2020年11月15日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その8)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
子謂子貢曰。女與回也孰愈。對曰。賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。子曰。弗如也。吾與女弗如也。

【読み下し】
子(し)、子(し)貢(こう)に謂(い)いて曰(いわ)く、女(なんじ)と回(かい)と孰(いず)れか愈(まさ)れる。対(こた)えて曰(いわ)く、賜(し)や、何(なん)ぞ敢(あ)えて回(かい)を望(のぞ)まん。回(かい)や一(いつ)を聞(き)いて以(もっ)て十(じゅう)を知(し)る。賜(し)や一(いつ)を聞(き)いて以(もっ)て二(に)を知(し)るのみ。子(し)曰(いわ)く、如(し)かざるなり。吾(われ)と女(なんじ)と如(し)かざるなり。

【訳】
先師が子貢にいわれた。 「おまえと回とは、どちらがすぐれていると思うかね」 子貢がこたえていった。 「私ごときが、回と肩をならべるなど、思いも及ばないことです。回は一をきいて十を知ることができますが、私は一をきいてやっと二を知るにすぎません」 すると先師はいわれた。 「実際、回には及ばないね。それはおまえのいうとおりだ。おまえのその正直な答はいい」

Web漢文大系

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 銀行員時代のこと、ちょうど最初の昇格が目の前にあったときのことである。同じ支店に同期がいて、次の昇格のタイミングでどちらかが昇格できるはずであった(あるいはどちらもできないか)。2人ともということはなく、かと言って私も同期を蹴落とすようなつもりはなく、ただ自分のなすべきことだけをきちんとやろうという心境で日々を過ごしていた。そんな私のスタンスが、当時の支店長には物足りないと思われていたのかもしれない。

 半年に一度の面談で、私は支店長から質問された。「お前は同期のSと比べてどちらが優れていると思うか」と。私は同期のSの方が業績には貢献していると思うと答えた。当時、Sは営業で支店の業績推進に邁進していた。私は融資担当で、役割からいえばオフェンスよりディフェンスと言えた。単純に比べることはできない。「業績」という点では確かにSの貢献の方が大きかったかもしれない。だが、融資に関しては、審査を通したりする面で私もそれなりに貢献していたと心の中では自負していた。しかし、先に昇格したのはSの方だった。

 もう20年以上前のことだし、別に今更恨み言を言うつもりはない。ただ、人にはそれぞれの持ち味があると思う。その時、営業に関しては確かにSの方が私よりも優れていたと思う。同じ土俵で勝負していたら負けていたかもしれない。しかし、融資という土俵で勝負していたら、たぶん私の方が優れた結果を残していたと思う。お互いに性格も違うし、得手不得手がある。それはエースピッチャーと4番打者のどちらが優れているかを比べるようなものだろうと思う。どちらもなくてはならないし、高校野球ならともかく、普通エースピッチャーで4番打者を兼ねられるものはほとんどいない(世界でも大谷翔平くらいだ)。

 人間の能力なんてそんなに大差はないが、範囲を狭めれば差が出てくる。走るという分野に限れば、早く走れる者とそうでない者にははっきりと差が出る。しかし、「短距離走者と長距離走者のどちらが優れているか」と問われれば答えに窮する。それは土俵が違うから比べようがないのである。勉強が得意な者とスポーツの得意な者とどちらが優れているかも同じである。いろいろな人間を集めて、それぞれ得意分野で活躍させるのが会社のいいところで、優れた営業マンだけを集めても問題のない会社が作れるとは限らない。

 当然、と言えば当然である。会社で言えば適材適所。落語で言えば十人十色。文系人間がいて理系人間がいる。一律に1つの基準で測ろうとすればどうしても測りきれないことが出てくる。4番打者がピッチャーができないからとダメ出しされたら、せっかくの打撃の才能が活かせないことになる。その場合、監督がその才能を見極めて、適切なポジショニングをしなければチームは選手の才能を活かせず、したがって勝てもしないだろう。当たり前と言えば当たり前であるが、世の中は必ずしもそうではない。

 当時、支店長の推薦枠は各支店で1名だった。したがって、私とSが同時昇格することはまずなかった。そもそもそれも理不尽だと思う。例えば私よりもSよりも劣る人間でも、違う支店であれば昇格できることになるからである。現に私もあの時同じ支店にSがいなければ昇格できていた可能性は非常に高い。実力+運が必要といううことなのだろう。今の自分であれば、日常どう振る舞えばよかったのかはなんとなくわかるので、Sではなく自分が昇格できた可能性はあると思うが、残念ながら当時の私にはそこまでの能力はなかった。

 そんなことを経験すると、ある人物の一面だけを見てその人を判断するのはいけないということはわかる。もちろん、スポーツのポジション争いとか、仕事でもある分野とか、限られた範囲内での優劣はあるだろうし、そういう評価の違いも必要だろう。だが、そこで劣っていたとしても、それはその人のごく一部の面ということになる。すべての面において劣っているというわけではないのだが、得てして人は「一を知って十決めつける」的なところがある。

 しかし、当然ながら人はどこに才能が眠っているかはわからない。あるスポーツではパッとしなかったものの、別のスポーツで開眼することはあるし、転職して成功する人もいる。「見返す」ことができるわけであり、だから1つの「低い評価」を気にすることもないわけである。子貢は回よりも一を聞いて二しかわからないという点で回よりも劣っていたが、しかし正直さという点で師の評価を得られたわけである。己のことであれば卑屈になることはないし、他人のことであれば他のいい面を探す必要があるだろう。

 そんなことを考えていくと、ある面に置ける得手不得手に惑わされることなく、自分においても他人においても、その持っているいい面を見られる人間でありたいと思うのである・・・

Frederic WillocqによるPixabayからの画像

【本日の読書】
  




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