2024年3月4日月曜日

論語雑感 述而篇第七(その31)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子與人歌而善必使反之而後和之

【読み下し】

ひとうたからば、かならこれかへ使のちこれなごみうたへり。

【訳】

先師は、誰かといっしょに歌をうたわれる場合、相手がすぐれた歌い手だと、必ずその相手にくりかえし歌わせてから、合唱された。

『論語』全文・現代語訳

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 論語は基本的に孔子のありがたいお言葉を集めたものというより、言行録なのだろう。だから時として「あれっ?」と思うものにあたったりする。今回の言葉もどうやらそんなものの1つのようである。弟子による師匠の思い出話の類であろう。孔子の人となりの一面を伺い知るものになるとも言える。当時の歌がどんなものであったのかは興味深いところ。日本においても、昔の歌は現代のそれとはずいぶん異なるものだったようであり、中国においてもそうだったのかもしれない。


 そんな歌で、孔子は上手な人がいると、アンコールを要求し、そして一緒に歌ったというもの。いい歌を聞けば誰しも自分でも歌いたくなる。現代ではCDなりダウンロードしたものなりにより、何度でも繰り返し聞くことができる。いい歌だなと思えばその歌を購入することによりそれが可能になる。しかし、当時はそんな録音機器などないから生の歌しかない。いいなと思えばもう一度歌ってほしいとリクエストするしかない。そしてそれを歌いたいと思えば、一緒に歌って覚えるのが手っ取り早いだろう。現代なら歌詞カードを見て、一緒に口ずさんで覚えるだろう。


 そう考えてみると、孔子もごく普通の行動を取っていたようで、さらに想像するなら、孔子は気に入った曲に出会うとすぐに自分でも真似して歌っているし、実はかなり歌好きだったのかもしれない。歌の発祥はどこなのだろうかと思うも、世界各地のどこに行っても歌のない地域はないだろう。未開の地域の人たちでも打楽器による音楽はあったりする。そんな例を見ると、音楽は人類のDNAに刻み込まれた本能みたいなものなのかもしれない。それに歌詞をつければ歌になるわけで、それは言葉と同じものなのかもしれない。言葉も英語や日本語などは別として、世界各地で独自に発展している。


 歌は音楽+歌詞でできている。歌によって人間はその世界を想像し、そして音楽がその気分を高める。パチンコ屋で軍艦マーチが流れ、プロレスの選手入場でテーマ曲が流れ、甲子園では応援団がマーチを奏でる。いずれも気分を高揚させようという効果を狙ったもので、歌詞のみの「詩」に音楽がつくことでさらに詩の世界が深く浸透する。また、詩がわからなくても音楽の雰囲気で気に入るものもある。日本人が洋楽を聞くのもそんな一例である。洋楽などは、むしろ後から歌詞の意味を調べて理解し、後からさらにその曲に惹かれたりもする。


 歌はそうした人間の本能レベルに近いものであり、生まれてから一度も歌を歌ったことがない人などいないだろう。いい歌だなと思えば歌いたくなるもの。だから昔から宴会では歌が歌われ、いつしかカラオケが生まれ、今は一大レジャーに進化している。歌が嫌いという人はあまりいないと思う。「聞くのはいいが、歌うのはどうも・・・」という人は多いかもしれない。その「歌うのはどうも・・・」という人も、「人前で」という接頭語が就くのではないかとも思う。私などはその典型で、歌は1人の時に人知れず歌うもので、人様の前で披露するものではないと思っている。要はカラオケ嫌いである。


 家に帰ってパソコンに向かい、ブログを見たり綴ったりする時にはYouTubeやAmazonPrimeの音楽を流している。一緒に歌うところまではいかないが、懐かしい曲や好きな曲が流れてきたりすると、思わず手を止めて口ずさんだりする。歌は我々の生活の質の向上になくてはならないものである。かつては、アンコールしてもう一度歌ってもらわなくてはならなかったものが、今では手軽に何度でも再生できる。孔子もびっくりだろう。これからも人前では歌わないが、静かに自分の中の世界で楽しみたいと思うのである・・・


Luisella Planeta LOVE PEACE 💛💙によるPixabayからの画像


【本日の読書】

   イーロン・マスク 下 (文春e-book) - ウォルター・アイザックソン, 井口 耕二     まいまいつぶろ (幻冬舎単行本) - 村木嵐













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