2021年11月14日日曜日

プロのあり方

 先日、ある市民ホールでの無料クラッシックコンサートのサポートをしている人の愚痴を聞いた。そのコンサートでは中学生の演奏に加え、プロのピアニストをゲストに迎えたそうである。そのプロのピアニストは、ピアノはスタインベックのピアノを使うとし、当日の調律を要求してきた。ところが低予算のコンサートだからそんな余裕はない。さらに会場の都合で搬入できるピアノは1台だけ。つまりスタインベックを搬入するともう入れられない。すると、前座の中学生も調律済みのスタインベックをプロが弾く前に使う事になるが、プロご本人はこれに難色。これらの対応に知人はてんやわんやなのである。

 知人はブツブツ文句を言っていたが、そもそもプロである以上、自分の演奏の質にこだわるのは当たり前であり、要求はすべてその質を保つものである限り正当だと思えた。しかし、一方でプロである以上、与えられた環境でベストを尽くすのも必要なのではないかという思いもある。「どんな時でもベストパフォーマンスを発揮する」か、「状況に応じて与えられた環境の中でベターなパフォーマンスを発揮する」か。プロに必要なのはどちらなのだろうかと、話を聞きながらしばし妄想に耽った。

 プロと言っても、無料の市民コンサートに呼べるほどであるからまだ無名の人だそうである。「そのくせに」という気持ちが知人にはあるようであるが、私からすれば「それなのに」と思わなくもない。偉くなってから拘るよりも偉くなる前からそういうスタンスを貫いているとも言える。将来そのピアニストが有名になったとしたら、「若い頃からすでに確たるプロ意識を持っていた」と評されるかもしれない。どんなピアニストなのか、会った事もない私にはわかる由も無いが、今の時点で評価するのは時期尚早だろう。

 私の感覚からすると、「現有戦力で戦う」というのが私の主義であるから、スタインベックでなくても、調律をしてもらえなくてもその場の状況に応じてプロとしての演奏をしてみせようとするだろう。それこそ、中学生と同じ環境でその歴然とした違いを素人にもわかるようなパフォーマンスをすることに喜びを見出すだろう。ただ、それは私の考え方であって、もちろんそれこそがプロとしてのあり方だというつもりはない。たとえ無料のコンサートであったとしても、自分のベストな演奏を聴かせるという考え方も正しいと思うからである。

 もしかしたらそのプロのピアニストの方も全部要求が叶えられないなら演奏はしないとゴネているわけではないのかもしれない。できるか否かは別としてとにかく言うだけ言ってみるという考え方かもしれない。現に知人はブツブツ文句を言いながらも調律師の手配はできないかとか、ピアノの搬送問題をなんとかできないかとか、一応あれこれ動いているのである。できるかどうかはわからないが、とにかく実現に向けて動いているわけで、もしかしたら全部できてしまうかもしれない。そうしたら、当日はプロのピアニストによる満足いく演奏が来場したお客さんに披露されるかもしれない。

 もしもそういう結果が実現されたなら、それはそのプロによる拘りが功を奏したと言えるわけである。たとえ無料コンサートであろうと、有料コンサートと遜色ない演奏を披露してみせるというプロの拘りかもしれない。だとすれば、大したプロ根性だと言える。それがプロの望ましい姿なのかもしれない。知人も本来はプロを呼ぶということはそういう事なのだという認識を持つべきなのかもしれない。

 2つの考え方のどちらが正解かと問われれば、どちらとは言えないと思う。そこは考え方の違いで、どちらが正解かという問題ではない。ただ、私の場合は、その場の状況でベストパフォーマンスを目指すという考え方を取るだけである。ビジネスの現場では、「あれがない」「これがない」の連続である。「条件がすべて満たされれば」誰だってできてしまうだろうと思ってしまう。今の会社でも「〇〇が△△だったら良かったのに」と思うことばかりである。そうでないから、知恵と工夫が求められるわけである。

 ビジネスとピアノの演奏とは違うかもしれないが、求めれば叶えられる要求と、ないものねだりしても仕方ないというものの違いはあるかもしれない。しかしながら、今日も明日も「現有戦力で戦わないといけない」状況にある身としては、やはり「今あるものでなんとかする」という信念を大切にして、明日も頑張ろうと日曜日の夜に思うのである・・・


Robert PastrykによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
 



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