2023年8月13日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その16)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「加我數年、五十以學、亦可以毋大過矣。」

【読み下し】

いはく、われ數年すうねんくはへて、五十もつまなばば、おほいにもつ大過たいくわかるなり

【訳】

先師がいわれた。

「私がもう数年生き永らえて、五十になる頃まで易を学ぶことが出来たら、大きな過ちを犯さない人間になれるだろう。」

『論語』全文・現代語訳

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 子供が進学する、あるいは就職するとなると、口を出す親はかなり多いと思う。それどころか、子供が小さいうちに習い事をさせたり塾に通わせたりする親も多い。それらは基本的に親の考えであるが、親の考えとは「子供の幸せ」である。つまりそれが子供の幸せになると考えて口を出すのである。もちろん、それが悪いわけではない。親は親なりに子供の幸せにとって必要だと考えているわけである。学歴で苦労した親なら、子供をいい学校に行かせようとする。苦労していなくても、自分がそれで成功しているなら尚更である。


 もちろん、子供も素直に親の言うことに従う子供ばかりではない。時には「親の決めた路線」に反発する子供もいる。そうなると、親子間の対立が生じ、こじれると親子関係の断裂ということにもなり得る。本来、子供の幸せを考えているはずが、こうなると本末転倒である。しかし、子供の希望が「ミュージシャン」だったりすると親の心配もよくわかる。成功すればいいが、成功できるのなんてほんの一握りの世界である。夢を見て路上で歌を歌っていたりすれば、親としては気が気でないだろう。


 なぜ、そんな親子間の断絶が発生するのだろうかと言うと、それはすなわち「考え方の相違」であり、なぜそんな考え方の相違が生じるのかと言うと、それは「経験(あるいは知識)の差」であろう。親は当然、子供よりも長く生きている。その間にはいろいろな「経験」をしている。小さな子供が沸たったやかんに平気で触ろうとして、親が慌てて止めるということがある。なぜかと言えば、親には沸騰したやかんを触れば火傷するという「知識」があるが、小さな子供にはない。その差である。


 そうした親心が理解できれば、子供も少しは対応が変わるだろうが、得てして子供は親に反抗しがちだったりするから対立に繋がったりする。本来、知識や経験は言葉で伝えることができるのだが、親も「○○しなさい」的な押し付けになったりすると伝わらない。このあたりは双方の責任でもあるが、実にもったいない。そんな風に思うのも、自分も年齢を経て様々な経験を通して学んでいるからであり20代の頃にはそんな考えなど欠片もなかったのである。このあたりが難しい。


 説明しても相手が理解できないと、「お前はバカか」と毒付いていた(直接言葉にして出すかはまた年齢にもよったと思う)。しかし、今では「伝わらないのは伝え方が悪いせい」と考えるので、言い方を変えたり、事細かく丁寧に説明したりと工夫する。立場がある相手なら、へりくだるのはもちろん、「自分はこう考えるがどう思うか」というように自分の意見を押し付けるのではなく、相手に伺いを立てるような形にすることも多い。それも歳を経て身につけた知恵だと思う。


 今も会社でよく議論をする機会がある。同じ会社の取締役なのに、それに相応しい行動を取れない人がいる。その人がバカなのかと言えばそうではなく、ただ考え方の違いだけである。その考え方の違いだが、致命的なところがあり、なんとか考え方を変えてもらおうとしているが、なかなか難しい。人の考え方はそう簡単には変わらない。ただ、だからダメだというのではなく、どうしたらうまく伝えられるかと考え続けている。無理に押し付けても反発を招くだけである。


 そんな風に考えるのが、今は自然になっているが、たぶん20代の頃の自分が知ったら驚くかもしれない。争い事も、今はまず第一に避けることを考えるし、相手をバカなんじゃないかと思うこともずっと少ない。勝つことよりも負けないことの方が大事だと思うし、仕事でもラグビーでも自分よりも周りの人を生かすことを優先して考えている。いつの間にかそんな風に考えるようになっているのは、年齢を経て「知識と経験」を積んだ結果であると思う。


 人もただ歳を取るだけでは脳がない。それなりに「進化」する必要がある。もっとも、その「進化」の結果、保守的になって冒険的でなくなっている部分もあるかもしれない。それによって大きな失敗も少ないかもしれないが、大戦果も少ないかもしれない。若い頃は、失敗をしても取り戻す時間があるが、歳を取るとそうもいかない。考えてみれば、だから今の考え方でいいのかもしれないと思う。孔子のように易を学ぶのではなく、それが人生経験からの学びだとしたら、それはそれでいいのではないかと思うのである・・・

 

ElasticComputeFarmによるPixabayからの画像


【本日の読書】

 




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