2024年3月31日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その33)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰、「若聖與仁、則吾幾敢。印爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣。」公西華曰、「誠唯。弟子不能學也。」

【読み下し】

いはく、ひじりなさけごときは、すなはわれあにあへてせむや。そもそもこれまなびていとひとをしへてるは、すなは云爾しかじかきにして公西華こうせいくわいはく、まことしかり。弟子ていしまなあたなり

【訳】

先師がいわれた。

「聖とか仁とかいうほどの徳は、私には及びもつかないことだ。ただ私は、その境地を目ざして厭くことなく努力している。また私の体験をとおして倦むことなく教えている。それだけが私の身上だ。」

すると、公西華がいった。

「それだけと仰しゃいますが、そのそれだけが私たち門人には出来ないことでございます。」

『論語』全文・現代語訳

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 イチローの名言に「小さなことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道」というのがある。プロ野球の選手になる事自体すごい事なのに、そのプロで実績を上げ、さらにはメジャーまで行ってそこでも実績を上げるなんて雲を見上げるようなものである。しかし、そんなすごい実績は生まれた時からの才能ではなく、それこそ小学生の時からコツコツと努力した成果であると言う。誰にでもできるそのコツコツをなかなかできないから偉業なのであろう。


 今で言えば、大谷翔平選手なのであろう。体格には恵まれているだろうが、やはり生まれた時から才能が備わっていたのではなく、世間には知られていない影での努力の成果が今輝いているのだろう。おそらく一つ一つの練習は誰にでもできるものだろうが、誰にもできないくらい継続して、工夫して、人知れぬ汗を流した結果なのだと思う。そう考えてみると、才能とは持って生まれた何かというものではなく、コツコツと積み上げ続けられる力なのかもしれない。そう伝える本(『才能の科学 人と組織の可能性を解放し、飛躍的に成長させる方法』マシュー・サイド著)もある。


 日々目標に向けてコツコツ努力できる才能を持った人が、いずれ万人にはなかなか到達できないところに達する。そうした努力を知らない人が、そこに到達した人をすごいと崇め奉っても、当の本人は大したことをしてきたわけではないという意識がある。だから「すごいですね」と言われてもピンとこないのかもしれない。冒頭の孔子の態度もそんなもののように思う。しかし、11歩でも100日続けば100歩になる。それが積み重なれば、いつの間にか他の人がすぐには追いつけないところに行くことができるのは当然である。


 私も昔からこの考え方が好きで、なんでも少しずつ、あるいは少しでも必ずやるという事を繰り返してきている。学生時代の受験勉強も社会人になってからの資格の勉強もすべてそのやり方である。今は毎朝の哲学読書であろうか。哲学は電車の中で読むというわけにはいかない。ノートを取りながら同じところを何度も読み直しという事が必要なのである。そんな具合だから毎朝12ページしか進まないが、それでも毎朝出勤前の3040分を利用して読んでいると、いつの間にか1冊、2冊と終わっていくのである。


 これには性格によるところもあるかもしれない。私のように少しずつ終わるまで継続してやる事が苦でない人ならいいが、そうでない人もいるだろう。いわゆる「一夜漬け」タイプである。それで結果が出せるのであれば、それがいいだろう。それもまた才能と言える。ウサギと亀ではないが、ウサギのように一気に駆けられる人であればいいが、そうでない人は亀の如く進むしかない。公西華が言った「そのそれだけが私たち門人には出来ない」というのもまた真実だろう。「それだけ」を続けるのもまた大変な事であり、続けられることこそが才能なのだろう。


 どの道、自分的にはコツコツやることしかできないので、これからも何かやるにしろ、11歩が基本だろう。それが自分であり、そうし続けようと改めて思うのである・・・



Suman MaharjanによるPixabayからの画像

【今週の読書】

安倍晋三黙示録 『安倍晋三 回顧録』をどう読むべきか - 西村幸祐   失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




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