今回の孔子の言葉は、「才能」という言葉を使っているが、「才能にほこる」とは自信にあふれるという事であり、それは過信と紙一重とも言える。自分が一番であり、他の人間は自分よりも劣ると考える事は、まさに過信である。それはある特定の人物の話ではなく、誰でもが持ち得る要素であり、「過信」と考えればそれに当てはまる人物はかなりいるように思う。人間は誰でも自分が人生の主人公であり、したがって常に自分が正義である。そこに過信が生じるものであると思う。
本当に正義であればまだしも、時にたとえ悪事を働く場合であっても、そこに社会が悪いとか相手が悪いとかという正当化理由を設けている事がほとんどだろうと思う。それは例えば自分の意見こそが絶対と過信することもその一つだと言える。戦前は間違っている相手であれば殺しても良いという風潮があり、2・26事件では世の中を「正そうとした」青年将校らが政府の要人を殺害したのもその好例である。それはさすがに極端であるが、ネット社会の現在では、容赦のない誹謗中傷に歪んだ正義が溢れているように思う。
自分に自信があるのは悪い事ではない。自信を持てばその言葉には説得力が増すし、さらに努力してもっと高みに上ろうという事にもなるだろう。ただ、そこに「他人の長所を認めない」というものが加わると、それはダメだと孔子は言う。それはその通りだと思う。誰もがそう思うだろう。しかし、よく考えてみると、それはなぜダメなのだろうか。才能がそなわっていれば、その才能にほこり、他人の長所など認めなくてもその才能が枯れる事はない。せいぜい「嫌な奴だ」と思われるだけだろう。
「憎まれっ子世に憚る」という言葉があるが、人に好かれなくても溢れる才能を発揮して世の中に貢献している例はいくらでもありそうな気がする(知らんけど)。別に本人が他人からの悪評を気にしないでいられる強心臓の持ち主なら、別にかまわない気がする。ただ、ここでは「見どころがない」と言っている。正確な訳なのかどうかはわからないが、この意味を「今後を期待できる優れた点。将来性。」という日本語の意味と同じと考えるなら、「将来性がない」という事は当たっているかもしれない。
「他人の長所」には、時として「自分にない」ものである事がある。そうだとすると、自分にないものを認められないというのは、自分の才能をさらに伸ばす上でマイナスになる。なぜなら、自分にない「他人の長所」を取り入れられれば、それは自分の才能をさらに伸ばす事につながるであろうからである。スポーツなどでは、他人の優れたプレーをマネする事によって自分の力が伸びるということは当たり前の事である。世阿弥の「守破離」も同じ理屈であるように思う。
つまり、「他人の長所」は自らの才能を脅かす危険なものではなく、その逆に自らの才能をさらに伸ばすヒントである。それを認めて自分の中に取り入れ、さらに自分なりの工夫を加えれば、自分の実力もさらに伸びていく。他人の意見を斬って捨てるのではなく、そこにも考えるべき点がないかどうか考え、時にはそれについて議論をし、受け入れる事によって自分の意見が補完されるかもしれない。そして他人の長所を素直に認められるスタンスは他人の好感を呼び、それがさらに周りからのアドバイスにつながるかもしれない。
そういう人物は、さらに自分の能力を伸ばしていけるが、他人の長所を認められない人間は自分のその才能の範囲から抜け出せない。だから「見どころがない」、「将来性がない」のではないだろうか。単に謙虚さがないとダメという話ではなく、自分の才能を伸ばしていくためには、自分以外の者の才能、長所をどんどん取り入れられないといけない。そういう事のように思う。
そう考え、自分はどうだろうかと考えてみる。幸い、それほど人に誇れる才能がないため、常に他人の良い点を取り入れる事を考えている。自分の意見と違う他人の意見でも、「ひょっとして自分が間違えていたら後で笑い者になる」という恐怖心から謙虚に耳を傾けている。才能のない人間はそのようなスタンスが必要だろう。その良し悪しは別として、そういう謙虚さをこれからも持ち続けたいと思うのである・・・
Saurabh SarkarによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】