2024年7月28日日曜日

臓器売買は本当に悪なのか

Mine! 私たちを支配する「所有」のルール - マイケル ヘラー, ジェームズ ザルツマン, 村井 章子

 『Mine! 私たちを支配する「所有」のルール』という本を読んだ。面白い着眼点の本で、言われてみれば確かにその通りだが、そんなことは考えてもいなかった「所有権」にまつわる様々な問題が挙げられている。どの事例もそれぞれ興味深く、その根底に「所有/所有権」にまつわる問題があることがわかって面白かった。ただ、その中には深く考えさせられる問題もあった。それは自分の身体に関するもの。自分の身体は自分のものであるが、では自由にできるのか。そしてその一例として臓器売買が挙げられる。

 臓器売買は世界のほとんどの国で禁止されていて、公認されているのはイランくらいらしい。我々の感覚でいけば当たり前のようであるが、髪の毛は自由に売買できるが、なぜ臓器はダメなのか。かつて血液も売ることができたが、今は禁止されている。その理由は「命に関わるから」であろう。髪の毛は切ってもやがて生えて元に戻る。切ることは簡単で命の危険もない。しかし、臓器は手術のリスクがあるし、摘出後に健康を害する可能性もある。だから禁止するのもよくわかる。

 血液も同様で、適度(3ヶ月間隔で200〜400ml)であれば献血は認められているが、無償である。これも多過ぎれば命のリスクがある。そして売血を認めると、お金に困った人が命のリスクを顧みずに献血に走る可能性もある。2015年の韓国映画『いつか家族に』は、主人公がまわりが止めるのを無視して、家族のために限度を超えて売血する姿が描かれる。おそらく売血が可能となれば、金に困った人たちを中心に売りに行く人間はかなりいると思う。生活のためもそうだが、小遣いに不足するサラリーマンもかなり行くかもしれない。

 臓器売買が禁止されるのはよく理解できる。よくヤクザが絡む物語では、金を返せない相手に「臓器を売れ」と迫るのはよくあるストーリーだし、闇金なんかが金を返せない債務者にそんな返済方法を迫るのも容易に想像できる。しかし、『Mine! 私たちを支配する「所有」のルール』では思ってもみなかった世界の現実が紹介される。それは臓器売買が禁止されるアメリカでは、年間43,000人もの人が移植が間に合わずに亡くなっているのに対し、認められているイランではなんと0だと言う。

 考えてみれば、売る方に着目してばかりだと気づかないが、売った先には助かる命があるというのも事実である。もちろん、借金の取り立てに本人の意思に反して売らされるのは論外だが、自主的に売ってもいいと思うのも禁止すべきなのだろうかと思う。事実、先の本では住宅ローンを返済するために深夜労働などの重労働を強いられるよりも、臓器を売って楽に過ごせるならその方がいいのではないかという疑問も投げかけられる。

 考えてみれば、血液だって戦後の混乱期ならまだしも、今であれば厳格な本人確認と記録化によって安全に売血できる仕組みは作れるだろうし、そうすれば売る人も増えて血液が足りなくて必死に呼びかける必要もなくなるように思う。問題があるとしたら、私も今不定期に献血を行なっているが、売血と見られると嫌なので足が遠のくだろうと思うので、そういう献血者が減るかもしれないという危惧だろうか。

 ただ、臓器が買えるようになった場合、うまく仕組みを作らないと、「金持ちだけが助かる」という事態を招くことになるかもしれない危険がある。うまい具合に供給が需要を上回れば問題がないかもしれないが、そうでなければお金のない者が臓器移植のネットワークから弾き出されてしまうかもしれない。これは真剣に考えないといけないところである。ただ、頭からタブー視して議論もしないという態度ではなく、どうやったら問題なくできるのかを考えてもいいようにも思われる。

 売る側の倫理的な問題からだけではなく、「助かる命」という視点からも考えるべきではないかと思うのである・・・


StockSnapによるPixabayからの画像

【本日の読書】
リーマンの牢獄 - 齋藤栄功, 阿部重夫





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