2021年10月18日月曜日

論語雑感 雍也第六(その4〜5)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子華使於齊。冉子爲其母請粟。子曰。與之釜。請益。曰。與之廋。冉子與之粟五秉。子曰。赤之適齊也。乗肥馬。衣輕裘。吾聞之也。君子周急不繼富。原思爲之宰。與之粟九百。辭。子曰。毋。以與爾鄰里郷黨乎。
【読み下し】
子華(しか)、斉(せい)に使(つか)いす。冉(ぜん)子(し)其(そ)の母(はは)の為(ため)に粟(ぞく)を請(こ)う。子(し)曰(いわ)く、之(これ)に釜(ふ)を与(あた)えよ。益(ま)さんことを請(こ)う。曰(いわ)く、之(これ)に廋(ゆ)を与(あた)えよ。冉(ぜん)子(し)之(これ)に粟(ぞく)五(ご)秉(へい)を与(あた)う。子(し)曰(いわ)く、赤(せき)の斉(せい)に適(ゆ)くや、肥馬(ひば)に乗(の)り、軽裘(けいきゅう)を衣(き)る。吾(われ)之(これ)を聞(き)く。君(くん)子(し)は急(きゅう)なるを周(すく)いて富(と)めるに継(つ)がず。原思(げんし)、之(これ)が宰(さい)たり。之(これ)に粟(ぞく)九百(きゅうひゃく)を与(あた)う。辞(じ)す。子(し)曰(いわ)く、毋(なか)れ。以(もっ)て爾(なんじ)の隣里(りんり)郷(きょう)党(とう)に与(あた)えんか。
【訳】
子華が先師の使者として斉に行った。彼の友人の冉先生が、留守居の母のために飯米を先師に乞うた。先師はいわれた。
「五、六升もやれば結構だ」
冉先生はそれではあんまりだと思ったので、もう少し増してもらうようにお願いした。すると、先師はいわれた。
「では、一斗四、五升もやったらいいだろう」
冉先生は、それでも少ないと思ったのか、自分のはからいで七石あまりもやってしまった。先師はそれを知るといわれた。
「赤は斉に行くのに、肥馬に乗り軽い毛衣を着ていたくらいだ。まさか留守宅が飯米にこまることもあるまい。私のきいているところでは、君子は貧しい者にはその不足を補ってやるが、富める者にその富のつぎ足しをしてやるようなことはしないものだそうだ。少し考えるがいい」
原思が先師の領地の代官になった時に、先師は彼に俸禄米九百を与えられた。原思は多過ぎるといって辞退した。すると先師はいわれた。
「遠慮しないがいい。もし多過ぎるようだったら、近所の人たちにわけてやってもいいのだから」
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 東北の震災時、被災地に救援物資を運んだ米軍ヘリパイロットの話を何かで読んだ記憶がある。着陸の時、そのパイロット(女性パイロットだったと記憶している)は、非常に緊張したらしい。というのも、多くの場合、着陸後に救援物資に人々が殺到して大混乱になるからである。ところが、パイロットの予想に反し、被災地の人々は礼儀正しく列を作り、必要な分だけ受け取ると次の人と変わり、混乱はかけらも生じることなく物資の配布を終えたと言う。その女性パイロットは非常に感銘を受けたらしいが、日本人的には特に不思議なエピソードではない。

 「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」とは相田みつをの名言であるが、まさにその通り。我々日本人の持つ美徳を世界に自慢したくなるエピソードであるが、現実には醜い事例もある。私の前勤務先の社長は、M&Aで会社を売却した。水面下で単独で話を進め、社員には突然「2ヶ月後に解雇」が通知された。退職金規定はなく、せめて支給しろと交渉し、何とか1人50万円の退職金を確保した。M&Aによって社長が手にした資産は数億円。大半の社員が勤続10年超であったが、そんな事情は一切考慮されなかった。もちろん、違法ではなくモラルの問題であるが、人目につかないところではそんなものである。

 他人のことよりも自分のことの方が大事なのは、ある意味当たり前である。そして人間は「もっともっと」という動物である。国際的なNGOオックスファムが2020年1月20日、ダボス会議に合わせて発表した最新の報告書では、「世界の富裕層の上位2,100人の資産が世界の総人口の6割にあたる46億人分の資産を上回る」とされたそうである。富める者が、「もう十分」と言うことなく、「もっともっと」と追求した結果であろうが、それが人間の本性なのだろう。むしろ、持たざる者の方が他人の不足を補おうとするところがあるのかもしれない。

 人間はもらう時にはおおらかになり、渡す時には渋くなる。「そんなにたくさんいただかなくても結構です」と言いつつ、「ではいらないものは他の人に」と言われて受け取ったとしても、一旦受け取ると今度はそれを手放すのが惜しくなる。かく言う私も、先輩にはよく奢ってもらうが、次の機会に友人との飲み会で割り勘負けすると何となく損した気分が抜けきれない。「奢ってもらった分を返したと思えばいいじゃないか」と無理やり自分を納得させるのだが、その都度、自分自身を「小さいな」と思ってしまう。

 地獄では亡者たちが鍋を囲んで食べ物を食べようとするが、箸が長すぎてなかなか食べられないのだと言う。天国でも同じように鍋を囲んで長い箸を与えられているが、人々は皆満腹だと言う。それは、天国ではお互いに食べさせ合っているからで、自分で食べようとする地獄との違いはそれだけなのであるが、それができずに食べ物を前にして飢えに苦しんでいるのだと言う。なるほど、よく考えたものであるが、こういうことは現実世界ではよくあるのだろうと思う。

 商売では「利他」の心と言われるが、まずはお客様を喜ばせ、そうすると利益は後からついてくるとされる。それで大成功をしているところがあるのであるが、現実的には目先の利益に走ってしまうことが多い。「利益が得られるなら奉仕しましょう」というわけである。「背に腹は変えられない」という事情もある。足元赤字で火を吹いていたら、とてもそんな余裕などないかもしれない。余裕のあるところはいいが、そうでないところが同じようにできるかは難しい。

 岸田新総理は、「成長と分配の好循環」を経済政策の柱に掲げて船出した。「社員の給与引き上げなどに取り組んだ企業への税制優遇」という話が伝わってきたが、はっきり言って我が社ではとてもそんなゆとりはない。そもそも税制優遇などと言われても、赤字企業には税負担はないので意味がない。「わけ合えばあまる」のはわかっているが、そもそもわけ合うものがあって初めて成り立つ話である。社員が、「では、わけてもらえるように頑張ろう」と思ってくれればいいが、そうでなければ不満だけが残るだろう。

 自分あるいは自分の身内がハッピーになることを望むのは、人間の本能的なところであり、それ自体非難すべきことではないと思う。ただし、それが「自分たちだけ」となると話が変わる。周囲にも目を配り、「バランスのとれたハッピー」であることが必要であろう。そんなことはみんな頭ではわかっていると思うが、実践できるかが難しい。よほど日頃から意識していないと無理であろう。そこで支えとなるのが、「賞賛」であるように思う。

 先の例で挙げた被災地の人たちの行動が、米軍ヘリパイロットの感動を呼んだように、利他の心は人の賞賛を招く。それは浴びれば心地良いであろう。現金とは違ってそれでモノは買えないが、その心地良さに価値を見出したらいいと思う。現状の自分の才覚では、残りの人生で億単位の資産を残すのはかなり難しい。しかしながら「賞賛」はいくらでも集められる。お金の足りない分は、この「賞賛」で代用すればかなりハッピーな人生を送れると思う。

 多額の報酬を得た時に、「多過ぎる」と言って周りと分かち合うような心のあり方をこれからは意識したいと思うのである・・・


【今週の読書】

  




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