2024年10月30日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その11)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、如(も)し周(しゅう)公(こう)の才(さい)の美(び)有(あ)るも、驕(おご)り且(か)つ吝(やぶさ)かならしめば、其(そ)の余(よ)は観(み)るに足(た)らざるのみ。
【訳】
先師がいわれた。「かりに周公ほどの完璧な才能がそなわっていても、その才能にほこり、他人の長所を認めないような人であるならば、もう見どころのない人物だ」
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 今回の孔子の言葉は、「才能」という言葉を使っているが、「才能にほこる」とは自信にあふれるという事であり、それは過信と紙一重とも言える。自分が一番であり、他の人間は自分よりも劣ると考える事は、まさに過信である。それはある特定の人物の話ではなく、誰でもが持ち得る要素であり、「過信」と考えればそれに当てはまる人物はかなりいるように思う。人間は誰でも自分が人生の主人公であり、したがって常に自分が正義である。そこに過信が生じるものであると思う。

 本当に正義であればまだしも、時にたとえ悪事を働く場合であっても、そこに社会が悪いとか相手が悪いとかという正当化理由を設けている事がほとんどだろうと思う。それは例えば自分の意見こそが絶対と過信することもその一つだと言える。戦前は間違っている相手であれば殺しても良いという風潮があり、2・26事件では世の中を「正そうとした」青年将校らが政府の要人を殺害したのもその好例である。それはさすがに極端であるが、ネット社会の現在では、容赦のない誹謗中傷に歪んだ正義が溢れているように思う。

 自分に自信があるのは悪い事ではない。自信を持てばその言葉には説得力が増すし、さらに努力してもっと高みに上ろうという事にもなるだろう。ただ、そこに「他人の長所を認めない」というものが加わると、それはダメだと孔子は言う。それはその通りだと思う。誰もがそう思うだろう。しかし、よく考えてみると、それはなぜダメなのだろうか。才能がそなわっていれば、その才能にほこり、他人の長所など認めなくてもその才能が枯れる事はない。せいぜい「嫌な奴だ」と思われるだけだろう。

 「憎まれっ子世に憚る」という言葉があるが、人に好かれなくても溢れる才能を発揮して世の中に貢献している例はいくらでもありそうな気がする(知らんけど)。別に本人が他人からの悪評を気にしないでいられる強心臓の持ち主なら、別にかまわない気がする。ただ、ここでは「見どころがない」と言っている。正確な訳なのかどうかはわからないが、この意味を「今後を期待できる優れた点。将来性。」という日本語の意味と同じと考えるなら、「将来性がない」という事は当たっているかもしれない。

 「他人の長所」には、時として「自分にない」ものである事がある。そうだとすると、自分にないものを認められないというのは、自分の才能をさらに伸ばす上でマイナスになる。なぜなら、自分にない「他人の長所」を取り入れられれば、それは自分の才能をさらに伸ばす事につながるであろうからである。スポーツなどでは、他人の優れたプレーをマネする事によって自分の力が伸びるということは当たり前の事である。世阿弥の「守破離」も同じ理屈であるように思う。

 つまり、「他人の長所」は自らの才能を脅かす危険なものではなく、その逆に自らの才能をさらに伸ばすヒントである。それを認めて自分の中に取り入れ、さらに自分なりの工夫を加えれば、自分の実力もさらに伸びていく。他人の意見を斬って捨てるのではなく、そこにも考えるべき点がないかどうか考え、時にはそれについて議論をし、受け入れる事によって自分の意見が補完されるかもしれない。そして他人の長所を素直に認められるスタンスは他人の好感を呼び、それがさらに周りからのアドバイスにつながるかもしれない。

 そういう人物は、さらに自分の能力を伸ばしていけるが、他人の長所を認められない人間は自分のその才能の範囲から抜け出せない。だから「見どころがない」、「将来性がない」のではないだろうか。単に謙虚さがないとダメという話ではなく、自分の才能を伸ばしていくためには、自分以外の者の才能、長所をどんどん取り入れられないといけない。そういう事のように思う。

 そう考え、自分はどうだろうかと考えてみる。幸い、それほど人に誇れる才能がないため、常に他人の良い点を取り入れる事を考えている。自分の意見と違う他人の意見でも、「ひょっとして自分が間違えていたら後で笑い者になる」という恐怖心から謙虚に耳を傾けている。才能のない人間はそのようなスタンスが必要だろう。その良し悪しは別として、そういう謙虚さをこれからも持ち続けたいと思うのである・・・


Saurabh SarkarによるPixabayからの画像

【本日の読書】

孤闘 三浦瑠麗裁判1345日 - 西脇 亨輔  なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) - 三宅香帆  アルプス席の母 - 早見和真





2024年10月27日日曜日

人の記憶

 この週末、久しぶりに高校の同期会があった。前回から8年ぶりとのことだったが、そう言われればそういう気もするし、それよりも前回はどこでやったのかと考えてみると思い出すのに時間がかかってしまった。約120人の出席者だったが、時間にもゆとりがあり、じっくりといろいろな友人たちと話ができた。それにしても、当たり前であるが、人の記憶というものは人それぞれであり、同じ経験をしているはずなのに覚えている人と覚えていない人がいる。自分には鮮明に残っている記憶が相手にないというのも意外な気がする。

 1人の友人と久しぶりに再会した。彼は実は中学校からの同級生であるが、高校時代は同じクラスになったことがない。特に同じクラブにいたこともないし、趣味が合うこともなく、会えば親しく話をするくらいである。会場でぽつんと立っているのを見かけて話しかけた。実はその時、名前を忘れてしまっていたが、幹事の心遣いでみんな名札をつけており、それで名前で話しかけることができた。いつ以来だろうと考え、「前回来ていたっけ?」と聞いたところ、「中学の集まり以来だね」と答えが返ってきた。

 そう言えば、中学の時の集まりがあって、それは2017年の事であった。つまり7年前である。衝撃的だったのが、その場に彼がいた事、彼が中学以来の同級生だったという事をすっかり忘れていた事である。彼はその集まりでの私との会話に言及してくれたが、私は狐につままれたように相槌を打つことしかできなかった。確かに彼はあまり社交的な性格ではなく、目立つ存在ではなかったが、それなりに好意を持って接してきたつもりである。なのにまったく私の記憶から抜け落ちていたのである。

 彼のことを蔑ろにするつもりはないし、これからも仲良くしていきたいと思っている。なぜ忘れてしまったのかと考えると、会えば話をするし、中学校以来の友人だし(忘れていたが)、しかし逆に言えば会わなければ思い出す事もない。人間の脳の記憶容量には限界があるだろうし、そんな脳が彼のことを忘れたのも当然かもしれない。申し訳ないなと思う気持ちが生じた。その他、声をかけてくれた何人かは名前も覚えていなかった(名札が大いに役に立った)。

 覚えていない言い訳としては、もともと一度も同じクラスになった事がなく、高校時代も話をした事があっただろうかと思うくらいであるが、向こうは私を覚えている。幾つかのエピソードを挙げて「まだやってるの?」と聞かれて内心面食らった。なぜ知っているのだろうか、と。相手は自分のことを覚えてくれているのにこちらにはその記憶がない。何だか不義理を働いているような気分になる。私が全校的な有名人であればそういう事もあるだろう。しかし、残念ながら謙遜するまでもなくそんな事はない。

 話をした中には、高校時代とはまるで人相が変わってしまった者もいる。あまりの別人化に話ていてもやっぱり狐につままれた気分だったが、記憶が残っていればそれを頼りに話ができる。話しかけてくれるという事は、ある程度好意を持ってくれているという事である。ありがたいと素直に思う。覚えていないのは、思い出さないからに他ならない。普段会わずに、思い出しもしなければ、脳だって記憶容量に限界がある以上、deleteするだろう。たまに思い出して記憶の維持をする事が必要なのかもしれない。

 好意を持って話しかけてくれた友人はやはり大事にしたいと思う。ただでさえ友人は少ないし(いたずらに数を増やしたいとも思わないが)、せめて自分に好意を持って話しかけてくれる同級生は友人として大事にしたいと思う。次の同期会は4年後の予定だが、その時は今回の事をしっかりと覚えておいて、自分から話しかけるようにしたいと思うのである・・・



【今週の読書】

孤闘 三浦瑠麗裁判1345日 - 西脇 亨輔  三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功






2024年10月23日水曜日

投資かギャンブルか

 先日、採用活動でとある学生さんと話をした。大学では「なぜ日本人が投資下手なのか」について論文を書いているのだと言う。テーマとしてはベタなのではないかと思ったが、「そもそも金融教育が十分にされていない」とか、「額に汗して稼ぐことを良しとする文化」だとか、そんな意見があることを聞いた。あちこちで聞いたような話である。それはその通りなのだろう。お金にお金を稼がせるのを良しとしない。むしろ楽してお金を稼ごうとするのは罪悪のような感覚が日本人にはあるように思う。

 一方で、定期預金しかしていない人を小馬鹿にするような風潮もある。政府ももう十分な年金を支給できないと判断したのであろう、今やNISAだ何だと税制優遇して投資を煽っている。しかし、多くの人が投資などあまり考えた事もなく、せいぜいが銀行や証券会社に勧められるがまま投資信託を買ったりしているのが関の山のような気がする。私はと言えば、とりあえず今は株式投資をしている。過去に株の信用取引では大損をしたが、現物株投資では投資額はほぼ20倍くらいになっており、まずまずの成績である。

 銀行や証券会社の勧める投資信託は、「購入者にとって」いい商品ではなく、「売り手にとって」いい商品(すなわち儲かる商品)である事が多い。よくわからないまま銀行員や証券マンに勧められて元本保証なしの自己責任投資を行う事が、果たして投資なのだろうか。私の場合、配当(わずかだがちょっとしたお小遣いになる)と株主優待(ちょっとしたお得気分になれる)という点で定期預金よりはいいだろうと考えて現物株投資を行っているが、それで大成功している(今のところは)。

 ただ、短期売買を狙った株式投資では大失敗して大きな借金を負って大変な目にあった。短期で上がるかどうかに賭ける投資は、投資というよりほとんどギャンブルである。一方で有効な投資は、一方では危険なギャンブルでもある。銀行員時代、競馬好きな同僚がいた。毎週競馬場に行っていたが、馬券を買うのは1万円までと決めていた。それだと損をしても最大月4万円。独身者のお小遣いではちょっと贅沢な遊びのレベルである。そこには「ギャンブル」という危険なニオイはなかった。

 考えてみれば、言われるがままに訳のわからない投資信託を買うのと、「これが来る」と信じてお金を突っ込む競馬やパチンコとどこが違うのだろうか。私の株式投資は、成功した「投資」なのか、借金の山を作ってしまった「ギャンブル」なのか。やっている事は同じである。そう考えていくと、日本人に必要な金融教育とは、「何に投資するか」ではなく、「お金をどう投資するか」であるのだろうと思う。余裕資金の一部(しばらく使わなくてもいいお金)を「失っても困らない範囲で」行うという事ができれば何をやっても怖くはない。

 (将来のために)「貯めるお金」と、多少のリスクを取ってでも「増やすお金」とを区別し、限度を守って投資するなら、パチンコや競馬でも立派な投資と言えるように思う。日本でもカジノ建設をという話があるが、反対派の主張することは「ギャンブル依存症を増やす」という事のようである。昔からの博打もそうであるが、大きなお金を賭けさせて払えなければ借金を負わせて追い込むといった事が暴力団などによって行われていたが、「身の丈」にあった範囲内であれば問題は起こりようもない。

 考えてみれば、友達にお金を貸すのも他人の借金の保証人になるのも、みんな「身の丈」の範囲内であればまったく問題はない。身の丈を超えるから悲劇になるのである。日本人の投資下手を解消するなら、そういう「身の丈」教育がまずは必要であるように思う。あるものにお金を投入する際、それが「投資」なのか「ギャンブル」なのか。それは「対象」ではなく、「お金の使い方」の問題であると思うのである・・・


ASchuehleinによるPixabayからの画像

【本日の読書】
講談で身につく ビジネスに役立つ話術の極意 - 神田山緑 三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功




2024年10月20日日曜日

袴田事件雑感

袴田巌さん無罪確定へ 事件から58年 検察が控訴しない方針
2024年10月8日 22時03分 
58年前、静岡県で一家4人が殺害された事件の再審=やり直しの裁判で、袴田巌さんに無罪を言い渡した判決について、検察トップの検事総長は8日、控訴しないことを明らかにしました。これにより一度、死刑が確定した袴田さんの無罪が確定することになりました。
NHK WEB
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 袴田事件が起こったのは今から58年前。私が2歳の時であるから当時の事件の記憶などない。それにしても、無実の罪で逮捕され、死刑判決を受け、長い期間拘束されていた心境はいかばかりかと思う。事件の真相を知る者は、袴田さんご本人と真犯人しかいないわけで、それを第三者が犯行を認定していくというのは難しい事である。本人が素直に自供すればいいが、そうでなければきちんと証拠固めをして公開の法廷で犯行を認定していかないといけないわけである。証拠がなければ有罪にはできないのである。

 ニュースによれば、捜査機関がその証拠の捏造を行ったという。その真偽はわからないが、認定の通りだとすると、とんでもない事である。なぜ、証拠の捏造などという事を行なったのだろうか。悪意的に罪に陥れようとしたものではないだろうから、たぶん当時の捜査担当者の強い思い入れから行き過ぎた行為に走ったのだろう。すなわち、「犯人はこいつで間違いない」という強い思いと、「だから証拠を捏造しても構わないだろう」という考えだったのだろう。犯罪を犯したのは間違いないのだから、その罪を償わせるためには証拠の捏造もやむをえないと考えたのだろうと思う。

 日本の法律では証拠の捏造がダメなのは当然として、確かな証拠であったとしても違法に収集されたものだと裁判では使えないことになっている。そうでなければ人権侵害が起こるという過去の歴史の経験から決められたルールであるが、「正義であれば何をしてもいい」という考え方への否定である。それが捜査機関の足枷になることもあるのだろうが、そうしたルールを守ってもらわないと、ある日突然無実の罪に問われるなどという事が起こりかねないことになる。「刑事の勘」で犯人にされてはかなわない。

 当時捜査にあたった警察では、内部でどんなやり取りがあったのだろう。被害者の身近な人物の中では、確かに袴田さんに怪しいところはあったのだろう。「こいつに違いない」と思い込んだ人たちがいて、「なんとか自供させろ」という動きになったのだろう。そういう中で、ひょっとしたら他に犯人がいるかもしれないと疑った刑事もいたかもしれない。しかし、組織が「袴田犯人説」で動く中で、それに反した行動は取れなかったのかもしれない。ましてや起訴した後に真犯人を捜査するなどという自己否定的な行動は許されなかっただろう。

 事件は日々起こっているし、起訴してしまえば警察の役割も終わりであり、あとは起訴した以上なんとしてでも有罪にしなければならない検察が、死刑判決に満足して終わりである。後でいくら無罪を訴えても、素人に犯罪捜査は不可能だろうし、その結果長い法廷闘争となる。そしてその間、恐ろしい事に(警察の捜査は終了しているので)残虐な事件を起こした真犯人は捕まる心配もなく安堵して生活していたわけである。考えてみるになんともやり切れない思いがする。

 警察も当然、善意の下で行動していると思うが、本当に真犯人を逮捕するという大前提の下、「刑事の勘」などに頼ることなく、さまざまな可能性を考慮してしっかり捜査してほしいと思う。今はいろいろと「可視化」されて冤罪を防ぐ仕組みができているが、人間の考え方はなかなか変えられるものではない。硬直的な考え方で思い込み捜査をやられては、仕組みの裏をかく事を今度は考えるようになるだろう。「裁判で有罪にする」ためだけに尽力してほしくはないと思う。一方で、捜査の手足を縛れば犯人が逃げ延びる可能性は高くなるわけで、なかなか難しい事だと思う。

 「法でさばけない悪を退治する仕事人」が映画や漫画などで持て囃されるのは、ある意味厳格なルールで縛られた捜査の裏返しであるかもしれない。それはそれで我々市民にとっても、映画の関係者にとってもいいことかもしれない。幸い、これまで犯罪関係とは無縁の生活を送ってこられたが、これからも犯罪とは無縁に暮らしたいと、袴田さんに深く同情すると共に思うのである・・・

James Timothy PetersによるPixabayからの画像

【本日の読書】
世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書) - 高田明典  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦






2024年10月16日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その10)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、好勇疾貧亂也。人而不仁、疾之已甚亂也。
【読み下し】
曰(いわ)く、勇(ゆう)を好(この)みて貧(ひん)を疾(にく)むは乱(らん)す。人(ひと)にして不(ふ)仁(じん)なる、之(これ)を疾(にく)むこと已甚(はなはだ)しきは乱(らん)す。
【訳】
先師がいわれた。「社会秩序の破壊は、勇を好んで貧に苦しむ者によってひきおこされがちなものである。しかしまた、道にはずれた人を憎み過ぎることによってひきおこされることも、忘れてはならない」

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 歴史好きの私が今現在買い続けているのが『逆説の日本史』シリーズである。これは著者が独自の観点から日本の歴史学者の「常識」にとらわれずに歴史を語っているもので、非常に面白い。おそらく歴史学者からは批判のあるところもあるのだろうが、私自身のモノの考え方や日本社会に対する見方に影響を受けているところもあり、今のところやめられずに読み続けている。最新刊は28巻『大正混迷編』で、サブタイトルにある通り大正時代の話であるが、その時代の影響として五・一五事件の事も少し語られる。

 五・一五事件は現役の海軍将校が時の総理大臣を射殺するという大事件だが、新聞に煽られた民衆が熱狂的に犯人の海軍将校を支持し、減刑(助命)歎願をその数100万通も寄せたという。それはのちの二・二六事件にもつながると思うが、背景には農村の貧困問題もあったようである。力で世の中を変えようとするのは実に乱暴であるが、農村の貧困というのはこの時代酷かったらしいから心情的にはわからなくもない。しかし、孔子の時代の話が昭和初期の日本にも当てはまる真実だったのかと思わなくもない。

 時の総理大臣を暗殺するというのは、過去の過激な時代の話ではなく、今もなお現存する危険であり、日本のみならずアメリカでも行われている(未遂も含めてではあるが)。それが個人の単独犯行であれば、捕らえられて終わりであるが、集団となるとそれこそ社会秩序の破壊にまで及ぶのだろう。先日観たNHKの『映像の世紀』という番組で、9.11のあとイスラム系の住民を射殺した白人の事を取り上げていたが、9.11テロに腹を立てた事による犯行であった。日本でもアメリカでも大きく変わらない。

 当然ではあるが、動機(道を外れた人を許しがたいと思う気持ち)は間違っていなくても、だからなんでもやっていいというわけではない。目的(道を外れた人を正す)を達成するためには当然、手段に制限がある。目的のために手段を選ばずという事は許されることではない。いくら正義があろうとも、「行き過ぎた正義感」は「過ぎたるは及ばざるが如し」である。それ自体がすでに道を外れてしまっている。そんな当然の事を得てして自らの正義感に酔う者にはわからなかったりする。

 今は実際に過激な犯罪に走る者はそうそういないだろうと思う。しかし、現代社会ではもっと軽度なケースは数多いと思う。それは不倫が発覚したり、不適切発言をした芸能人などを袋叩きにするところにそれを感じる。確かに不倫や不適切発言は好ましい事ではないが、だからと言って罵詈雑言を浴びせてもいいという事ではない。そこには「匿名」という気楽さがあるのかもしれないが、「行き過ぎた正義感」であることは間違いないだろう。当の本人がそれに気づいていない事も確かであろう。

 この「行き過ぎた正義感」は非常に厄介である。元が正義感である以上、それを否定する事はできない。ただし、それをどう表現するかにおいて、やってはいけない領域に入ることは許されないという当たり前のルールが守られなければならない。五・一五事件も二・二六事件もともに国を憂いた軍の将校が、原因となっている悪漢を排除しようとしたもので、その心情、正義感は否定すべきものではないが、だから「殺してしまえ」となれば、それは「行き過ぎ」なのである。

 さらに「正義」も人によって違っていたりする。同じ目的であったとしても、そこに至る優先順位が違うことはざらにあり、何を優先するかによって正義が異なるかもしれない。そんな人によって異なる正義を絶対として振り回されてはかなわない。古くは学生運動などもそうだし、「熱狂的な正義感」が社会に混乱をもたらし、最後は単なるテロ行為になっていった。現代社会で起こっている戦争もそれぞれの正義の対立の結果である。正義とはそういうものであり、それを忘れると行き過ぎれば犯罪になり、社会秩序の崩壊につながるのであろう。

 いつも思うのだが、孔子の時代から変わっていない真理は多い。論語を読むたびにそう思うことしばしばであるが、これもまたそんな一つであると思うのである・・・


3D Animation Production CompanyによるPixabayからの画像


【本日の読書】


世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書) - 高田明典 逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦

2024年10月13日日曜日

叔父の葬儀

 父方の叔父が亡くなった。昨年、長男の伯父が亡くなったばかりだが、今度は三男の叔父が父よりも早くこの世を去った。人間も生物であるので時間がくれば自動的にというわけにはいかない。叔父の方が父よりもずっと早くに認知症になり、そして先に行ったのである。父も自分よりも早いとは、と呟いていた。もともとそれほど交流が密だったわけではなく、認知症になったと聞いていた事もあり、最近はずっと会っていなかった。私の弟と確認したら、最近というより、叔父とは30年くらい会っていなかったかもしれない。

 通夜に行き、棺の中で眠る叔父の顔を見たが、昔の面影はまったくなく、「これ誰なのか」と思うくらい変わっていた。しかし、数年会っていなかった伯父でさえ本人とわからないくらい変わっていたので、30年くらい会っていなかった叔父が別人のごとく変わっていたのも不思議ではない。叔父は私の父よりも背が高く、昔からカメラが趣味で、いつもカメラを手にしていた印象がある。それは8ミリカメラにも及び、まだ私が子供の頃、部屋を暗くして映写会を開いてくれたのを覚えている。

 当時は8ミリカメラは珍しく、カタカタという音とともにスクリーンに白黒の動画が映し出される。今ではスマホで簡単に撮れる動画が、撮るのも見るのも手間をかけないといけなかったが、叔父が得意気に解説しながら撮影した動画を見せてくれたのを覚えている。通夜の会食の場でそんな思い出話をしていたが、たまたま会話の流れで叔母が叔父とは8歳違いだと初めて知った。よく会っていたのは小学生から中学生の頃で、数えてみるとその頃叔母は30歳前後だったとわかる。記憶の中の叔母はとてもそんなに若く見えず、本人には言えないが、密かに衝撃を受けたのである。

 その叔母が一枚の写真を見せてくれた。それは叔父と2人でマイク片手に歌っている姿。叔父はカラオケが大好きだったという事で、よく叔母と歌いに行っていたらしい。記憶の中にある叔父よりも髪の毛が後退し、それ相応に歳を取っていた。記憶の中の叔父と棺の中の叔父とを結ぶ姿であり、なるほどと思わせてくれた。改めて写真はその時々を捉えて残す貴重なものなのだと思わされた。父方の親戚付き合いは母方に比べると密度が薄い。頻繁にとは言わなくても、年に一度くらいは挨拶を交わす関係であってもよかったかもしれない。

 しかし、実は父は叔父についてあまりいい話はしない。どうも2歳年上の父を批判する言動をしばしばしていたらしい。それが父には面白くなく、「あいつは俺を馬鹿にしている」としばしこぼしていた。客観的に見れば、2歳しか歳の離れていない兄弟である。弟として兄に対抗心を持っていたのかもしれない。晩年は認知症になり、施設に入っていた事もあって、遺族は身内だけの家族葬を選択。本格的な葬儀ともなれば遺族の負担も大きく、それはそれでいいのではないかと思う。

 叔父の骨を拾って葬儀は終わった。こっそり従姉妹に聞いたところ墓はまだ決まっていないという。東京ではなかなか悩ましいところである。一人娘の従姉妹には子供はなく、墓を決めたところでそこもいずれ苔むす事になりそうである。諸行無常。叔父の墓がどうなるのかはわからないが、同じ祖父の血を引く者同士として、改めて従姉妹とはもう少し連絡を取り合っていきたいと思うのである・・・


ELLE RITTERによるPixabayからの画像

【本日の読書】
ただしさに殺されないために~声なき者への社会論 - 御田寺圭  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦






2024年10月9日水曜日

「仕事」と書いて「もんだい」と読む

 仕事をしていると日々問題がいろいろと発生する。今、目先で発生している問題としては、  
 新人が会社に来なくなってしまった
 一部プロジェクトが高稼働となり、社員が疲弊して悲鳴を上げている
 休職社員が複数発生し、きめ細かい対応が必要 
 売上は計画通りだが、利益が計画を大きく下回って赤字寸前 
 新卒・中途採用苦戦
というのがあり、また、恒常的に
 中堅社員(プロジェクトリーダー人材)の不足
 管理職不足人材育成困難
という問題を抱えている。こういう中で長期的なビジョンを掲げ、社員のエンゲージメントを高め、売上を上げて利益を出していくという問題がある。

 それ以外にも細かい問題は日々発生しており、その都度対応の手間を取られている。さながらそれはモグラたたきのようであるが、叩いても叩いてもモグラは次々と顔を出す。顔を出してくるならその都度叩けばいいわけであり、七転び八起きではないが、顔を出した分はすべて叩ききってしまえばいい。そういう精神でやっている。しかし、日々やる事は問題ばかりではなく、むしろ問題以外の仕事は仕事であるわけである。それをこなしながらというのが大変なところである。

 以前は、こうした状況に「なぜこんなに問題ばかりが起きるのか」と嘆きが入っていたのであるが、嘆いていても始まらないし、1担当者の時代から社内での役割が上がるにつれて問題は増えていく。今は取締役という立場上、社内の問題は「担当外」として見て見ぬふりをするわけにはいかなくなっている。現場で問題が起こっていて、それが耳に入った場合、担当者なり管理職なりが対応に当たるとして、それが適切にできるかどうかは気にしていないといけない。困っていそうであれば手を差し伸べなければならない。そうなるとそれはもう「自分の担当する問題」となる。

 問題はこうして増えていく。それを嘆いていても仕方ない。逃げられないものであれば正面から向き合うしかない。何事もそうであるが、意識の違いは大きい。問題を嘆いてもなくならないし、ストレスは溜まるし、いい事はない。普段の自分の仕事に加わる「厄介事」は精神的にも重くのしかかってくる。しかし、考え方をかえて、「問題を解決するのが自分の仕事」と捉えると、問題が生じるのは店頭にお客さんがくるのと同じで、それで商売が成り立つと考えれば愚痴も出てくる余地はない。

 人気のラーメン店は開店と同時に長蛇の列で、それが閉店まで続く。それを嘆く事は(少なくともオーナーの立場であれば)あり得ないわけで、むしろホクホク顔で笑いが止まらないだろう。「問題解決担当」と考えれば、社内でも頼られる存在になるし、自分の存在価値になる。社内で存在感を確保するという事は極めて重要であり、おかげで世間では定年退職年齢にあるにもかかわらず、給与もそのままで定年とは無縁で仕事ができる立場になっている。問題こそが自分を支えてくれているとさえ思えば愚痴も出てこない。

 最近は、「仕事と書いてもんだいと読む」は社内でも使われるようになってきている。いい事だと思う。何事も気の持ちようであると思うが、正面から向き合う事でメンタルのダメージも軽減される。管理職が対応すべき問題でも「何かあれば声をかけて」と言っておけば管理職の心の負担も軽減されるし、自分の存在価値も上がる。考えてみれば、仕事で生じる問題は人気ラーメン店の店頭に並ぶ長蛇の列であるかもしれない。そう考えれば、問題も悪いものではない。

 何事も気の持ちようだとすれば、問題もそんな風に考えて受け止めたいと思うのである・・・


【本日の読書】

言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦





2024年10月7日月曜日

隠れた事情

 Netflixのドラマ『極悪女王』が面白い。何でもそうだが、知られざる舞台裏を知るというのはまったくもって興味深いものである。ドラマは一時代を席巻した女子プロレスのヒールであったダンプ松本を主人公にしたものであるが、デビュー前は気の優しい女の子で、後にライバルとして熾烈な争いを展開する長与千種とは同期入門で、互いに恵まれない家庭環境の中から女子プロ入りし、共に励まし合いながら新人時代を過ごす。後の対決からはまったく想像のできないものであった。

 もちろん、対決というのはあくまでもリングの上だけでの話はわかっているが、2人の新人時代のエピソードは心温まるものがある。かくして物事は外側だけ見ていてもわからないものだという事がわかる。おかしいと思う事であってもその裏側には外側からは窺い知れない事情があったりするものである。裏側の事情を知らないのは仕方ないとしても、外側の事情だけをもって一方的に人を批判するのは避けた方がいいと改めて思う。

 一方、これとは対照的に自分の見えている事実がすべてという人たちがいる。ある程度は致し方ないのであるが、世界は自分が見えているところだけで成り立っているわけではない。「視野が狭い」という言い方もあるが、物事の裏側を想像してみるという事ができる人とできない人がいる。人間は神様ではないので、見えていない部分を見ることはできない。ただ想像してみる事はできる。

 今日、父の弟である叔父が亡くなったと従姉妹から私に連絡があった。いつものように週末に実家に帰っていたところだったので、私は両親にそれを告げた。両親ともに突然の訃報に驚いていたが、母は自分のところでなくなぜ私のところに連絡が来るのだと文句を言い出した。「筋が違う」と言いたいのかもしれない。しかし、相手の事情を想像してみれば、叔母も高齢だし、動揺しているかもしれない。その中で一人娘の従姉妹が悲しみの中で手続きに奮闘していたのだろうと想像できる。

 昼に亡くなったにも関わらず、夜には通夜と告別式の日程が送られてきた。葬儀屋が手際よく手配したのであろうが、遺族もゆっくり悲しんではいられない。そんな中で、中心になって仕切ったのは従姉妹だろうし、我が母の言う「筋を通して」我が父か母に電話するなどというゆとりもなく、手っ取り早くLINEで連絡が取れる私に連絡してきたのだろうと想像できる。

 母にしてみれば自分たちが後回しにされた事が面白くないのかもしれないが、例えそうだとしても「寛容」の精神があれば流せる話であるし、私のように相手の事情を想像してみれば何も気にならないと思う。それはいろいろな場面で当てはまるように思う。仕事でも同様で、「なぜこんな事をしたのか」と怒り半分、あきれる事半分の時があるが、じっとこらえてよくよく事情を聞くとその人なりに考えていたのだとわかったりする。それは考えが足りないとしても、ただ腹を立てるのではなく、まだまだだと思って根気よく教え諭して指導するしかない。

 ドラマはこれから後半戦。世の中では「一気見」などする人も多いようだが、私はあえてじっくり1話1話楽しんで観ていくタイプである。他にも観ているものはあるし、1週間で1話くらいのペースだろうか。もともと女子プロには興味などなかったが、それでも極悪同盟の存在は知らず知らずのうちに視野に入ってきていたし、チラ見もしていたりした。それだけの人気だったという事であるが、出演陣の熱演も凄いし、時間をかけてゆっくり楽しみたいと思う。

 それにしても『サンクチュアリ』もかなり面白かったし、Netflixのドラマはこれからも要注目であると思うのである・・・

Leandro De CarvalhoによるPixabayからの画像

【本日の読書】
言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦





2024年10月2日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その9)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、民可使由之。不可使知之。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、民(たみ)は之(これ)に由(よ)らしむ可(べ)し。之(これ)を知(し)らしむ可(べ)からず。
【訳】
先師がいわれた。「民衆というものは、範を示してそれによらせることはできるが、道理を示してそれを理解させることはむずかしいものだ」
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 コロナ禍以来、社会にテレワークが浸透している。我が社も例外ではなく、テレワーク社員がいる。しかし、テレワークに伴ってコミュニケーション不足の問題も生じており、我が社では先日、「新入社員にはテレワークをさせず、出社して教育しながら仕事をさせよう」という事になった。役員会での正式決定である。そういう大方針が決まれば、あとは個々の社員についてうまくやるだけとなる。当然、それに伴って問題は生じるのかもしれないが、それは言ってみれば「小問題」であって、根本方針を変えなければならないような「大問題」ではない。

 ところが、いざ現場に方針を示達すると、まず管理職から疑問が呈された。「〇〇の場合はどうするのか?」といった類の問題である。新入社員に出社させるとしても1人だけ出社させても意味はない。上司なり先輩なりも出社して指導する必要がある。さらに対象を2〜3年目の若手に拡大させようとなったら、「在宅勤務の者を出社させるにあたって生じる問題」が出てきた。それらの問題を列挙しつつ、疑問を呈してくる。そこでその管理職に「若手に在宅勤務をさせる事に反対の理由を述べよ」と告げたところ、「反対ではない」と言う。むしろ賛成だと。

 その答えを聞いて何とも脱力感に見舞われてしまった。基本的な大方針に反対でないならあとは実行のみである。現場を預かる管理職であれば、現場で生じる細々とした「小問題」については自力で解決すべきである。少なくとも私はそう考えるし、そう考えてきた。それが自分の裁量であり、自分の責任で決定、解決できる範囲である。一々上司にお伺いを立てるとなると、それは自分の決定権を放棄する事になり、そんな状況で仕事をしても面白くないだろうと思う。仕事は自己決定権の範囲が大きいほど面白いものである。

 私はもともと自立心が強かったためか、自己決定権をとにかく広げたいと思う方であった。だから推進すべき大方針が決まったならば、それに沿って進む中で生じる小問題は自分で決定、解決するのが当然だと思うし、そのくらいの裁量すらもらえないのであればやる気も出ないタイプである。なので件の管理職の問題提起には唖然とさせられたのである。もちろん、人によって考え方は異なるであろうが、管理職であれば小問題は自分の裁量で解決してもらいたいと思わざるを得ない。

 一つ一つ「この場合はこうせよ」と範を示して教える事は可能であるが、忙しい中ではそのくらいは権限移譲してやってもらいたいと思う。範を示すことは可能であるが、「考え方」を理解してもらいたいと思わざるを得ない。「考え方」はなかなか指導が難しい。まさに先師の言われる通りである。確かに範を示してもらえれば、理解は早い。スポーツの世界でもそれは顕著である。お手本となる人が目の前でプレーを見せてくれると、理解も早い(それを上手に真似できるかという問題はあるが・・・)。

 私も10年ほど前にラグビーを再開させた時、若い頃やっていたフォワードからバックスへとポジションを転向した。今も日々是改善である。チームにはコーチがいるわけでもなく、自分でスキルを身につけないといけない。ワールドカップや国内の一流チームの試合を観ては参考にしているが、難しいのは表面的に真似しても根本的な考えが理解できていた方が応用がきくというところである。ちょっとしたプレーであればコツがわかれば何とかなるが、大局的な考え方が理解できていると判断も早くなっていいのにと思う(なかなか難しい)。

 道理が理解できれば自分で判断できるようになる。一々「ここはこうする」と教えなくてもできるようになる。いわゆる阿吽の呼吸というのもこれにあたると思う。同じ役員間でも、共通の考え方ができている役員とは話も早い。まず目指すべきは考え方(=道理)の理解というところであるのは、現代でも変わらぬ真理なのかもしれない。先の管理職については、考え方の理解に及ぶまで根気強く範を示さないといけないのかもしれない。それならそれで、根気強くやりたいと思うのである・・・


AlexaによるPixabayからの画像


【本日の読書】
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