2021年10月3日日曜日

論語雑感 雍也第六(その3)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
哀公問。弟子孰爲好學。孔子對曰。有顔回者好學。不遷怒。不貳過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好學者也。
【読み下し】
哀公(あいこう)問(と)う、弟子(ていし)、孰(たれ)か学(がく)を好(この)むと為(な)す。孔(こう)子(し)対(こた)えて曰(いわ)く、顔回(がんかい)なる者(もの)有(あ)りて、学(がく)を好(この)みたり。怒(いか)りを遷(うつ)さず、過(あやま)ちを弐(ふたた)びせず。不(ふ)幸(こう)短命(たんめい)にして死(し)せり。今(いま)や則(すなわ)ち亡(な)し。未(いま)だ学(がく)を好(この)む者(もの)を聞(き)かざるなり。
【訳】
哀公が先師にたずねられた。
「門人中で誰が一番学問が好きかな」
先師がこたえられた。
「顔回と申すものがおりまして、たいへん学問が好きでありました。怒りをうつさない、過ちをくりかえさない、ということは、なかなかできることではありませんが、それが顔回にはできたのでございます。しかし、不幸にして短命でなくなりました。もうこの世にはおりません。顔回なきあとには、残念ながら、ほんとうに学問が好きだといえるほどの者はいないようでございます」

************************************************************************************

 勉強は好きかと問われたのならば、「好きだ」と迷わず答える。いつの頃からかは覚えていないが、これまで勉強が嫌いだと思ったことはない。そう言うと何やら優等生的であるが、嘘偽らざる気持ちである。それは「良い子しよう」というあざとい考えではなく、「純粋に学ぶことが好きだ」ということである。ここで勉強とは何かと定義するならば、それは学校の教科に限らず、広く「自分の知らないもの一般」ということになる。とどのつまり、勉強好きとは、「知らないものを知りたいという好奇心」と言える。

 学校の勉強もすべてが好きというわけではなかった。音楽は苦手だったし(いまだに音符は読めない♪)、高校時代は唯一化学で赤点を取った。しかし、それ以外は概ね好奇心を元に抵抗感なく取り組めていた。もっとも、受験勉強だけは苦痛で、1日10時間のノルマを己に課した宅浪時代は、終わった瞬間「もう二度と浪人は無理」だと思ったほどである。受験というのは(資格試験も含めて)、勉強の本質とはちょっと違うような気がする。純粋に学びたいという気持ちをそれは満たすものではない。

 娘が高校を卒業した時、いらなくなった教科書を譲り受けた。もう一度高校の勉強をやり直してみたいと思ったからである。譲り受けた教科書は、「国語(古典を含む)」「数学(A・B、I〜III)」「物理」である。歴史や地理など社会科系はもう十分という感じだし、それ以外はあまり触手が動かなかったのである。以来、暇を見つけては(なかなかその暇がないのであるが)少しずつ読んだり問題を解いたりしているが、面白いなと改めて思う。この「面白い」というのが学びたいという気持ちと裏表なのだと思う。

 大学は法学部に進んだが、専門教科の法律以外にもいろいろと講義に顔を出した。教養課程では他学部の科目も取らなくてはならなかったこともあって、変わったところでは「文化人類学」などという講義も取っていた。内容は忘れてしまったが、もう一度取ってみたいという気持ちは今でもある。今、もう一度大学に入ることができるのであれば、迷うことなく「哲学」を選択すると思う。これは今でも好きでよく本を読んでいるが、やはり本格的に理解するには、独学では無理があり、専門的に教えてもらう必要があると思うのである。

 哲学は難しいが、その難しさの向こう側にちらほら見えているものに非常に興味をそそられるのである。先日『善の研究』を読んだが、やはり通り一遍だとよくわからない。解説書などを片手に持ちながら読む必要があると感じている。さらに今は『意志と表彰としての世界』に挑戦中であるが、読みこなせるかはちょっと不安である。日本語だから表面上書いてあることはわかるのであるが、そこに込められた本当の意味を理解しているかと問われると心もとないのである。これも「面白い」という気持ちがすべてである。

 学生時代、勉強するのはそれが義務だからという点を除いては、卒業資格を得るためだけに、突き詰めると試験のために勉強しているようなものである。中間、期末と試験があり、小中学はともかく、高校では一定の成績を収めないと進級または卒業ができない。入試に受からなければ高校にも大学にも入学ができない。その後も社内資格や国家資格などのために人は勉強する。およそ勉強とは「試験のため」であると言える。だが、それでは(それだからこそ)勉強なんて楽しくはないと思う。勉強とは己の知的好奇心を満たす遊びだと思う。

 学生時代は、試験のために勉強せざるを得ない。そこでは好きなことだけやっていればいいというわけではない。つまらない授業にも出ないといけないし、一定の成績を取らなければいけない。卒業しても、昇格のためにあるいは仕事を有利に進めるべく、社内外の資格を取るために勉強する。それは純粋なる好奇心とは程遠く、義務感に狩られたものである。だから面白くない。「勉強が好き」などと言うと、好奇な目で見られたりする。だが、本来勉強というものは、己の知的好奇心を満たすためにやるものだと思う。車の速度を算出するのに微分積分が利用されていると知った時の感動は、映画や小説を読んで感動するのと変わらない。

 今、何か資格を取る必要に追われているわけでもなく、時間さえあれば(これがネックである)好きなことを学ぶことができる。これは実に幸せなことである。「しなければならない」ものはなく、「することができる」幸せ。数学も娘からもらった教科書(なぜかどれもきれいなのが良いのか悪いのか複雑な気持ちではある)を終えたら、その上の純粋数学を学んでみたい気もするし、『スミルノフ高等数学教程』シリーズにも手を出してみたい気もする。朝からスタバに行ってコーヒーを飲みながら、数学の世界に没頭するなんて贅沢な日々を送れたらこの上なく幸せ感に浸れると思う。

 勉強とは、本来かくあるべきものだと思う。それを義務化するから苦痛に感じる。勉強と言うと大半の人は反射的に顔を背けたくなると思うが、それはとても残念なことだと思う。おそらく、顔回という人は、そういう学問好きだったのではないかと思う。自分も顔回ほどとはいわないが、そこそこの勉強好きである。社会人として自分と家族の生活を支えていくために仕事を優先しなければならないのは当然であるが、余った時間を映画や読書やスポーツやその他諸々の「やりたいこと」に振り分け、少しでも勉強に割きたいと思う。「勉強できる幸せ」を味わいたいと思うのである・・・


Foundry CoによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

  



0 件のコメント:

コメントを投稿