2020年8月20日木曜日

本質を理解する

先日の事、会社で節税対策について議論した。今期は一時的に利益が出てしまう見込みであり、それに対してこれを機に含み損を抱えている不動産を関連会社に売却しようというものである。それによって含み損を解消するとともに、利益も圧縮できる(税金も圧縮できる)というもの。時期によってある時は含み益が出て、ある時は含み損が出る。トータルで見ればその凸凹が緩和されるが、一時的にアンバランスが生じる。トータルでは払わなくてもいい税金は払わないで済ませたいという考えである。

ところがそれに異を唱える意見が出た。いわく、「それは脱税ではないのか」と。それが「節税」か「脱税」かでしばし議論したのだが、議論は平行線。お互いに自分の考えを譲らない。とりあえずその場は、「脱税派」が「税理士意見を聞きたい」ということでこの議論は持ち越しになったが、改めてどちらが正しいのだろうかと考えてみることにした。自分の意見に頑固に固執するのは良くない。冷静なところで、客観的に考え直してみることにしたのである。

そもそもであるが、税金は「取られるもの」ではなく「納めるもの」である。国民が「正しく」申告し、納税する義務が憲法で定められている(第30条)。これに対し、「嘘の」申告をすることがすなわち「脱税」であり、これは「違法行為」である。売り上げを隠したり、架空の経費や損失を計上したりして利益を圧縮することである。これが悪いことであることは簡単に理解できる。

一方、「節税」はあくまでも適法な申告である。正しく売り上げを計上し、正しく経費を計上し、正しく損金を計上し、正しく計算された税金を納めるのである。しかし、「節税」の場合、「税務署に認められない」という可能性があるのである。正しく申告すればすべて認められるということはなく、「これは売り上げとして計上すべき」「これは経費としては認められない」ということはよくあり得る。これは違法行為ではなく、申告側と税務当局との「見解の相違」である。

これは仕方ないことである。認められなければ諦めるしかないし、諦められない、すなわち「税務署の見解の方がおかしい」と思えば裁判で争うことも可能である。『不撓不屈』という映画にもなったが、実在の税理士が国税局を相手取って自らの正当性を訴えて勝訴した事件も、やはり節税策を巡る「見解の相違」を争った事件である。税務署も必ずしも完璧ではないわけである。適法に堂々と申告するのに、何憚ることはないわけである。

弊社の考える売却損も認められない可能性はある。その場合は仕方ないのであきらめるしかない。裁判までやって自らの正当性を訴えるほどではない。この点、「脱税派」の人は理解ができていないと思われる。違法行為ならそもそもやってはいけないし、税理士もそれに加担することは許されない。しかし、適法行為なら構わないわけである。「(脱税行為とみなされるから)やめた方がいい」という指摘は的外れである。

これは納税制度の不理解と、脱税と節税とをごっちゃにしてしまっているからに他ならない。つまり不理解である。物事には本質をきちんと理解できていないと正しい理解には繋がらないことが多い。税務当局に指摘されるとしたら「節税策」の正当性と根拠である。「その取引には合理性があるのか」、「金額には客観性があるのか」、税務署から問われた時にきちんと説明できなければならない。もちろん、違法ではないので罪に問われることもない。最悪、否認されても本来払うべき税金を払うだけである。

 本質を理解できていないと議論はとんちんかんになる。しかも大概の場合、本質を理解できていない人にはそのおかしさに気がつかない。税理士に話を聞きに行っても、「脱税に当たらないか」と聞くのはおかしいし、「税務署に否認されないか」と聞くのもおかしい。脱税に当たらないことは税理士でなくてもわかる話だし、否認するかどうかは税務署の判断であって、税理士に答えられるのは「見込み」くらいである。

 私は性格的に筋道を立てて考えないと理解できないところがある。それゆえに本質にはこだわるし、「そもそも何が問題か」ということにも拘る。従って、本質や論点を外した議論になると理解できなくなるところがあって、それゆえに本質や論点は常に念頭に置くようにしている。だから気がつくのかもしれない。議論に勝つとか負けるとかにはそれほどこだわらないが、双方が本質をきちんと理解した上で同じ土俵で勝負したいとは思う。そんな風にいつも思うのである・・・


fscredy2018によるPixabayからの画像 
【本日の読書】
 



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