2021年1月31日日曜日

成果を挙げること

 日本の社会にも成果主義が当たり前のように浸透している。銀行員時代は、月々の給料は定額であったが、賞与は事前に課されていた目標の達成度によって金額が変動する仕組みであった。プロスポーツの世界や外資などから比べると、増減幅の小さな成果給であったが、それでももらう金額や昇格などに影響があるとなると無視もできない。それなりに半年間成果を意識して取り組んだものである。

 そうした成果に結びつく「目標」は、目の前にぶら下げられたニンジンであるが、そうしたニンジンに勢いよく飛びつこうとする者もいれば、クールに振る舞う者もいる。すなわち目標に対して取り組みはするものの、ガツガツすることなく、場合によっては達成できずとも気にしないというスタンスの人である。日本人はもともと「お金」を卑しいものと考える風潮がある。お金儲けにガツガツしないというのは、それだけで評価を得られる。

 我々は何のために働くのかと問われれば、それは当然お金を得るためである。それで生活をしているわけであり、綺麗事を言っても始まらない。やり甲斐も大事であるが、それは「無報酬でも働く」と言えてこそであろう。ほとんどの人は、働く目的の第一はお金であるわけであるが、では成果主義が必要か否かとなると、やはり必要であろう。それは給料が払われる対象の違いでもある。

 定例の給与は、あえて言えば「プロセス」に対して払われるものである。出勤して仕事をすることに対して、報酬が払われる。それに対し、成果主義は「結果」に対して払われるものである。例えば、一日足を棒にして営業に回ったとする。成果が出なくても給与は払われるが、成果が出なければプラスαのボーナスは支払われないのである。企業側からすれば、大事なのは結果。ゆえに成果主義を取り入れる理由である。

 そういう成果主義がいいかどうかという点に関しては、社会全体としては善という結論が出ている。成果主義とは、言ってみれば資本主義と同義であり、かつてのソ連をはじめとして社会主義の失敗を見れば明らかである。やはり人間は「やってもやらなくても同じ」であればやらないものなのである。一生懸命やっても適当にやっても給料が同じであれば、仕事は適当にやってそのほかのものに注意を向けるのが人間なのだろう。

 それが会社となればどうかと言えば、それはやはり善であろう。目の前にぶら下げるニンジンは必要になるが、そのニンジンが食べられる時は確実に成果に結びついているわけであり、「プロセス」に対して給料を払うのに比べれば、ずっと良いわけである。もちろん、定額給与だけで仕事自体にやりがいを感じてどんどん成果をだす社員がいればそれに越したことはないが、やはり人間は「やれば報われる」と分かればやるものであり、企業としては当然それを取り入れるべきであろう。

 では、個人単位であればどうであろうか。私個人としての考え方でいけば、プロであれば給与をもらう以上、それ以上の成果を挙げるべきと考えるので、別に成果主義であってもなくても同じであるが、「あればなお張り合いが出る」という感じである。個人に関しては人それぞれであるから何とも言えない。ただ、目標に対してできてもできなくても変わらないという態度の人は如何なものかと感じてしまう。

 実際、そういう人はいるわけであり、ボーナスに対してあくせくしないというスタンスはカッコいいとは思うが、それはあくまでも目標を達成しての話だろうと思う。できもしないのに必死にならないというのは、「やる気がない」という風に感じてしまう。実際そうなのか、それとも腹の中では一生懸命もがいているのかはわからないが、腹の中でももがいていれば表に何らかの形で出てくるものだと思う。ゆえに「そう見えない」のはやはり「そこまでやる気がない」と言っても間違いではないように思う。

 そういう人のことをあえて批判はしない。所詮、人は人である。ただ、自分としては「給料分以上の仕事をする。求められている成果は挙げる」ということを基本に考えている。だから目標を達成できなかったのに平然としている姿には違和感を感じてしまう。そこに彼我の違いはある。お金のためにガツガツするのではなく、お金をもらう以上は期待に応えるという意味で、これからも成果をきちんと上げたいと思うのである・・・


Free-PhotosによるPixabayからの画像 

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