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歴史好きの私が今現在買い続けているのが『逆説の日本史』シリーズである。これは著者が独自の観点から日本の歴史学者の「常識」にとらわれずに歴史を語っているもので、非常に面白い。おそらく歴史学者からは批判のあるところもあるのだろうが、私自身のモノの考え方や日本社会に対する見方に影響を受けているところもあり、今のところやめられずに読み続けている。最新刊は28巻『大正混迷編』で、サブタイトルにある通り大正時代の話であるが、その時代の影響として五・一五事件の事も少し語られる。
五・一五事件は現役の海軍将校が時の総理大臣を射殺するという大事件だが、新聞に煽られた民衆が熱狂的に犯人の海軍将校を支持し、減刑(助命)歎願をその数100万通も寄せたという。それはのちの二・二六事件にもつながると思うが、背景には農村の貧困問題もあったようである。力で世の中を変えようとするのは実に乱暴であるが、農村の貧困というのはこの時代酷かったらしいから心情的にはわからなくもない。しかし、孔子の時代の話が昭和初期の日本にも当てはまる真実だったのかと思わなくもない。
時の総理大臣を暗殺するというのは、過去の過激な時代の話ではなく、今もなお現存する危険であり、日本のみならずアメリカでも行われている(未遂も含めてではあるが)。それが個人の単独犯行であれば、捕らえられて終わりであるが、集団となるとそれこそ社会秩序の破壊にまで及ぶのだろう。先日観たNHKの『映像の世紀』という番組で、9.11のあとイスラム系の住民を射殺した白人の事を取り上げていたが、9.11テロに腹を立てた事による犯行であった。日本でもアメリカでも大きく変わらない。
当然ではあるが、動機(道を外れた人を許しがたいと思う気持ち)は間違っていなくても、だからなんでもやっていいというわけではない。目的(道を外れた人を正す)を達成するためには当然、手段に制限がある。目的のために手段を選ばずという事は許されることではない。いくら正義があろうとも、「行き過ぎた正義感」は「過ぎたるは及ばざるが如し」である。それ自体がすでに道を外れてしまっている。そんな当然の事を得てして自らの正義感に酔う者にはわからなかったりする。
今は実際に過激な犯罪に走る者はそうそういないだろうと思う。しかし、現代社会ではもっと軽度なケースは数多いと思う。それは不倫が発覚したり、不適切発言をした芸能人などを袋叩きにするところにそれを感じる。確かに不倫や不適切発言は好ましい事ではないが、だからと言って罵詈雑言を浴びせてもいいという事ではない。そこには「匿名」という気楽さがあるのかもしれないが、「行き過ぎた正義感」であることは間違いないだろう。当の本人がそれに気づいていない事も確かであろう。
この「行き過ぎた正義感」は非常に厄介である。元が正義感である以上、それを否定する事はできない。ただし、それをどう表現するかにおいて、やってはいけない領域に入ることは許されないという当たり前のルールが守られなければならない。五・一五事件も二・二六事件もともに国を憂いた軍の将校が、原因となっている悪漢を排除しようとしたもので、その心情、正義感は否定すべきものではないが、だから「殺してしまえ」となれば、それは「行き過ぎ」なのである。
さらに「正義」も人によって違っていたりする。同じ目的であったとしても、そこに至る優先順位が違うことはざらにあり、何を優先するかによって正義が異なるかもしれない。そんな人によって異なる正義を絶対として振り回されてはかなわない。古くは学生運動などもそうだし、「熱狂的な正義感」が社会に混乱をもたらし、最後は単なるテロ行為になっていった。現代社会で起こっている戦争もそれぞれの正義の対立の結果である。正義とはそういうものであり、それを忘れると行き過ぎれば犯罪になり、社会秩序の崩壊につながるのであろう。
いつも思うのだが、孔子の時代から変わっていない真理は多い。論語を読むたびにそう思うことしばしばであるが、これもまたそんな一つであると思うのである・・・
3D Animation Production CompanyによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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