2019年2月14日木曜日

音楽をイメージする


恩田陸の『蜜蜂と遠雷』を読んだ。あるピアノコンクールを舞台とした物語である。それぞれの出場者、そして審査員などの人々を描いた作品であるが、ストーリーの面白さに加えて驚かされたのは、音楽を言葉で表現する様子である。登場人物たちが奏でる演奏を言葉巧みに表現していく様は、読んでいてその場で音楽を聴いている気分にさせてくれるものであった。

小説自体はストーリーも面白く一気に読んでしまったが、今は便利な世の中で、作中で登場人物たちが演奏する曲をすぐYouTubeで再現できる。あまりのすばらしい「演奏」にすぐに聞きたくなってYouTubeにアクセスしたのであるが、その都度少なからず違和感を覚えたのである。その理由は簡単で、著者の言葉による「演奏」がいかに素晴らしいものであったとしても、実際に耳にする演奏がそのイメージにマッチしないからである。

そもそもであるが、音楽はイメージを伝えられるかというと、音楽に疎い私からすると、それは到底不可能な技にしか思えない。いくらビバルディの「春」を聴いたとしても、それはその曲がビバルディの「春」だとわかっているからなんとなく「春」というイメージが湧くものの、そうでなければ「春」というイメージはしてこない。事実、ビバルディの「四季」をランダムに聴いたら、たぶんどの曲がどの季節かすべてはわからない。また、ベートーベンの「英雄」を聴いても英雄の姿は浮かんでこないし、「ワルキューレの騎行」に至っては、脳裏に浮かぶのはヘリコプターだ。

以前、世界的に有名なピアニストの方に、演奏者によって同じ曲でも違うものなのかという素人質問をしたことがあるが、その時は「まったく違う」と断言された。同じ音符に従って演奏するならみんな同じになりそうなのであるが、そうではないという。素人の私としては、たぶん世界的に有名なピアニストが弾くショパンのノクターンとちょっと上手な音大生が弾く同じノクターンとを聴き分けられるかと問われれば、ものすごく自信がない。もしかしたら違いくらいはわかるかもしれないが、どっちがどっちかはわからないかもしれない。

ひょっとしたらGacktなら聴き分けられるのかもしれないが、音楽素人の私にはたぶん無理である。5,000円のワインと100万円のワインのテイスティングをしてもどちらがどちらかを味分けられないのと同じだろう。しかし、その違いを聴き分けられる人はいるわけで、だからこそ音楽家は世界的に有名になったりするのだろう。言葉と違って音楽には「翻訳」が不要である。聴く人が聴けば一発で「珠玉の演奏」を聴き分けられるのであろう。そしてそういう人たちは、脳裏にその曲がイメージしているものが浮かぶのかもしれない。

そんな「耳」を持てたらと思わざるを得ない。『蜜蜂と遠雷』では、登場人物たちが自分の中にあるイメージをさまざまに演奏で表現する。おそらく、プロの演奏家はみんなそうなのであろう。しかし素人は哀しいかな、曲名が思い出せずに鼻歌で表現しようとしても、「何それ?」と簡単に言われてしまう有様なので、それは実に遠い世界である。ただ、実は「聴く耳」くらいなら、鍛錬で名演奏を聴き分けられるレベルくらいには行けそうな気がする。それは専門家ではない小説家の百田尚樹も本(『クラシック天才たちの到達点』)を出せるくらいになれるのだから、数多く聴いていけばある程度のレベルにはなれるのかもしれない。

クラッシックは昔から好きで、CDもいくつか持っているが、それほど聴き込んでいるわけではない。ただ、『蜜蜂と遠雷』のような世界を味わえるのであれば、これから少し時間を取って聴いてみようかと思ってみたりする。恩田陸が描いた音楽の世界に少しでも近づけたら、自分の世界も少し広くなるのではないかと思う。そんな世界を是非とも体感したいと思うのである・・・



【本日の読書】
 
   
   


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