2020年2月27日木曜日

ルールを守る人

取引先の総務課長さんについては、その人となりをよく知っているというわけではないが、仕事上のおつきあいで伺い知る限りの範囲内で言えばとても真面目な方である。取引事項についても一つ一つじっくり確認しながら進めていく。私なぞはついつい大きな枠の中で間違っていなければいいとザックリ考えてしまうタイプだが、課長さんは一つ一つ丁寧に確認し、契約と照らし合わせて進めていく。社内での仕事ぶりも多分しっかりとこなされているのだと思う。

そんな真面目な仕事ぶりは、元銀行員である私にとっては別に珍しいものではない。銀行員にはそういうタイプの人が数多くいる。それはそれで悪いことではないが、そういうタイプの人は、時としてルールを重視するあまりその中から抜けられなくなることがある。そもそもそのルールが作られたのには理由があるはずであり、その理由が忘れ去られ、いつの間にかルールを守ることが絶対化してしまうことがある。なんとかルールに合わせようと四苦八苦するのである。

そんな時、そもそも「ルールがおかしくないか?」と発想を変えられないかということをよく思う。あるいは「ルールの方を変えたらどうか?」という発想である。日本人は真面目な民族だからルールの中で最大限の成果を上げようと努力する。しかし、それゆえに「ルールを変えよう」という発想に至らないということは何かで聞いたことがある。スキーのノルディック複合競技でかつて日本人が上位を独占したことがあったが、それを良しとしない欧米勢が日本人に不利なようにルールを変えてしまったというが、こういう発想である。

日本人はそういう発想が確かに苦手なのではないかと思う。平等意識が強いから、自分の意見を通そうと思ったら、「大義名分」に頼る。自分の意見がいかに大義名分に沿っているかが拠り所になるわけで、それが言ってみればルールとなる。仕事も間違えないようにするためにはルールにきちんと従っていることが必要なのであり、それがすべてとなる。もちろん、ルールは守られるためにあるわけであるから、それを守ることは大事なのであるが、要は目的を達することとルールを守ることのどちらが大事なのか、である。

例えば深夜の路上で赤信号を渡るべきか否か。もちろん赤信号では止まれがルールであるが、車も通らない深夜に真面目に赤信号を守る必要があるのか。「安全」という目的であれば、赤信号を渡っても問題はない。むしろ赤信号で待つ意味は限りなくない。この時、「渡っても大丈夫」と判断できるかどうかである。赤信号を守るのは簡単であるが、安易にルールに逃げてはいないか。状況に応じては、目的(この場合は「安全」)を逸脱しない限りで柔軟に対応できる人間かどうかを私は考えてしまう。

どんな場合でもルールを守るというのは一見、正しい。だが、所詮それはルールの中でしか考えられないことを意味する。与えられた環境の中で生きる。それがひいては「言われたことだけをやる」=「言われたことしかやらない」=「指示待ち族」を生むのだと思う。ここで言いたいことは、都合に応じてルールを逸脱すればいいということではない。「こういうルールだから」というのではなく、「このルールなんとかならないのだろうか」と考えることである。あくまでも「考え方」である。

身近なところでもこうした真面目な指示待ち族の人がいる。「こうなっています」とは言ってくれるが、ではどうすればいいかという意見がない。「弱りましたね」と言ってお終いである。もっともルールもそう簡単に変えられるものばかりでもない。役所や銀行などという組織であればなおさらである。ただ、「ルールを変える気があるかどうか」だけでも大きく異なるところがある。ルールの中の思考だけになってしまうと、ちょっとスケールが小さくなってしまうだろう。

 微妙なところではあるが、真面目な課長さんの真面目さゆえに、ちょっと気になってしまい、そんなことを考えてみたのである・・・



Free-PhotosによるPixabayからの画像

【本日の読書】




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