2020年3月1日日曜日

学問の境界線

 普段、興味の向くまま手当たり次第本を読んでいるが、先日読んだ『ホーキング、宇宙を語る』についてはいろいろと考えさせられた(今更感のある古い本であるが、それでも読まないよりは読んでおこうと思ったのである)。宇宙の始まりはビッグバンとされているが、それ以前はどうなっていたのだろう。時間の観念はなかったようであるが、それは実際どんなものなのか。その昔、宇宙の始まりについては形而上学あるいは神学の世界の話だったというが、それも良くわかる。

 そもそもビッグバンも、ハッブルが観測データから「膨張する宇宙」という事実を発見したことから推測されているわけで、誰も見たわけではない。それに100億年単位の時間感覚も途方も無い。ビッグバン説はキリスト教会からは「神の存在と一致する」ということで歓迎されたという。なぜビッグバンが起こって宇宙が始まり、その中で太陽が生まれ、地球が誕生し、生物が生まれ、人間に進化したのか。考えてみれば不思議だし、考えていくうちになんだか哲学の世界に足を踏み入れた気分になってくる。

 そこでふと気がついたのであるが、ホーキング博士は確かに物理学者であるし、宇宙に関する議論は物理学の世界の話かもしれないが、それは哲学の世界とも紙一重なような気がする。神学のことはよくわからないが、ビッグバンを起こした原因=神と定義すれば、それもまた紙一重の世界に思う。その境界線は曖昧である。そう考えると、学問の境界というのもみんな曖昧なのかもしれないと思う。物理学と言っても数式公式が出てくるし、日本史と世界史はともに学んでこそより深く理解できる。歴史という括りではそもそも同一である。

 大学受験の時、第一志望の大学は文系大学だったが、二次試験の科目は英語、数学、小論文、世界史であった。しかも英語と数学のウエイトが3/4くらいを占めていた。「なぜ文系の大学なのに数学?」と訝しく思ったが、思えば論理的思考等の数学的思考が求められていたのだと思う。そうした数学的思考は論理学とも結びついている。戦後の哲学の大きな流れとなった構造主義は数学の影響を受け、構造主義を生み出したレヴィ・ストロースは文化人類学者であり、ソシュールは言語学者であった。

 子供が小学生となる頃、教育に興味を持ってそれに関する本を読んだが、中でも国語が大事だと強調されていた(『ほんとうの国語力が驚くほど伸びる本』『本当の学力は作文で劇的に伸びる』)。国語力こそがすべての学科に通じるのだと。それは確かにその通りなのだと思う。そう考えてみると、学問に境界線を引くことはあまり意味がない気がする。もっともそれだと範囲が広すぎて学びきれないということもあるから、いったんの線引きは必要なのかもしれない。ただ「そこで終わり」という境界ではないということを理解しないといけない。

  そう考えてくると、文系、理系という分け方も意味がないものなのかもしれない。計算が得意だから理系、不得意だから文系という区別もおかしい。数学も解を求めていくには論理的な思考が必要だし、見たこともない宇宙やミクロの世界の法則を理解するには想像力が必要だし、それは見えない人生の法則を考えるのにも通じている。そしてそこに境界線はない。

 昔から星空を眺めるのが好きだったし、宇宙に対する興味もそのままである。そして広大な宇宙に浮かぶちっぽけな地球に住む人類がどこから来てどこへ行くのかと考えてみるのも面白い。そんなちっぽけな世界でいかに生きるかを考える哲学も面白いし、相対性理論や量子論の世界も面白い。それによくよく考えてみると、哲学も物理も実はそんなには大きく違わない気もしてくる。

今、自分の机の上には娘の高校時代の数学の教科書があって、一から学び直したいと思っている。もう文系・理系もなく、興味という羅針盤の針の指し示すまま境界線を自由に行きつ戻りつしながら学んで行くのも面白そうである。それがこれからの趣味の一つになるなと思うのである・・・

Free-PhotosによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 



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