2019年9月24日火曜日

仁を支えるもの

前回、仁に基づいた行動が取れたらいいなという思いを抱いた事を書いたが、敢えて「常に仁に基づいた行動を取る」としなかったのには理由がある。まぁ、自分自身そんな聖人君子ではないというのももちろんであるが、それ以外にも不確定要素として「経済環境の変化(悪化)」があるかもしれないからである。今は中小企業なりと言えどもそれなりに収入があって安定している。その状態では理想を語れるのであるが、そうでなくなった場合、自分自身どう考えるかわからないからである。

たとえば現在、仕事で多額のお金の管理を(会社で)行っている。もしも、会社が倒産した場合は、これを誰かに引き継がないといけない。しかし、そうはせずにこのまま持ち逃げ(あるいは横領)しないだけの自制心は働くだろうかと考えてみると、「大丈夫」だと言い切れる自信はない。責任は会社にあるわけであるが、その会社が倒産となれば混乱に紛れて持ち逃げしてもわからないかもしれない。自らが窮地に陥った中でそんな考えが脳裏を過ったとしたら、果たして正しい行動が取れるであろうか。

お金に困るというのは、本当に辛いことだと思う。たとえば私も収入を失ったとしたら、まず住宅ローンの支払いの心配が頭を過る。なぜならそれは住むところを失うという恐怖とイコールだからである。自分一人なら全然平気であるが、家族がいる身としてはこれ以上にないくらい辛いことであろう。そんな時に、目の前にお金があったらいくらそれが他人の金であったとしても、考えるのは「どうやったらうまくごまかして懐に入れられるか」だろうと思う。

「お金で幸せは買えない」とはよく言われることである。それはその通りだろうと思うが、一方で「しかし不幸を追い払うことはできる」と続く言葉もある。人が人として正しい行動が取れるか否かは、ひとえに経済的豊かさがあるかどうかが影響すると思う。戦後の混乱期、誰もが違法な闇市を利用していた。有名な話だが、ある真面目な裁判官がそれを拒否して配給だけで生活して餓死したという話があった。それはそれでとても立派な行動だと思うが、多くの人が違法行為をして生きていたのである。そしてそれを批判することは誰にもできないだろうと思う。

もちろん、経済的に困窮したら犯罪行為に手を染めてもいいと言うつもりはないが、一方で正しい行動(仁に基づいた行動)が取れるか否かには、経済的な生活の裏付けが必要だろうと思うのである。マザー・テレサは貧しい中で献身的に人々に愛を以って尽くされたが、そういう人は誠に立派であるが、凡人には難しいかもしれない。孔子の説く仁を以って生きるスタイルをどこまでできるかはわからないが、少なくとも現在の収入を維持していないといけないだろう。

 世の母親が我が子を公務員にしたいと思うのも、学生がとにかく安定した一部上場企業に就職したいと思うのも、まずはしっかり生きていくという当たり前のことを求める上では当然だと言える。今は、不安定極まりない中小企業に身を置く立場としては、一生懸命会社が潰れないように頑張るしかない。それが「仁に基づいて生きられるか否か」を問う前に必要最低限の条件になる。より正しく生きるためにも、頑張って働きたいと思うのである・・・





【本日の読書】
 

    

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