2014年4月19日土曜日

カラオケ嫌い

 銀行では、異動が日常茶飯事。そして異動ともなると、必ず歓送迎会がある。一次会は大抵普通の飲食店であるが、二次会となると「カラオケ」となる事がほとんど。大の「カラオケ嫌い」の私としては、これがなかなかの苦痛である。

 カラオケが世に認知され始めたのはいつ頃からだろう。それらしき記憶を辿ると、たぶん大学に入った頃ぐらいか。当時はカラオケボックスなどなく、スナックなどで歌うタイプだった。飲んで楽しくやるための「1つの手段」だった。それが今や「目的」になっていて、飲むのはさらに楽しくやるための「手段」だ。
 
 もともと、飲んで歌うのは遥か昔からの習いだ。時代劇でも宴席で歌を歌うシーンはよく出てくる。それは海外でも同じようなものだろうと思う。それ自体悪くないし、「カラオケ嫌い」と自称していても、みんなが歌っているのを聞くだけならいくらでも楽しく参加できる。ただ、自分が「歌わされなる」のが迷惑なのだ。

 この「歌わされる」というのがミソだ。カラオケに行けば、好きな者からリクエストを入れて歌い始める。そうして次々にマイクを回していく。好意的に解釈すれば、「自分だけ歌うのは悪い」「他の人にも平等に機会を」という考え方なのだと思うが、酔いもあってか、歌うのを辞退する人に“察する”人は少ない。

 他人の歌を聞いているだけで、十分満足しているのに、そうした配慮はやがて「歌わない罪悪感」へと変わっていく。この「空気を壊す」感は、耐え難いものがある。行って「空気を壊す」か、行かずに「付き合いの悪いヤツ」となるか、この選択は悩ましい。どちらも選べない時は、「自分を殺して歌う」しかない。

 その昔、取引先との宴席で、やっぱりカラオケとなった事が多々あった。こうした時は、仕事ムードでマイクも握る。さすがにそこまで偏屈ではない。それなりにウケた時代もあって、上司の指名で必ず歌わされていた事もあったが、友達同士や気の置けない職場の同僚との間では、自分も楽しくやりたい。なかなか難しいところである。

 なぜカラオケが嫌いなのかと考えてみても、これは好き嫌いだから理由などあってないに等しい。野球が好きな人がいれば、バスケットボールが好きな人もいる。それぞれ理由を挙げればいろいろとあるだろうが、それに大きな意味はない。理由などいくらでもつけられるし、究極のところ己の感性にあっているかいなかの部分だろう。

 一人の時に音楽を聞いていて合わせて鼻歌を歌ったりはするし、湯船につかってと言う事もある。歌が嫌いというわけではないが、全体的な雰囲気みたいなものなのかもしれない。ただカラオケが好きではない事は確かだし、仕事以外で本来一人一人が楽しむべき時であるなら、他のところへ行きたいと思うのである。「歌わないヤツがいても気にならない」という仲間となら、カラオケに行っても楽しめるだろう。

 ただ世の中、「好き」派が圧倒的多数だろうから、なかなか少数派としては苦しいところだ。いつか廃れるだろうと思っていたカラオケブームだが、もうそれに期待するのは無理そうだ。それなら仕方ない、うまく「空気を壊さない」様、「付き合いが悪くない」様立ち回っていくほかない。そうしたうまい立ち回りを研究しつつ、世の中を渡っていきたいと思うのである・・・

【今週の読書】
「勇気」の科学 〜一歩踏み出すための集中講義〜 - ロバート・ビスワス=ディーナー, 児島 修 64(ロクヨン)(上) D県警シリーズ (文春文庫) - 横山秀夫





        

 

 

 

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