知らないのとでは大きく異なる。意見は変えられなくても、それなりの配慮はできるからである。そしてそれは、人間関係を良好に保つには必要な事だと思う。

 同じ景色を見ていても、相手が見ている景色は自分の見ているものと同じではない。それは面白いくらいである。それは同じ人間でも育ってきたり働いてきた環境や読んだ本や人の影響なんかもあって1人1人の人格があるわけで、違うのも当然だと言えるのだろう。野球を見ていて微妙なプレーがあると、贔屓チームに有利に見えてしまう傾向なんかもあるようだし、それを嘆いてみても仕方のないことなのだろう。

 それは「そういうものだ」と思って行動するしかない。マスコミのニュースは初めから疑ってかかる、人の意見は自分と違って当然と思ってかかる。そういうスタンスが必要なのだと思う。韓国はともかく、中国に関しては特にマスコミのニュースをそのまま真に受けるのは回避して冷静に接したいと思う。「相手の見ている景色」が違うことは、しっかりと意識したいと思うのである・・・


Joëlle OrtetによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
  


2021年1月10日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その12)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子貢曰。夫子之文章。可得而聞也。夫子之言性與天道。不可得而聞也。

【読み下し】
子(し)貢(こう)曰(いわ)く、夫(ふう)子(し)の文章(ぶんしょう)は、得(え)て聞(き)くべきなり。夫(ふう)子(し)の性(せい)と天道(てんどう)とを言(い)うは、得(え)て聞(き)くべからざるなり。

【訳】
子貢がいった。「先生のご思想、ご人格の華というべき詩書礼楽のお話や、日常生活の実践に関するお話は、いつでもうかがえるが、その根本をなす人間の本質とか、宇宙の原理とかいう哲学的なお話は、容易にはうかがえない」

Web漢文大系

************************************************************************************

 普段、会社では同僚とよく話をしているが、その内容はと言えば日常生活の他愛もないことや、仕事の話といっても目先のことが大半で、本質的な話というのはほとんどしない。振り返って見れば、これまでもずっとそうだったと思う。だが、一方で本質的な話こそじっくりしたいなと思っていたりする。自分の会社はこれからかくあるべしとか、働くに際してはこうすべしとか、そういう話である。

 そういう話をなぜしないのかと言えば、やはり真面目くさってし難いというものがある。もともと日本人的には唾を飛ばして議論をしあうというのを好まないところがある。意見がぶつかりそうな話題を避ける傾向がある。だからジャイアンツの話は気軽にできても、政治の話はし難い。議論しあってすっきり終わるのであればまだしも、大抵意見の相違が埋まることはなく、感情的なシコリが残るくらいなら議論しないほうがマシとも言える。

 仕事でも人によって温度差というものがある。熱心に残業も厭わず働くのを良しとする者がいる一方で、ワークライフバランスを重視する人もいる。前者が後者に「残業してでも、休日出勤してでもやるべき」なんて熱心に説いてもすれ違うだけであろう。私はと言えば、仕事は当然熱心にやるべきで、そのためには残業でも休日出勤でも厭わずやる。しかし、その分のプライベートの埋め合わせはきっちりやる。代休はしっかり取るし、平日の勤務時間でもプライベートに充てたりする。それでいいと思う。

 そういう働き方に対する考え方に関してはみんなそれぞれあると思う。我が社でも仕事熱心な社員がいる一方で、「指示待ち族」や「ぶら下がりーマン」はいる。と言っても本人がそういう意識を持っているかどうかはわからない。もしかしたら持っていないかもしれない。一度どこかでそういう働き方の話をしてみたいとは思うものの、日常業務の中ではなかなかし難いのは確かである。

 考え方というのは非常に大事だと思う。それは行動面での根幹を成すからである。仕事であっても生き方であってもである。家庭でも2人の子供達にいろいろと話をしたいと常日頃考えている。それも目先の受験だとか、大学生活の送り方だとかそういうものも含めた自分の考え方である。だが、そのタイミングは難しい。食事の時にでもそういう話題になれば話を持っていきやすいが、そうでないと「まぁそこに座れ」とやるのもいかがかと思う。

 そうした話は、やはり「何かのタイミング」だと思う。自分もそうだが、周りのみんなもそういう意見を持っているかもしれないし、そういう話を膝突き詰めてできたら面白いと思う。2,500年前の中国でもやはり同じだったのだろうと思う。孔子のそういう話を弟子はもっと聞きたいと思っていたのかもしれないが、孔子としてはそのタイミングがなかなかなかったのかもしれない。そう考えると、一度そういう機会を設けてもいいのかなと思う。

 仕事にしても家庭にしても少し改まった話をする機会も大事かと思う。どちらにせよ、一度そういう機会を設けてみようかと改めて思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【今週の読書】
 



2021年1月7日木曜日

課長のしごと

 学生時代、ある会社でアルバイトをしていた。防水工事の小さな会社で、社長1人、専務1人と工事のおじさんと経理のおばさんという構成だったと思う。工事のおじさんにも何か肩書があったと思うが、社長はともかくとして、小さな会社で専務だなんだという肩書がおかしかった印象が残っている。今は社員総勢10名の小さな会社に属しているが、やはり部長がいて課長がいて、以前は次長がいた。そんな肩書に何の意味があるのかと言えば名刺の飾りでしかない。

 そう言ってしまうと身も蓋もないが、給料も違うのでやはりそこには違いが必要だと考えている。違いとは「働き方の違い」である。適当に「お前は部長」、「おまえは課長」というのではなく、「部長はどういう仕事をするのか」「課長はどういう仕事をするのか」ということを明確にし、給料の違いの説明がつくようにしたいと思う。以前、何かで読んだ笑い話だが、転職活動をしていた元部長さんが面接で何ができるかと聞かれて、「部長ができます」と答えたという。そんな人になりかねない。

 我が社では残念ながらそのあたりがあいまいである。会社の規模が大きくなれば必然的にはっきりしてくると思うが、小さな会社であってもはっきりさせた方がいいと思う。肩書のない一般社員はどちらかと言えば、「手を動かす」仕事が中心になる。それに比べ、課長以上は頭を働かせる仕事の割合が増えてくる。いわゆる「判断業務」というやつである。その割合を表すのなら、
部長→判断業務:作業業務=9:1
課長→判断業務:作業業務=5:5
一般→判断業務:作業業務=1:9
という感じかもしれない。

 しかしながらこの判断業務というのもなかなか難しい。普段から意識していないとできないだろう。人間はどうしても居心地の良さを求める。気がつけばルーティーンにどっぷり浸っているということはあるだろう。それに中小企業だとそれほど厳格に「管理職」という意識を持つのが難しかったりする(管理する部下が1名しかいなかったり、そもそもいなかったり、部長でも雑用をやらなければいけなかったり・・・)。それでも意識は持っていないといけない。

 ショッカーにたとえれば、部長はゾル大佐や地獄大使といった日本支部長で(死神博士なんてのもいたなぁ)、課長はさしずめ毎回登場する怪人、一般社員は戦闘員といったところである。日本の支配という大目標を推進するのは日本支部長たる部長の役目、そして戦闘員を率いてその邪魔をする仮面ライダーを倒すのが怪人たる課長の役目といったところである。怪人は毎回仮面ライダーを倒す策を独自に企てる。まさに課長に求められる役割そのものであると思う。

 課長は部下の仕事ぶりを見ていて、もっと効率的にやる方法はないかと考えてみたり、部長が手を取られているようなことがあれば自分ができないかと考えてみたりと守備範囲は広い。部下は目の前の仕事に追われていて大局的にみられなかったりする。「イー!」と叫んで闇雲に仮面ライダーにかかっていくだけだ。「ミスを防ぐ」という観点から効果的なやり方に変えるように考えるのも課長の仕事だろう。

 会社によっては肩書きも様々だ。官庁になれば課長というとかなり地位が高くなる。我が社のような小さな会社ではほとんど対外的な意味しかないのかもしれない。すなわち、社外の人と話をする時にある程度の肩書きがあった方が相手に安心感を与えるという意味である。そういうものと割り切るのも一つの考え方だと思う。私が学生時代にアルバイトさせてもらった会社はそのタイプだっただろう。

 我が社はどちらかといえば、やはり役職にはそれなりの働き方が伴うものとしたいと思う。何事につけ、建前のみというのは好きではない。やはり意味を持たせたいと考えてしまう。小さな会社であろうと肩書きがある以上はそれに意味を持たせたい。課長なら課長らしく、部長なら部長らしく。そんな働き方をしてもらいたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
 


2021年1月4日月曜日

2021年新春雑感

 昨年はコロナ禍という予想もしなかった出来事に見舞われ、なんとオリンピックも高校の同期会も中止になってしまった。それ以外にも観に行こうと思っていたミュージカルもラグビーのシニアの定期戦もことごとく中止。年末には第三波が来て両親を連れて温泉に行く計画も中止せざるを得なかった。一寸先は闇というが、まったくその通りで、今年もまた何か予想もしない出来事が起こらないとも限らない。コロナのようなものは個人の力では防ぎようはないが、できるのは「どう行動するか」だろうと思う。

 毎年恒例の初詣は、もうここ数年の常の通り私1人。早い方が人も少ないだろうと、起きてすぐに北野神社に向かう。早朝の寒さは身に染みるし、布団に入っていたい気もするが、それを断ち切ってお参りに行くのがいいように思う。神聖な気持ちで境内に入れば、なんと手水に柄杓がない。コロナ対策だろうが、なんともである。予想通り参拝客はまばらで、すぐに手を合わせ、昨年のお礼と今年も見守りを祈願する。例年の通り破魔矢を買って帰宅。神頼みをするわけではないが、謙虚な心の維持という意味でこの習慣だけはずっと維持したいと思う。

 続く我が家の正月は、息子が高校受験ということもあって、妻の実家の大阪への帰省はなし。それもあって例年は元旦だった私の実家訪問を今年は2日にした。弟も来ていたが、私も連れて行ったのは娘だけ。弟の子供は二人とも社会人であり、もう別々の行動である。考えてみれば昔はこれで家族4人だったわけで、30年後くらいには娘や息子が家族を連れて我が家にきているのかもしれない。母もよる年波には勝てず、料理はすべて買い出しで賄うのはもうここ数年の恒例である。

 今年は両親から我々兄弟にちょっとしたプレゼントがあった。それは「記念硬貨」。両親もいつの頃からか好きで、発行されると銀行へ買いに行って溜め込んでいたのである。それを私と弟とに綺麗に二つに分けてくれたのである。一番古いのは、昭和39年の東京オリンピック100円硬貨。その次が昭和45年のEXPO70である。オリンピックは1998年の長野、EXPOは1985年の筑波、2005年の愛知があり、そのほか「FIFAワールドカップ日韓大会」、「議会開設100年」、天皇陛下の「御在位記念」などがある。今回もらっては来れなかったが、「天皇即位」、「皇太子御成婚」の記念金貨もあった。

 両親からすると、ちょっと早い形見分けという意味もあるのかもしれない。考えてみれば、自分は子供達に何を残してやれるだろうかと思う。身の回りのものを見回してみてもこれといったものはない。まぁ、今回もらった記念硬貨はそのまま2人の子供達に行くだろうと思う。娘は私がもらうのを目の前で見ていたから、その時は私のもらった姿を思い出すのだろう。それ以外は金銭的なものが喜ばれるように思う。もらうよりも「(余計なものを)残さないでほしい」と思われる方が強いかもしれない。

 娘は今年成人式。高校受験を控えた息子はすでに私の身長を抜いた。いつの間にか子供達も成長している。我が子の成長は好ましいものであるが、自分は果たしてこれからも今の収入を維持して家族を支えていけるだろうか。今年一番の心配事は東京オリンピックでも同期会でもなく、会社の業績と言えるだろう。寄らば大樹の陰ではないが、銀行にいた頃はそんな心配はなかったが、中小企業ではそういう心配がある。気力だけではどうにもならない。ただできることをやっていくのみである。

 息子も娘も大人になっていく。これからはより一層大人として自分の考えを語って聞かせたいと思う。子供の一生を保証することはできないが、何かあった時に乗り越えられる道具の一つとして、親父の考えを残せたらいいなと思う。今年の一つのテーマは「コミュニケーション」。仕事でも家族でも、相手を理解し、そして自分の考えをきちんと伝える。今年はそんなコミュニケーションを意識したいと思う。

 年末にはどんな振り返りをする一年になるのだろうか。楽しみつつも、しっかりと生きていきたいと思うのである・・・


Jeff JacobsによるPixabayからの画像