2021年10月28日木曜日

神と信仰と宗教

  日本人は、初詣やお宮参りや厄除けに神社へ行き、キリスト教の教会で結婚式を挙げ、クリスマスを祝い、死んだらお坊さんに御経をあげてもらうという事を何の違和感もなくやれる民族である。多くの人が、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら、「無宗教」と答えるのではないだろうかと思う。少なくとも、クリスマスにケーキを食べながら、イエス・キリストの生誕を祝っている人はごく少数であろう。

 かく言う私の場合、「宗教は何か」と問われたら、「あえて言うなら神道」と答える。やはり毎年必ず初詣には行っているし、何かあれば神社へ行ってお賽銭を投げて手を合わせるだろうからである。なので「あなたは神様を信じますか」と聞かれたら、「信じる」と答える。信じていないのに神社に行って手を合わせるのもおかしな話であり、当然であろう。ではそこで「神様はいると思いますか」と聞かれたら、「いないと思う」と答えるだろう。矛盾しているように思われるかもしれないが、私の中ではきちんと整理されている。

どういうことか。

 神というものは人間の想像の賜物である。キリスト教で教えるように、人間の姿形をした神が天にましますなんて事はこの現代社会ではもはや信じられるものではない。神は、「人間がどこからきたのか」、「世界はどこまで広いのか」、「空の上はどうなっているのか」、全て想像するしかない空を飛ぶことのできなかった時代の空想の産物である。イエスの起こした数々の奇跡も後世の人のどこからか広まった話であろう。それなのに神を信じるというのはおかしいように思われるかもしれないが、「神は存在するかしないかではなく、信じることが重要」だという考えなのである。

 およそ人間は傲慢になりがちである。謙虚に生きていくには何か人知を超えたものがあったほうがいいと思う。それに「心の平安効果」というものがあるし、そういう意味で宗教の存在価値は大きいと思う。しかしながら一方で宗教の最大の問題は、人間による「都合の良い解釈」だろう。現代でも新興宗教と聞くといかがわしさの感情とセットになって聞こえてくるのは、教祖による「都合の良い解釈」で、信徒から資産を巻き上げたり、時として殺人までに及ぶ事例が枚挙にいとまがないからに他ならない。

 それは世界三大宗教も例外ではない。歴史を紐解けば神の名の下に行われた戦争は十字軍を筆頭に数限りなくある。神の御名の下に各地で虐殺が行われているのも然り。その理屈は「キリスト教徒にあらずんば人にあらず(だから人でない者には何をしても良い)」という「都合の良い解釈」である。「汝の敵を愛せ」と教えたイエス・キリストがこれを聞いたら何と言うだろうか。「汝の敵がキリスト教徒なら」という意味だったのかどうかは、ちょっと考えれば素人でもわかる。

 なぜ日本でキリスト教徒が弾圧されたのかと言うと、宣教師が侵略の尖兵になっていたからである。豊臣秀吉がキリシタン禁止令を出したのも徳川家康が鎖国政策を取ったのも、キリスト教国からの侵略を防ぐためである。それはキリスト教徒だけではない。イスラム教徒は、現代でも「ジハード(聖戦)」と言って神の名の下にテロ活動を行っている。仏教も例外ではなく、戦国時代は僧兵が力を持っていた。だから織田信長が弾圧したのである。そもそも仏教も、もともとは個人の解脱を目指したもので、今の仏教の姿を見たら始祖の仏陀もぶったまげる事だと思う。

 何事も都合よく解釈するのは人の常である。宗教も例外ではない。アメリカ合衆国はキリスト教国であり、大統領は聖書に手を置いて宣誓を行う。しかし、「汝の敵を愛せよ」という教えなど端から無視して、アメリカは世界中に基地を有して睨みをきかせ、ときに武力を行使して国益を追求している。「左の頬を打たれたら」なんて間違ってもやらない。それで合衆国大統領は堂々とキリスト教徒だと名乗っている。いろいろとやむを得ない事情はあるのだが、要は「神を信じてはいるが、教えは守っていない」という事である。

 ではそんな宗教などない方がいいのかと言うと、そうは思わない。真面目な信徒はやはりいるわけであり、イスラム教はよくわからないが、愛の宗教と言われるキリスト教の教えはやはり人の心を打つものがある。もしも、キリスト教徒がすべて教えをきちんと守るのであれば、世界は一気に平和になると思う。少なくとも世界に暴力をばらまいた白人がおとなしくなれば、世界は争いごとの少ないより一層住みやすいところになるであろう。せっかく優れた宗教があるのに、信仰が足りないのは誠に残念である。

 神社に参拝し、手を合わせて頭を垂れるのは気恥ずかしい気がするが、だからこそいいのかもしれない。心を落ち着けて静かに頭を垂れるという行為が誰に取っても必要であるように思う。私も傲慢にならないように、そして謙虚に生きられるように、毎年初詣は欠かさないようにしている。神道は信者に何かを求める事はなく、何かをせよと要求することもない。道端の草にも神が宿ると教えるから、自然に対しても敬虔な気持ちを持たなければと思わせてくれる。実に優れた宗教であると思う。

 日本人は、せっかくこんなに優れた宗教があるのであるからもっと宗教心と信仰を持ってもいいと思う。神様がいるとかいないとかは問題ではない。いると思えば良いわけである。そしてそういう気持ちこそが、社会の中でうまくやっていく事を可能にしてくれるように思う。これからも神を信じて、信仰を持って生きていきたいと思うのである・・・


Germán RによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

   




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