2024年4月11日木曜日

同窓会

 昔の支店時代の同窓会に出席した。その支店には、私が銀行に入って2年目の1989年11月に初めての転勤で赴任したのである。集まったメンバーはその時の支店長、次長を初めとして、当時の私の上司、先輩、同僚の女性ら12人である。支店には継続的に大勢の銀行員が転入転出する。同窓会と言っても支店経験者でいけば数限りない。大概、ある支店長を中心にした集まりとなるのが通例であるが、昨日も同様であった。当時の支店長は私の着任後、数か月後には転出されており、実際に一緒に仕事をした期間は短かったが、それでもギリギリ対象としてお誘いいただいたのである。

 もうすでに35年ほど前になる。当時の支店店舗は、今はもう取り壊されてマンションになってしまっている。昔話に花が咲く。私も20代だったし、最年長の次長も40代後半。みんな今の私よりはるかに若かった。面白いもので、お互いに話をしていると、忘れていた記憶が戻ってくる。当時、私の仕事上の責任は軽く、支店経営の懊悩など知るよしもなかったが、次長が業績表彰に入れなかった事を悔し気に語ってくれた。私は入行から12年間で4ヵ店を経験し、以後は支店勤務から離れたため、支店経営には携わっていない。自分の経験していない苦労の一端を伺えたところである。

 幹事を務めたのは私の直属の上司であった方。正直言って、その方が幹事だったから参加したと言っても過言ではない。仕事で成果を挙げるためには、人間性など二の次という考え方もあるかもしれないが、仕事を離れてもなお「お会いしたい」と思われるのは人間性以外にない。「仕事の切れ目が縁の切れ目」となるか否かは、その上司の人間性にかかっているとつくづく思う。強権政治で部下を厳しく管理して成果を挙げさせるのもやり方であり、否定すべきものではない。給料をもらうのは成果に対してであり、人間性に対してではない。ただ、「仕事の切れ目が縁の切れ目」となるか否かだけである。

 35年も経つといろいろな変化がある。今回、幹事の元上司は約30人ほどに声をかけたそうである。行方のわからなくなっている者もいれば、物故者もいる。亡くなった方の名前を聞いて、それほどの年でもないのにと思わずにはいられない人もいる。35年後にはこの世にいないなんて当時は想像すらしなかったが、一時期、同じ職場で働き、会話をした間柄としては、何とも言えない気分になる。そこでもやはり深く残念に思うのは人柄の良かった人であるのは同じである。あまりいい印象を持っていない人については、「あぁ、そうなんだ」という程度でそれほど感慨はない。

 今回の楽しみの一つは女性陣との再会であった。当時はお互いに20代だったわけであり、当然異性としての意識は大きくあった。当然ながら35年経つとみんなそれなりの年齢になっており、世間的にはおじさん、おばさんなのであるが、「相対年齢」は変わっていない。今も昔のイメージのままであり、当時と同じ感覚が生きている。若手同士でしばしば旅行に行ったこともあり、それらの思い出も蘇る。その支店時代で一番楽しかったのは、90年代に入って私の下の年次が増えてからである。次の支店長の時代であり、昨日の集まりとはちょっとズレている。そこが残念であったとも言える。

 それにしても、今はお互いに何の遠慮もない関係のはずであるが、やはり支店長は今でも支店長であり、当時若手だった私からすると今でも精神的な距離感はある。世間的にはもう引退されているが、こうして集まると今でも「支店長」なのである。「支店長」は「支店長」であり、「次長」は「次長」であり、この関係はずっと変わらないものなのかもしれない。今では半数以上の方が引退されており、まだまだ働かないといけない我が身からすると羨ましい限りである。

 「またやろう」ということで散会。次はいつになるかはわからないが、個人的には「係」レベルで集まりたいと思う。年齢を経れば、歩いてきた道の方が長くなる。こういう機会も増えてくるが、まったく集まることのない集まりもある。幹事を引き受ける人次第というところもあるが、せっかく続いているのだし、次回があるならまた参加したいと思うのである・・・



Willfried WendeによるPixabayからの画像

【本日の読書】

脳の闇(新潮新書) - 中野信子 三体 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 光吉 さくら, ワン チャイ, 立原 透耶




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