2021年10月24日日曜日

器用貧乏

 「器用貧乏」という言葉を聞くと、どうにも反応してしまう。「器用貧乏」とは、「なまじ器用であるために、あちこちに手を出し、どれも中途半端となって大成しないこと」というような意味として知られている言葉である。なぜそんな言葉に反応してしまうのかと言うと、なんとなく自分の事のように思えてしまうからである。私はかなり器用な方であると思う。比較的なんでもそれなりの程度ではあるがこなせてしまうところはある。だが、「突出してできる」というものがない。

 小中学校の頃は、勉強といえば、「オール3+α」と言う感じであった。どの教科もそれなりにできるが、学年一番とか、そこまでいかなくてもトップクラスというような尖ったものがない。スポーツも大概のものは何となく上手くできるが、トップレベルとまではいかない。少年野球のチームに所属していたが、ポジションはファーストで打順は2番。当時「ライパチくん(ライトで打順は8番)」と呼ばれた「おミソ」ほどではないが、「エースで4番」とも遠い。そんな感じである。

 高校に入ってラグビーを始めたが、弱小チーム内では中心にいたが、大学に入って競争が激しくなると3年になるまでレギュラーにはなれなかった。レギュラーになっても、ちょっと強いチームと対戦すると、自分より上かもしれないと思われる選手がゴロゴロいた。銀行に入った時はそれが顕著で、とうとうレギュラーにはなれなかった。ただ、社会人は出席率が悪く、フォワードからバックスまでどこのポジションでもそれなりにこなせた私は、いろいろなポジションで試合には出られたのである。

 ラグビーは16歳から初めてもう40年以上であるが、今だに自分がうまいとの確信が持てずにいる。ただでさえ、肉体的な衰えを感じ始めているから尚更である。うまいという確信が持てない理由は、「コーチができない」という事と、「プレーの解説ができない」という2点で特に感じる。両方とも煎じ詰めれば同じことかもしれないが、ラグビーに対する理解度が足りないから、プレーの解説ができず、人に教えることもできないのである。

 就職した銀行でも出世できなかったのは、1つには人付き合いが下手だったということもあるが、突出したものがなかったということもあるのではないかと思ってみたりする。されど、能力がないというわけではないので、転職した中小企業のような人材層の薄いフィールドでは活躍できるのである。チームレベルが下がれば(高校時代のチームのように)、そこそこ中心として活躍できるが、上がれば途端に埋もれてしまうといったところなのかもしれない。

 私の父は、かつて中学校時代、なぜかローマ字が得意だったそうである。そのレベルは学年一番のレベルで、学年で一番成績の良かった同級生がローマ字だけは父に聞きに来たそうである。今でも当時を懐かしみながら、そして得意げに語る父であるが、私にはそういうものがない。大学時代も1コマ90分の講義を週12コマ出席していたが、「A」は数えるほどしかなかった。週にせいぜい5コマくらいしか出席せず、あとは情報を駆使して出席率だけで評価してくれる優しい教授の講義を取り、「出席したことにして」、Aを集めていた同期からは今だに笑われる私である。

 いろいろなものをそつなくこなすが、突出した得意分野も持つ「器用富豪」には憧れを感じざるを得ない。ただ、それはなかなか叶わぬ夢的なところがある。だとすると、何がいいかと考えると、器用貧乏もそれなりに良いように思う。どこのポジションでもそつなくこなせたから、レギュラーメンバーが来られない試合では代わりに出場できたのである。それはそれで面白い経験である。人によっては「ここしかできない」という人もいるわけで、それはそれで良いのではないかと思う。

 「鶏口となるも牛後となるなかれ」ではないが、小さな組織ではどこでも卒なくこなせるのは1つの特技かもしれないと思う。今は財務兼人事兼総務部であるが、「財務のスペシャリストだが人事はダメ」よりも組織の役には立っていると思う。「そこそここなせる」というのも大きな持ち味だとも言える。何よりも自分はそうであるのであり、嘆くよりも慣れろで良いのではないかと思う。本当の貧乏になってはかなわないが、器用な自分をこれからも愛していこうと思うのである・・・


OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
  



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