2010年7月8日木曜日

シーシェパード

昨日の事、同僚が帰ってくるなり「大変でしたよ」と報告してくれた。
彼は仕事で東京地裁に行っていたのだ(私もたまに行く)。
何が大変だったかというと、マスコミやら傍聴人やらでごった返していたらしい。
その人たちの目的はシーシェパードの船長だった。
昨日判決が言い渡されたこの裁判。
やっぱり世間の関心は高かったようである。

日本の捕鯨活動に反対して、これまでも過激な妨害活動を行ってきたシーシェパード。
自分たちこそ正義、そして正義であれば手段は正当化される、という考えはどうにもいただけない。
そもそも「正義」と言ったって、所詮は自分たちからの一方的な見方に過ぎない。
イスラム教徒の自爆テロだって、彼らからしたらアラーの思し召しにかなったジハードなのだ。

価値観というものは誠に厄介なものだ。
生まれも違い、育ちも違えば自ずと考え方も異なる。
自分には自分の価値観があり、正義があるのと同様、相手にもそれがあるという事に、実は気がついていない人は多い。シーシェパードも同様だ。

そのシーシェパードを支援するオーストラリア。
そのオーストラリアでは、カンガルーが毎年何千頭も殺されている。
我々にとっては誠に愛嬌のあるこの動物も、かの地では数が多すぎていろいろな害が出ているらしい。死んだ母親から胎児を取り出して踏みつぶす映像を見た事があるが、それで鯨を保護しろというのだからちゃんちゃらおかしいというものである。

一方、そういう観点から我が国の捕鯨活動を振り返ってみると、これだけの国際的な批判にさらされながらも、なぜ「調査捕鯨」を続けているのだろうと疑問に思う。
「調査捕鯨」しかしていないはずなのに、いまだに国内で鯨を食べられるのはなぜなんだろうという疑問が湧いてくる。しかも捕獲しているのは何百頭という数字だ。
何の調査か知らないが、そんなに毎年毎年何百頭も捕獲しないとできない「調査」なのだろうか。

それにそもそも鯨を食べないと生きていけないのかと言えば、当然ながらそうではない。
我が国には今、腐らせて捨てるほど食料が有り余っている。
鯨くらい食べなくったって平気だろうというものだ。
歴史的・伝統的な背景はあるにせよ、時代の流れや世界の中での立場を考えたら、そろそろなのではないかとも思う。

シーシェパードは確かにけしからんし、オーストラリアだってそうだ。
だが彼らには彼らの正義があって、それは我々の正義と同様尊重すべきものだ(ただ「やり方」は別だ)。本当に必要な調査ならこれからも続ければいいと思うが、ヒイキ目に見てもかなり怪しい感じがする。いっそのこと蓮舫さんに事業仕分の対象にしてもらったらどうだろうかと思ったりするのである・・・


【本日の読書】
「日本の復元力」中谷巌
「ぼんくら(下)」宮部みゆき
     
    

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