2020年8月12日水曜日

考える葦

  先日、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの『新実存主義』を読んだ。人間の脳と心は別と主張する内容で、それまで「脳=心」と考えていた私にはちょっと新鮮な考え方であった。ガブリエルは脳と心の関係を「自転車とサイクリング」にたとえている。つまり、「自転車(脳)がなければサイクリング(心)はできないが、サイクリングは自転車ではない」と。なるほど、わかりやすい喩えである。そこで考えた。「心とは何であろうか」と。

 

そもそもであるが、「心」があるのは人間だけだろうかと思う。動物には心があるのだろうかと。一見、なさそうに思えるが、実家の猫は両親には慣れているが、たまに行く私の顔を見ると逃げていく。明らかに人間を個別に見分けているわけであり、「逃げていく」というのは、「危険あるいは要警戒」と判断したのか、「恥ずかしい」と感じたのかいずれかであろうと思う。いずれであろうと、その行動からは「心」のようなものが存在するのではという気もする。

 

それはともかく、一部の動物が「知能」を持っているのは間違いない。様々な「学習」をして餌を効率的に獲ったり、芸をして人間を楽しませていることからしてもそれは明らかである。では、そんな動物たちに「心」はあるのだろうか。その前に「心」をどう定義するかという問題があるが、「心」とは「感情」かもしれない。好きとか嫌いとか、何か目標のために頑張ろうと思うとか、映画を観て、あるいは本を読んで感動したり、誰かのために何かをしたりとか。動物には「餌を得る」という損得「勘定」はあっても「感情」はない気がする。

 

もっとも、実家の猫はよく外でネズミや雀やヤモリなんかを捕まえてくるそうで、それを食べるでもなく、家の中に持ち込んでは、母曰く「見せに来る」らしい。それが母にプレゼントしようという意図なのか、「ほらほら見て見て!」と言いたいのかはわからないが、そうだとしたら「感情」があるとも言える。動物を飼っている人なら、動物にも心はあると思うのではないかと思う。もっとも、本当のところは誰にもわからない。もっと高度な知能を有する猿とかだったら、何となくあるようにも思えるが、あるとしても原始的なものかもしれない。

 

そもそも人間はいつから「心」を持つようになったのだろうか。人間の心が、動物の心とは明らかに違うとして、その「心」を持つに至ったのはいつからなのだろうか。ネアンデルタール人やクロマニョン人らの原始人類から進化してホモサピエンスになるどこかの過程であることは間違いない。それがいつなのかはわからないが、1つのキーワードとして考えられるのが、「言葉」なのではないかと思う。人は言葉によって己の感情を表現する。あるいは頭の中で思考するにしても「言葉」を使って思考する。この「言葉」の力は大きいと思う。

 

私はクリスチャンではないが、「はじめに言葉ありき」(ヨハネによる福音書)という言葉は、聖書の中でももっとも真理を表している言葉ではないかと思っている。言葉こそが人を人たらしめているものであり、動物との違いをもたらすものだと考えている。ひと昔前に狼に育てられた子供なんてのが話題になったが、当然言葉はしゃべれないし、その行動は野生動物そのものだったという。おそらく言葉がなければ人間は今も猿といい勝負だったのではないかという気がする。

 

人間は生まれてから育てられる環境で人になっていく。言葉を教えられなければ感情も猿に近いものしか持ちえないだろう。それこそ本能(食欲、睡眠欲、性欲等)に従った行動は取れるだろうが、お互いに複雑な感情を伝えあったり(好きだけど嫌いとか)、大義のために身を捧げたりというような行動はできないに違いない。言葉があるからこそ、想像の翼も伸ばせるものだという気がする。自転車で言えば、「ペダル」に当たるのが言葉と言えると思う。

 

初めは原始的な感情から始まったのかもしれない人間の心。それが言葉を育むことによって豊かに育てられ、動物とは異なる現代人の心へとつながったのではないかと思う。始めは跨るのに精一杯だったのが、しっかりとペダルを漕いで、やがてサイクリングができるようになっていったというイメージである。そんなことを考えられるのもまた言葉があってこそである。試しに言葉を使わずに考えてみようとしてみたがうまくいかない。言葉=思考であり、思考=心であると思う。

 

 いろいろと考えてみると面白い。自分が果たしていつまで生きられるのかはわからないが、願わくば認知症にはなりたくない。いつまでも育んだ言葉によって自分の心を保っていきたいと思うのである・・・

MorningbirdPhotoによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 




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