2024年7月25日木曜日

論語雑感 泰伯第八 (その4)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
曾子有疾。孟敬子問之。曾子言曰、鳥之將死、其鳴也哀。人之將死、其言也善。君子所貴乎道者三。動容貌、斯遠暴慢矣。正顏色、斯近信矣。出辭氣、斯遠鄙倍矣。籩豆之事、則有司存。【読み下し】
曾(そう)子(し)、疾(やまい)有(あ)り。孟敬(もうけい)子(し)之(これ)を問(と)う。曾(そう)子(し)言(い)いて曰(いわ)く、鳥(とり)の将(まさ)に死(し)なんとする、其(そ)の鳴(な)くや哀(かな)し。人(ひと)の将(まさ)に死(し)なんとする、其(そ)の言(げん)や善(よ)し。君(くん)子(し)の道(みち)に貴(たっと)ぶ所(ところ)の者(もの)三(さん)あり。容貌(ようぼう)を動(うご)かしては、斯(ここ)に暴慢(ぼうまん)に遠(とお)ざかる。顔(がん)色(しょく)を正(ただ)しては、斯(ここ)に信(しん)に近(ちか)づく。辞気(じき)を出(いだ)しては、斯(ここ)に鄙(ひ)倍(ばい)に遠(とお)ざかる。籩豆(へんとう)の事(こと)は、則(すなわ)ち有(ゆう)司(し)存(そん)す。
【訳】
曾先生が病床にあられた時、大夫の孟敬子が見舞に行った。すると、曾先生がいわれた。
「鳥は死ぬまえに悲しげな声で鳴き、人は死ぬまえに善言を吐く、と申します。これから私の申し上げますことは、私の最後の言葉でございますから、よくおきき下さい。およそ為政家が自分の道として大切にしなければならないことが三つあります。その第一は態度をつつしんで粗暴怠慢にならないこと、その第二は顔色を正しくして信実の気持があふれること、その第三は、言葉を丁重にして野卑不合理にならないこと、これであります。祭典のお供物台の並べ方などのこまかな技術上のことは、それぞれ係の役人がおりますし、一々お気にかけられなくともよいことでございます」

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 普段、自分が死ぬことなど考えることはないが、それでも何となく死ぬ時までにやっておいた方がいいなと思う事はある。曾先生のように死の間際に子供たちを枕元に呼んで思いの丈を語るというのも悪くはないが、自分はみんなに看取られて死ぬよりも人知れずひっそりとというのがいいと考えている。よって言いたい事は事前に伝えておきたい。そうすると、遺言という言葉が頭に浮かぶが、遺言と言うと財産の分配というイメージが強い。そういう意味での遺言はたぶん残さないだろう。

 子供たちに伝えたい事は、自分が今まで生きてきて学んだ事だろう。社会の中で生きていく上での考え方である。ただ、それも死の間際にまとめてというよりも、今から少しずつという風に思う。やはり曾先生の言うように「死ぬ前に善言を吐く」というのは自分にはあたらないだろう。善言ではないが、死に際して言い残すとしたら、自分の葬儀とか供養とかそういうものになるだろう。それであれば、忘れずに言い残したいと思う。

 まずは葬儀であるが、近親者だけでいいし、何より仏教式でなくていいという事は強調したい。もとより仏教徒ではない。なのに死んだときだけ急に仏式にする必要はない。よってお坊さんを呼んでお経をあげてもらう必要はない。生きている時に聞いてもわからないお経を死んでからあげてもらっても嬉しくもない。お釈迦様に弟子入りするつもりもないので戒名もいらない。今は簡略化して同時にやる初七日も四十九日の法要も必要ない。葬儀は自由形式でいいし、供養ならそれぞれ心の中で思ってくれるだけで十分である。

 葬儀に関しては、みんなどうしていいかわからないから無難な仏式にしていると思う。その時になって慌てて何宗だったか調べ、お寺を紹介してもらい、あたふたと葬儀社の人に言われるまま準備しているのをこれまで目にしてきた。家族が事前に準備するのもいかがかと思うから、ある程度は自分で(葬儀社を決めて打合せをするとか)準備しておきたいと今は思う。仏式でやらないとすれば、どうすればいいかと戸惑うだろうから、そのあたりも考えておかないといけない。

 墓は両親が故郷の長野県に自分たちのために用意しているところがある。小さな墓所だが、そこでいいと思う。家族が(特に妻が)どうしたいかは妻が決めればいいこと。一緒でなくてもいいと思っているので、そこはいずれ話し合いだろう。長野県は遠いが、墓参りも不要だと考えているので気にしない。それも言い残すことになる。供養は心の中で思ってくれればいい。どうせ墓には私の骨しかないし、本人たちが骨に意味があると思えばくればいいが、来なくても恨みはしない。

 私は人間は死んだらそこで消滅して終わりだと考えている。だからこの世に私の霊魂は残らないし、墓には骨があるという以上の意味はない。墓に来るという行為が何かの意味を持っているなら、わざわざ時間をかけてくるのも意味があるだろうが、私に悪いと思うだけならそれは無用だと伝えたい。死者を悼むのであれば、それは体を動かす事ではなく、心の中で思うだけで十分なのである。納骨を済ませれば、あとは時折私の事を思い出すだけで自分たちの生活を優先してくれればいいと考えている。

 自分の葬儀では、義務感で来てほしくはないなと思う。実は私は人の葬儀に参列するのがあまり好きではない。最後になにか話ができるのであればともかく、死顔を見たいとは思わないからである。それは裏を返せば自分も見られたくないという事であり、「お世話になったから」とか、そういう感覚で来てほしくはない。ただ、生前に挨拶状か挨拶文を作っておき、死んだら息子にそれを投函または投稿してもらいたいとは思う。そこでお世話になった人に自らの言葉でお礼を伝えるのである。死者からのお礼状というのも面白いと思う。

 曾先生の言うように死ぬ前に善言を吐くよりも、生きている間に善言は伝えておき(あれば、だが)、死んだ後の事は上記の通り伝えたいと思う。それが私の遺言と言えば遺言と言えるものである。唯一の不安と言えば、認知症であろうか。そんな思いもすべて忘却の彼方に行ってしまったら意味はない。意識のしっかりしている間にやっておきたいと思うのである・・・


keesluisingによるPixabayからの画像

【本日の読書】
リーマンの牢獄 - 齋藤栄功, 阿部重夫





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