2020年8月3日月曜日

勉強をする意味

中学3年の長男は受験生。週4回塾に通い、一生懸命勉強している。「言われたからやる」のではなく(もちろん母親に言われているのは事実だが)、何より自分で進んで勉強しているところがいいと思う。我が身を振り返ってみても、中学3年の時にどのくらい勉強していたかは覚えていないが、よくやっていると思う。そんな我が息子を見ていて、今やっている勉強は果たして将来どんな役に立つのだろうかと改めて考えてみた。今現在からこれまでの人生を振り返って見て、改めて思う勉強することの意味である。

1つには、人類が長年かかって蓄積してきた知識の習得という意味があるだろう。昔は一部の特権階級のものだったものを今では国民全員が義務教育で受けられる意味は大きい。人間が他の動物と違うところは、世代を越えて知識を受け継ぐことができることである。かつては地球が太陽の周りを回っているなどとは誰も思わなかったのに、今では小学生でも知っている。様々なスポーツをわずかでも経験し、絵を描き、楽器を演奏しとそういう経験を一通り積める意義は大きい。

それ以外の大きな意味は、「トレーニング」であると思う。将来、社会に出た後に目の前に現れる「問題解決のためのトレーニング」である。国語や数学や理科・社会といった個々の科目の知識ではなく、それらを学ぶ過程で身につけるスタンスのトレーニングである。問題に対峙した時、「どうやったらこの問題を解決できるだろうか」と考えて解決策を導く力を養成するためのトレーニングである。特に高校までの勉強はこの意味が大きいと思う。

これに対して、大学の勉強は一部の専門的なものを除けば社会に出ても直接的には役に立たないが、「問題解決に役立つ教養」にはなると思う。私も法学部を卒業したが、弁護士にはならなくても法律の基礎知識はこれまでも、また現在でもそれなりに役に立っている。法律の基礎知識があるから、法的問題に関して弁護士に意見を求める時に、質問のポイントを押さえることができるし、言われるがままに納得するのではなく、なぜそう思うのかと深く追求することもできる。学んだだけ役に立っている。

そんな大学での「教養」も高校までの基礎トレーニングがあってこそ役に立つ。高校までの勉強は、言ってみればスポーツにおける走り込みみたいなものだと思う。ラグビーもサッカーも走り込んで走力をつけることは大事だが、走り込みだけやっていてもラグビーは上手くなれない。走力がついた上で、それぞれのスポーツに必要な力を習得していかないといけない。けれどそういう力を習得しても、走力が弱ければ試合で活躍ができない。学校できちんと勉強をした人は、少なくとも走力は身につけられていると思う。

そんな基礎トレーニングたる勉強の中核をなすのが国語と数学だろう。問題を解決するためには、何より論理的な思考が必要になる。相手が何を言っているのか(作者の言いたいことは何か)、問題点は何か(問題把握)、要はどういうことか(要約)、実は意外と論点を外した議論をする人は多い。論点が外れていれば、問題の核心を捉えられない。そしてその問題点に対して、どういう筋道で解決策を考えるのか、己の持っている知識を総動員して、あるいは知識がないならどうすればそれを得られるのかを考え、答えまでの道筋を考える。数学の論理的な思考力が役に立つところである。

数学は理系科目の筆頭であるが、実は論理的な思考力を鍛える科目である。私の卒業した国立大学は、文系大学のくせに二次試験4科目での配点は数学が4割を占めていた(残りは英語が4割、社会と小論文が1割ずつ)。当時は「文系のくせにおかしい」と思っていたが、今ではその理由がよくわかる。問題点を把握し、身につけた知識を総動員して解法を導き出す数学の論理力は、社会学を専攻する大学だからこそ求められる能力である。

それ以外の科目は教養的要素が強いが、知的好奇心を刺激したり、知識を蓄積しそれを応用して問題を解いたり、仮説を立てて検証する作業などはみんな基礎トレーニングなのだとわかる。トータルして「考える力」と言うこともできると思うが、こうした考える力は、結局、学校の勉強を通じて(それとは知らずに)身につけるものだと思う。社会に出ても、「言われないとできない(やらない)」と言う人は多い。「考えてやれ」と言っても、それができない。明らかに走力不足である。

「考えてやれ」と言われれば、「考えてます」と言ってその実考えているように見えない人は、その考え方が間違っているのである。多いのはなんとなく頭の中でモヤモヤ思っているだけで、論理的思考になっていないというもの。そういう時は、順番に質問して行くと(論理的に導いてやると)答えにたどり着けたりする。根底には「好奇心」もあるかもしれない。クイズを出されると、すぐに諦めるのと、解いてやろうと一生懸命考える「好奇心」である。この「好奇心」があると、勉強もゲーム感覚になり、面白さから一生懸命こなしたりする。

もっともそうした基礎トレーニングをこなして優秀な成績を修めて社会に出ても、組織の中で使い方を間違えるのも多い。問題解決に当たって「組織としてどうするべきか」よりも「上司がどう思うか」に主眼を置いたり、要は大組織の中での力学で考える方向を間違ってしまうのである。だから国家公務員や大企業のエリートであっても、せっかくの能力を使う方向を間違えてしまう。「忖度」などその最たるものだと思う。私も「部長がどう思われるか」ばかりを気にする課長に仕えたことがあるが、そんな残念な上司になってしまう。

 こんな「勉強=トレーニング論」は小学生には難しいかもしれない。しかし、中学生くらいになればわかるのではないかと思う。日々受験勉強に励む我が息子であるが、折に触れそんな話を一度してみたいと思うのである・・・


klimkinによるPixabayからの画像 


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