2017年11月29日水曜日

マンション管理士

先週の日曜日は、マンション管理士の資格試験であった。仕事での必要性から受験を決意し、1年間準備してきて試験に臨んだが、自己採点ではどうやら「あと一歩」だったようである。残念というよりも、もう勉強したくなかったので、また勉強を続けないといけないのかという気持ちの方が強い。まぁ、1回で諦めるわけにもいかず、また来年再チャレンジするしかない。

このマンション管理士という資格だが、実はなんで設けたのかわからないほど「意味のない資格」である。資格があるからと言って、できることは「マンション管理士を名乗って相談に乗ることができる」というものである。マンション管理士でなくても「名乗りさえしなければ」相談には乗れるし、笑ってしまうくらい意味がわからない資格である。おそらく、これで食べていくことはできないだろう。

なんでこんな資格なんか作ったのだろうかと訝しく思うが、まぁ役に立つ立たないではなく、資格を作っただけで仕事をしたという「お役人の理屈」の産物ではないかと思う。では、なんでそんな資格を手に入れようかというところであるが、それはこの資格の唯一の強みである「名刺の肩書き」だろう。これが名刺に入っているのといないのとで、今の仕事で相手に与える印象が大きく変わると思うのである。

そういえば、最近「賃貸不動産経営管理士」という資格があることを知った。不動産賃貸業に従事している身として興味あるところであるが、その資格とは、「賃貸不動産管理に必要な専門的な知識・技術・技能・倫理観を以って、賃貸管理業務全般にわたる、管理の適正化・健全化に寄与することを目的とする資格制度」(Wikipedia)であるらしい。これも何だかよくわからない。別に資格なんかなくても何の支障も差し障りもない。唯一、「倫理観」というところは大事だと思うが、資格の勉強で果たして身につくものかという気はする。

資格というのは、一定の範囲で必要だとは思う。その資格がないと仕事ができないようなものであれば、モラルや安全性といった意味で一定の保証になる。不動産業に携わっていると、基本的な資格である宅建を持っていないと、重要事項の説明ができないなど支障が生ずるので、最低限の勉強をさせるという意味でも資格としては意味があるかもしれない。しかし、マンション管理士にはそれがない。不動産経営管理士とやらも然りである。

そんな名刺の肩書き程度にしか役に立たない資格ではあるが、合格率は毎年8%程度という狭き門。名刺の肩書き程度にしか意味のない資格に対し、そんなに門を狭くして何の意味があるのかと思う。ただ、そうした文句の諸々は何よりも「受かってからしろ」と思う気持ちがあって、何より受かるまではまずは勉強するしかない。試験問題も、そんなに細かく知る必要があるのかというぐらい重箱の隅問題があるのだが、何より実際に受かっている人がいるわけだし、今回の試験もやっぱり8%くらい受かるわけだから、まぁ勉強するしかない。

年々衰える記憶力は、自分でも愕然とする。これでも難関国立大学を卒業したという自負はあるのだが、もうそんな過去の栄光は額縁の中だけにしか通用しない。衰えたなら衰えたなりに創意工夫して戦わなければならない。敵は己自身の怠け心。来年の絶対合格を期して、1日も手を休めることなく、これから勉強をし続けようと思うのである・・・




【今週の読書】
 百円の男 ダイソー矢野博丈 - 大下英治 君と会えたから…… - 喜多川泰 漫画 君たちはどう生きるか - 吉野源三郎, 羽賀翔一





2017年11月23日木曜日

老害か

わがセブン秘録 - 鈴木 敏文, 勝見 明先日、セブン&アイ・ホールディングス元会長で現名誉顧問の鈴木敏文氏の著書『わがセブン秘録』を読んだ。鈴木元会長は、日本にコンビニエンスストアを持ち込み、根付かせた大功労者であるが、残念ながら最後は辞めさせようとしたセブンイレブン・ジャパンの社長の退任を巡って反対を受け、「ブチ切れ会見」と称される記者会見で引退表明をして一線から退いた。

 そのニュースを見ていて、「もう八十を越えているのにいつまで権力にしがみつくのだろう」と嫌悪感を感じたものである。功成り名をなしたのであるから、あとは後継者に道を譲ってしかるべきである。せっかくの実績なのに「老害」とはまさにこのことで、「晩節を汚した」感があって大変残念な引退劇だと感じた。しかしながら、この本を読んで少しイメージが変わったところがある。

鈴木元会長の実績は言わずもがな。この本を読んでいて随所で感じたのは、「自分の考え方と同じだな」というところである。もちろん、大経営者が私と同じなどと自惚れているのではなく、自分の考え方もそう間違ってはいないという安心感である。「できないと言う前にできる方法を考える」などは、私も昔から意識していることである。世の中の真理と言えばそうであるが、それでも周りには「○○だからできない」という言い訳が溢れているので、強く感じる。

被災地に物資を運ぶドライバーが手配できないと部下が報告してきた時、鈴木元会長は「自分たちでなぜ行かないのか、誰も行かないのなら自分が行く」と怒ったらしいが、私も「できない」とか言われると、「なら自分でやるからいい」と思うクチである。事実、そうやって自分で言い切ってやって見せたことが多々ある。「どうやったらできるのか」という言葉は、まさに魔法の言葉の感がある。

「判断の尺度をお客様に合わせる」というのもそうで、例えば我が社でも入居者が退去してクリーニングをして新たに賃借人を募集するのだが、その時どうしてもクリーニングだけでは取り除けない「使用感」が残る。モノの宿命ではあるが、例えば新たに見学しに来た人に「古さ」を指摘されたりすると、「中古だから仕方がない」という意見が出てくる。それは事実だが、しかしそれはこちらの言い訳でしかない。相手もそれは十分承知の上なわけであるから、プロであるなら「どうしたらもっと改善できるのか」を考えないといけない。

そんな鈴木元会長の考え方を読んでいたら、「体は年をとっても頭の中は衰えない」という当然の事実に改めて気がついたのである。鈴木元会長はその時まで第一線を指揮していたわけで、そしてそれが組織全体の戦略として間違っていたわけではない。千代の富士のように「体力の限界!」を感じることもない。年というのは、周りから見たもので、本人の頭の中ではそんな意識もなかったのだろう。自分だって今でも頭の中では、ラグビーの試合に出て学生時代と同じように動ける気がするし、基本的な考え方は(進歩はしていると思うが)昔と変わっていない。

鈴木元会長も、周りの強い反対を押し切ってセブンイレブンやセブン銀行を成功させてきたわけであり、自分の考え方については自信を持っていただろう。社長を交代させようとしたのもきっとそれなりの根拠があったのだと思う。それを「老害」と断じてしまうのは正しくないだろう。そんな鈴木元会長に反旗を翻した人たちは、やっぱり自分たちが正しいと考えていただろうし、そうした意見が正面からぶつかっただけのことなのだろう。むしろ、そこで反対派を力でねじ伏せず、ブチ切れながらも潔く身を引いたと言えるのかもしれない。

元楽天の野村監督もまだまだ現役で監督ができると語っているし、当時の小泉首相に議員引退を勧告された中曽根元首相も「まだまだできる」と主張していたし、よくよく見まわせば、「まだまだできる」と主張する高齢者の例は多い。人間はボケない限り頭の中は変わらないし、世の中の「老害」の正体もよくよく考えてみないといけないのかもしれないと思う。新しい考え方についていけないという例もあるから一概には言えないが、単に年を取ったから「老害」と断じてしまうのは早計かもしれない。

今50代の自分もあと20年すれば70代、30年すれば80代。会社が存続できていればたぶん働いていると思うが、その時周りにはどんな人たちがいるだろう。願わくば、もっと大きくなっていて、今はまだ見ぬ人たちに囲まれて働いていたいと思う。たぶん、その時の自分の考え方は今とそう変わらないはず。「どうしたらできるか考えよ」と部下に指示しているかもしれない。常に自分の知識をブラッシュアップしてアップデートしておきたいと思うが、それにも関わらず周りに受け入れられないこともあるかもしれない。その時、自分はどう考え、どんな行動ができるのだろう。

その時、「老害」と陰口を叩かれないようにしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 「週刊文春」編集長の仕事術 - 新谷 学 「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室 (新潮文庫 フ 63-1) - キャスリーン・フリン, 村井 理子





2017年11月15日水曜日

論語雑感 為政第二(その13)

子貢問君子。子曰。先行其言。而後從之。
子貢(しこう)、君子(くんし)を問(と)う。子(し)曰(いわ)く、先(ま)ず其(そ)の言(げん)を行(おこな)い、而(しか)る後(のち)に之(これ)に従(したが)う。

【訳】
子貢が君子たるものの心得をたずねた。先師はこたえられた。君子は、言いたいことがあったら、まずそれを自分でおこなってから言うものだ。
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「君子たるもの」を説く論語の言葉であるが、この言葉は「率先垂範」と言えるだろうか。もちろん、これはどこも間違っていないし、リーダーたる者の必要な心得であると思う。率先垂範がなぜ必要かと言うと、それはやはり「口ばっかり」のリーダーでは誰もついて行こうと思わないからだろう。人に「やれ」と言うだけでは、特にその内容が大変だったりすると余計である。

銀行を辞め、今の会社に転職してきた時、社長からは「現場にも出て欲しい」という話があった。それはもとより望むところだったので、内装工事の現場にも足を運び軽作業を手伝ったりした(技術を伴う作業は当然ながらやりようがない)。また、会社では毎朝全員で掃除をしているが、あえて時間のかかる作業と隔日でトイレ掃除を引き受けた。「率先垂範」というより、「口だけではない」ということを示したくて面倒な仕事を引き受けたのである。

さらに、入居者が退去したあとのルームクリーニングも自社でやっているが、その作業にも参加。こちらは難しい技術は不要で、手順を覚えれば見よう見まねでできるものである。さらにYouTubeを検索すれば、いまはご丁寧にその道のプロなどが解説動画を公開してくれている。覚えようと思えば簡単である。立場的には「役員」であって、机に座って指示だけ出していてもいいのだろうが、やはり現場に出ることによる目に見えぬ効果はあると思う。

先日、元セブン&アイホールディングス会長鈴木敏文氏の『わがセブン秘録』という本を読んだが、その中で震災時のエピソードが語られていた。被災地に物資を運ぶにあたり、ドライバーが確保できないという報告をしてきた部下に対し、「君たちが行かないのなら私が行く」と言ったという。さすがに会長に運転はさせられないと判断しただろうが、これも一種の率先垂範だと思う。

こうした率先垂範は、困難な物事だったり、面倒だったりするものほど有効だろう。そういう事をただ「やれ」と言われても、内心抵抗感が生じるが、リーダー自ら率先してやられたら嫌とは言えない。「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」(山本五十六)ではないが、人に何かをやってもらおうと思ったら、大事なことだと思う。

一方、ちょっとズレるが、「言ってることとやっていることが違う」というのは避けたいところである。私も家ではよく「電気の点けっぱなし」を妻に注意されるが、そういう妻はよく夜中に気がつくとリビングで電気を煌々と点け、さらにはテレビとエアコンまで点けたまま高鼾で寝ていたりする。私のちょっとした電気の消し忘れよりよっぽど電気料金への影響は大きいと思うが、家庭内の平穏維持のためには指摘などできるわけもなく、あえてグッと飲み込んでいるが、当然不満は残る。

考えてみれば、何でもそうだが人にものを言うということは「責任」を伴うわけであり、言葉と行動とが一致していないとその言葉は説得力を持たない。自ら語る言葉に説得力を持たせられるかどうかは、結局その人自身の行動ということになる。2,500年の長きにわたって伝わっている論語の、これもまた真理を表す普遍の言葉なのだろう。その真理に基づいて、自らの言葉と自分自身に説得力を持たせられるように自分もありたいと改めて思うのである・・・




【本日の読書】
 2030年ジャック・アタリの未来予測 ―不確実な世の中をサバイブせよ! - ジャック・アタリ, 林 昌宏 もうひとつの浅草キッド (双葉文庫) - ビートきよし





2017年11月8日水曜日

24時間常在勤

先週の日曜日は仕事であった。私の勤める会社は土日祝日を休みとしているのだが、不動産業という仕事の場合、どうしても土日に仕事をせざるを得ないことが多々ある。賃貸の募集は土日が中心となるし、その期間中は、出社とまではいかなくても電話を受けられるようにしていることは必須である。私が入社する以前は社長が電話を受けていたようだが、今は私がそれを自ら買って出ている。

最近、働き方改革という言葉を耳にする。それは働く時間をできるだけ短くしようとするもので、その趣旨からすると私の行動は真逆ということになる。と言っても、中小企業だから労働環境が劣悪で止むを得ないというわけではない。必要と感じ、すべて自らの判断でやっている。そして、それをむしろ楽しんでいるところもある。決して嫌々ながらストレスを抱えてやっているわけではない。

一応、役員だから労働基準法の縛りもなく自由にできるという事情もあるが、会社の業績を担っているという自覚と何よりもそれを楽しんでいるところが大きい。これがもしも社命でやらされていたら、まったく違っただろう。その成果は十分出ていて、今現時点で空室はゼロだし、業績も順調に回復してきている。それもモチベーションになっているが、土日も仕事をしていて苦にならないのは、「自主性」の一語に尽きると思う。

昔、「24時間戦えますか?」というテレビコマーシャルがあった。今だったら大炎上かもしれないシロモノだったが、今の自分なら(必要なら)ためらわずに「できる」と答えるだろう。大学を卒業して銀行に入った当初、最初に仕えた上司は仕事が好きと公言して憚らない人であった。休み返上で嬉々として働く姿に、「他に楽しみがないのか」と思ったものである。実際、「仕事が趣味」だと語っていたから他にはなかったのだろうが、今ならその気持ちはよくわかる。

働き方改革の趣旨はよくわかる。自殺者なんか出ていたらそれはやっぱり異常だし、すべての人が仕事が趣味というわけでもあるまい。その意思に反して長時間労働をさせられるのは、やはり防ぐべきだろう。ただ、自分の経験から言えば、仕事の面白さがわかってくると働くことも苦にならない。外側から制度を作るのはもちろん良いと思うが、内側から仕事に喜びを見出せるようにする方がもっと良いと思う(どうやって実現したら良いのかはわからないが・・・)。

私も仕事人間というわけではない。ちゃんと趣味はあるし、そのための時間確保はきっちりやっている。最近は知り合いの伝手を頼ってシニアのラグビーチームに参加させてもらい、毎週土曜日に汗を流している。もともとただ走るのは嫌いなたちなので、仲間たちとボールを使って運動するのにラグビーの練習はちょうど良いのである。今はいい環境にあるとつくづく思う。

仕事ではプレッシャーもあるし、決して楽ではないが、一方でそのプレッシャーを楽しんでいるところもある。給料ももっともらいたいし、会社のみんなの給料ももっと上げたいと思う。そういう意味で、まだまだこれからも週7日間働くつもりで(もちろん合間にしっかり休みを取るが)いたいと思う。いずれ子供達も社会に出て行くことになるだろう。その時、楽しんで働くオヤジの背中を見せたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 勉強の哲学 来たるべきバカのために - 千葉 雅也 2030年ジャック・アタリの未来予測 ―不確実な世の中をサバイブせよ! - ジャック・アタリ, 林 昌宏





2017年11月1日水曜日

営業マン

銀行員時代は気がつかなかったというか意識しなかったが、中小企業に転職して感じたのが「セールスの多さ」である。電話はもちろん、飛び込み訪問のセールスも連日数多い。考えてみれば、銀行は本部なら受付があり、電話のオペレーターがいる。飛び込みセールスはとてもではないが入り込む余地はない。支店もそんな雰囲気はない。銀行以外でも大企業なら似たようなものだろう。

それに対して中小企業はガードが低い。電話はともすればストレートに社長に取り次がれ、飛び込み訪問もすんなりと入ってこられる。ただ、そうしたセールスがただ煩わしいものかと言えばそうではない。なかなか気がつかなかったり、あるいは伝手がなかったようなものもあって、それはそれで有意義なのである。特に不動産業界は情報ルートは多過ぎて困るということもない。

そんなわけで、私は飛び込みの営業が来れば率先して出迎えるようにしている(と言うと聞こえはいいが、実のところ私以外に対応できる人がいないというのが実情であるが・・・)。そういう飛び込みの営業マンも実に多彩である。弁舌さわやかだったり、「営業成績悪そうだな」と感じさせる人だったり。たいがいは若い人だが、暑かったり寒かったり雨が降っていたりする中、門前払いも数多いだろうし、営業も大変だと思う。

そんな営業マンが訪ねて来た時は、できる限り丁寧に応対するようにしている。話を聞けば何か得ることもあるかもしれないし、あちこちで門前払いばかりでは気の毒というもの。よほどこれから出かけるという時以外は、多少忙しくてもそんな対応を心掛けている。しかし、営業マンの中には「どうなんだ」と首を傾げざるを得ない人もいる。一例は昼休みに訪ねてくる営業マンである。

我が社は、昼は12時から社内で弁当を食べている(残念ながら愛妻弁当ではない)。そんな時に訪ねて来られると、さすがに困ってしまう(弁当は食べたいし、午後一で予定があったりすると食べ損なってしまう)。アポなしで来る以上、せめて昼休みは避けようという考えはないのだろうかと疑問に思ってしまう。ひょっとしたら上司に怒られるからとにかく数を回ろうと思っているのかもしれないが、営業マンたる者、相手の事を考えられないとその時点で失格だ。

また、ある不動産業者の担当者は、たびたび土日に携帯にかけてくる。向こうは土日営業中だが、こちらは休み。そちらはセールスではなく、打ち合わせなのであるが、やはり配慮というものがない。一度こちらが休みだと知らないのかと思って伝えたところ、その次から「お休みのところすみません・・・」と架かってくるようになった。緊急ならいざ知らず、そうでないのなら相手への配慮は欲しいところだ。私もこの方との仕事は一段落を機に終わらせるつもりである。

かと思うと、先日尋ねてきた営業マン(というより営業レディだ)は、久しぶりの再訪だったが、こちらのことをよく覚えていた。もちろん、こちらは忘れている。あまりにも細かい事に及んだので、たぶん面談が終わったあとメモを取っていたのだろう。そういう心遣いができる人は成績も上げられるだろう。ただ残念だったのが、会社の商品に魅力がなかったことである。

そういうところに気がつくというのも、じぶんにそういう素養が備わっているからだろうと自画自賛してみる。その素養を今のところ飛び込み営業マンとして活かす必要がないのが幸いである。ただ、何でも出来なければいけない、やらなければいけない中小企業ゆえ、必要があれば率先垂範したいと思う(したくないけど・・・)。何はともあれ、営業は大変である。弊社にやってくる彼ら彼女らに、心密かにエールを送りたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 HIGH OUTPUT MANAGEMENT - アンドリュー・S・グローブ, 小林 薫 新装版 真経営学読本 - 福島 正伸






2017年10月29日日曜日

国家の秘密とは

先週、毎週楽しみにしている趣味の映画鑑賞で『スノーデン』を観た。数年前にアメリカの情報管理の内幕を暴露した元政府職員エドワード・スノーデンの事件を映画化したものである。個人的に興味を持っていたので、興味深く鑑賞した。

映画は映画で事件のあらましを知るという意味でも、単なるエンターテイメントとしても面白いものであったが、事件そのものはどう考えたらいいのだろうかとふと考えてみた。スノーデン氏は、現在米政府からは犯罪者として扱われており、今はロシアに半分亡命みたいな形で滞在している。公式的には「犯罪者」なのであるが、それでいいのだろうか。

スノーデン氏は、CIAやNSAといった政府機関が、「テロ防止」という名目のもとで、ほとんどすべての人の情報をプライバシーなどお構いなく収集していることについて、「問題だ」と感じてその事実を公表したわけである。いわば「義憤」である。これによってアメリカ政府も批判にさらされ、情報収集の範囲を見直している。その意味では、スノーデン氏の告発も意味はあったわけである。だがそれは「国家機密漏洩」でもある。

一般的に国家機密漏洩はやはり重大犯罪であろう。7年前、わが国でも中国漁船衝突事件で、政府が非公開とした衝突時の映像を海上保安庁の職員がYouTubeにアップするという事件があった。当時、マスコミは「義憤」と捉え犯人擁護の論調を張っていたが、私は個人的に許されざる問題だと思った。その考えは今でも変わっていない。

一般的に何を持って「秘密/非公開」とするかの判断は微妙である。政府が「非公開」と判断したものを、いちいち個人がそれはおかしいと勝手に公開していたら、それはそれでとんでもないことになるだろう。政府が「非公開」と判断したものを個人が勝手に暴露するなんて、基本的に許されざる犯罪であろう。

だが、スノーデン氏の公開した情報はあまりにも衝撃的であった。あらゆる個人のメール等のやり取りから始まり、同盟国も含めて他国政府機関内の情報や、嘘か本当か日本にはアメリカを裏切った場合に備えてインフラを機能させなくする仕組みまで構築しているという。これは明らかに「許容範囲」を超えているわけで、政府も批判を浴びて今ではそのやり方を(表向き)修正している。スノーデン氏の行動にも理があるわけである。そういう場合まで、罪に問われなければならないのであろうか。

最近は、企業でも内部告発によって、「都合の悪い事実」が表に出て大変な騒動となることが出てきている。それらは大抵「都合の悪い真実」であるが故に、内部告発制度も有用なものだと思う。経営者もそれを考えたら下手なことはおいそれとはできず、いい牽制になっていると思う。もっとも牽制になるのは、「まともな感覚」を持った経営者だけだろうが・・・

今後、ほとぼりが冷めてスノーデン氏が帰国できるのかどうかはわからない。それはアメリカの市民の判断にかかっているのだし、私がどうこういう問題でもない。ただ、果たして自分が同じ立場となった時にどう行動するべきだろうかを考えると、なかなか難しいものがある。政府が明らかに間違っていると思っても、犯罪者となって国に帰れなくなるのを覚悟で行動できるだろうか。そんな重大な立場にないことを幸せに思う。

そんなことをツラツラ考えていたら、ケネディ大統領暗殺事件の非公開資料の秘密指定が解除されるというニュースが飛び込んできた。トランプ大統領もいいことするじゃないかと楽しみにしていたら、やっぱり一部は非公開指定が維持されてしまった。そうなると中身にはますます期待が膨らんでしまう。ふと、スノーデン氏みたいなのが出てきて暴露してくれないだろうかと不謹慎な考えが脳裏に浮かぶ。もしもそんな人物が出てきて全部ぶちまけてくれたなら、あれこれ難しいことを考えるまでもなく心から支持してしまうと思う。

やっぱり、「筋論」も大事だが、好奇心には抗えないと思うのである・・・




【今週の読書】
 HIGH OUTPUT MANAGEMENT - アンドリュー・S・グローブ, 小林 薫






2017年10月26日木曜日

論語雑感 為政第二(その12)

 子曰。君子不器。
子(し)曰(いわ)く、君子(くんし)は器(き)ならず。
【訳】
先師がいわれた。君子は機械的な人間であってはならぬ
********************************************************************************

 これも「君子は器ならず」として、論語の中では比較的知られている言葉だと思う。考えてみると、その意味はわかっているようでわかっていない。改めて調べてみると、
『器物は各自一つの用に適するだけだが、君子は一芸にすぐれるばかりでなく、どんな用にも融通が利く』(広辞苑)
というような説明があった。上記の訳よりもこちらの方がしっくりくる。

 また、別のところを調べてみると、
『茶わんも器であり、どびんも器である。とはいえ、茶わんは茶わんの働きしかなく、どびんはどびんの機能しかもたない。立派な人たるには、そのように、器であってはならない。かたよらず、全人的完成をめざすべきだ。』(『中国古典名言辞典』・講談社学術文庫)
というのもあった。どちらも当然ながら同じような意味であるが、上記の訳よりはわかりやすい。
 
 自分なりに咀嚼してみると、私自身が日頃心掛けている「臨機応変」に相通じているように思う。私の意識している「臨機応変」は、例えば「札幌に行く」という目的があったとして、羽田まで行ったら搭乗予定の便が悪天候で運休となってしまったという時に、「では新幹線で行こう」とか、新幹線もダメなら「レンタカーを借りよう」とか、時間がかかってもいいなら「フェリーで行こう」とかして目的を達することである。そういう「臨機応変」が、「器ならず」に当たるように思うがどうだろうか。
 
 また、「一つのことにかたよることなく、幅広くその能力を発揮するべき」と言っても、普通の人はオールマイティというわけにもいくまい。私自身も当然そうである。ただ、それが個人の能力だけを問われる個人プレーならともかく、組織で仕事をする場合は「衆知を結集する」ということができる。自分に足りない能力はできる人に補ってもらえばよい。その時には、いろいろな人がいる中で、柔軟に適する人を受け入れて連携プレーができればいいように思う。

 今の会社に来た時も、少ないメンバーでどうしようかと考えた。営業をやるにも自分ひとりだけでは足りない。そこで社交的な女性を営業に連れ出したらうまくやってもらえるようになった。リフォームでデザインをする人がいなくて外注先をさがしていたが、ふと社内の別の女性にやらせてみたら、本人も好きなようでうまくやってくれるようになった。外注も不要となり、余分なコストをかけずに済んでいる。自分でやるばかりが能ではない。

 自分でもある程度「何でもやる」という心掛けは必要だと考えている。我が社は毎朝みんなで掃除をするのだが、私はあえてトイレ掃除など一番大変な掃除を引き受けている。管理している部屋のクリーニングにも積極的に参加している。偉そうにふんぞり返っていては言葉に説得力もないだろうと思うからである。さすがに技術を伴うことはできなないが、素人でもできることは何でもやるつもりでいる。

 スポーツでも仕事でも、チームを率いる立場となったら、この「やれることはなんでもやる」というスタンスは必要だと思う。誰かに指示してやってもらうのもいいが、もしもうまくできなかったり、緊急に具合が悪くなったりした時には代わりにやらないといけない。「誰かやれ」もいいけど、
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」(山本五十六)
であるなら、「やってみせる」ことができないといけない。

 そう考えると、やはりこの論語の言葉は真理である。
「芯は固く、言葉や行動は柔軟に」
これからもそういうつもりで何事にもあたりたいと思うのである・・・




【本日の読書】

 HIGH OUTPUT MANAGEMENT - アンドリュー・S・グローブ, 小林 薫 仮面の告白 (新潮文庫) - 三島 由紀夫




2017年10月22日日曜日

人口減少社会

 少子高齢化が進み、これから本格的に「人口減少社会」となる我が国。先日、『未来の年表-人口減少日本でこれから起きること-』という本を読んで一層その深刻さを理解したところであるが、先週取引先との雑談の中でこの話をしてきた人が2人もいて、みんな同じ本を読んでいるのだろうか、それともそれ以外のところで情報を得ているのだろうかと思いを巡らせてみた。

ある人は、これから日本も人口減少社会となるから、不動産マーケットはダメなのではないかという意見を述べてくれた。確かに、パイは縮小することになるのでこれまでと同じようにはいかないだろう。だが、では人口減少の影響を受けない他の事業に転換できるかというと、そんな業種はあるのだろうかと思う。トヨタだって(国内では)人口減少の影響は避けられないのである。

個人的には、我が不動産業界のそんな行く末を案じたりはしていない。不動産マーケットは縮小することこそあれどなくなることはない。要は縮小するマーケットでどう生き残って行けばいいのかを考えるだけである。のほほんとしていたら淘汰されるだろうから、熱意と創意工夫とで乗り切って行くしかないのである。

実は改めて本を読むまでもなく、身近なところでこの問題は感じていたと言える。父の生まれた生家は、祖父もとうに亡くなり、今は長男の伯父があとを継いでいる。私と同年齢の一人息子(つまりは私の従兄弟)がその次に控えているが、その従兄弟には子供がいない。一人っ子ゆえに伯父の家系、ひいては父の本家筋は従兄弟で絶えることになる。家屋敷は相続人もないことから国庫行きだし、墓は管理する者がいなくなることになる。

母方の本家も墓を継いだのは、本家の次男の伯父。その伯父は既に亡く、2人の子供(私の従兄弟だ)はともに独身。もう50代となっているし、伯父の家もそこで絶えることになる。望月にある母方の祖父が自慢していた墓も守り手がいなくなることになる。それでいいのかと思うも今の時代「養子縁組」でもないだろうし、致し方ない。そう考えると、「家制度」が確立していた昔のシステムは、「継承」という観点からは優れていたと思う。

ただ、そういうことは何も我が一族に限った問題ではなく、日本全国いたるところに出てくる話だということである。従兄弟も独身貴族をいいことに、マンションを買って一人暮らしを楽しんでいるが、いずれそのマンションも相続人がいなくなって国庫行きとなるのだろう。たぶん、国庫もそういう資産がこれから増えて行くのだろう。ひょっとしたら、今国家財政を圧迫している国債残高も、それでだいぶ「チャラ」になるような気もする。

不動産マーケットは縮小して行くといっても、業者の中には、経営者が高齢化して後継者がいなくて廃業となるところも増えるだろうから、小さくなったパイを分捕り合うライバルも減ってさほど競争密度は変わらないかもしれない。土地が余れば、ウサギ小屋とバカにされたわが国でも庭付き一戸建てが普通になるかもしれない。あまり悪い面ばかり考えるのもいかがかと思う。

墓の問題も簡単に自分が引き受ければ済むという問題ではない。妻の実家の方もあるわけであり、しかも妻の妹には子供がいないため、事実上妻の実家を受け継ぐのは我が子供たちである。そうすると、我が子供達は理論的には4家の資産と墓とを受け継ぐことになる。資産といっても大したものは期待できないから、受け継いで嬉しいかどうかは微妙だ。

仮にすべて受け継いだとしても、我が子供たちが将来結婚できるか、そして結婚できたとして子供が生まれるかどうかもわからない。私も孫を持てるかどうかわからないわけで、持てなければ何れにせよ、4家もそこまでということになる。日本全国あちこちで多くの家系が絶えて行くのだろう。

自分が生きることのない未来の心配は子供達に任せるとして、せめて自分としては自分が90歳なり100歳なりまでの範囲での未来については考えていきたいと思う。と言ってもせいぜいが痴呆の要介護にならないようにしたいという程度である。そうならないようにできるのか、あるいはそうなっても迷惑をかけない程度に財産を残すのか。どうやら定年後はのんびり趣味になんて夢のまた夢ということになりそうである。

それもまたいいかもしれないと思う一方、残りの人生を楽しくだけは生きたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 経済は地理から学べ! - 宮路 秀作 仮面の告白 (新潮文庫) - 三島 由紀夫






2017年10月19日木曜日

競争

先日の事、家族との会話で娘が中学生の頃、テストで先生に成績順を教えてもらっていたことを聞いた。当時、娘が学校の定期試験で、学年で○位だという話は聞いていたが、それが「こっそり」聞いていたということは知らなかった。なんでも一般的には伏せられていたそうで、娘は担任の先生に個別に頼んで教えてもらっていたそうである。

その順位が実は毎回娘のテスト勉強に対するモチベーションになっていたという。自分の順位が上がれば嬉しいし、いい順位をキープできればそれも良し。親にも褒められるし、自分も気分が良いしということだったようである。そう言えば、それは自分も高校時代に同じ経験をしているのでよくわかる。ただ、その時は全員に発表されていたので、娘のようにこっそり聞くという努力は不要であったが・・・

考えてみれば自分の場合、勉強は嫌いではなかったが、それでも「好き嫌い」はあった。歴史や英語、倫理社会とか数学の一部などはわりと好きな科目であったが、物理や化学はできるなら避けて通りたい科目であった。好きなものはいいが、嫌いなものは勉強などしたくない。そんな気持ちを抑え、万遍なく勉強しようという意欲が出た要因が、「学年順位」であった。順位を上げたくて、上がるのが楽しみですべての教科を嫌がらずに勉強していたものである。

自分の力を上げるのに、「競争」が役に立つのは間違いのないところ。個人ならずとも企業や国すらも、競争のないところに進歩がないのは明らかであり、だからこそ「理想社会」であったはずの社会主義が失敗したのであろう。日本でも国鉄を始めとする国有企業の失敗を見ても明らかであり、年功序列が崩れたのも同様であろう。昨日と同じことを今日も明日も続けて問題がないという環境は、それ自体が問題なのだろう。

昔はテスト結果が張り出されて各人の順位が一目瞭然なのが当たり前だったと思うのだが、それがいつから否定されるようになったのかと思う。一時期幼稚園の運動会で手をつないでゴールなんてのがあったらしいが、やはり「競争」は個人でも世の中でも必要だろう。もちろん、競争の当事者になるのは大変なことだし、できれば競争などしたくないというのがみんなの本音だと思う。

競争は良いと思うのだが、やる気を削ぐのは「不公平」だろう。公平に競争して負けたのなら仕方がないが、例えば出世競争などは必ずしも公平とは言い難いものだと思う。もっともそれは敗者の感情であることは間違いない(逆に勝者は公平=「自分の実力」だと思いたいものである)。競争の効果を認め、それを導入しようとしたら、この「公平な評価システム」が不可欠で、それがないと逆にモチベーションを下げてしまうことになるだろう。

一方で、我々日本人のDNAとして、あからさまな競争は避けたいというものがあるのも確かだと思う。人を押しのけるということに抵抗を持つ人は少なくないと思うし、過剰な自己PRも然り。「謙譲」が美徳とされる我が国では、自分を必要以上によく見せることに抵抗感を持つのは私だけではないと思う。成績順などは、あまり人を押しのける感覚がないから、そこが心地良いのかもしれない。

進歩は必要だが、あまり人とは争いたくない。試験のような公平で努力の成果がわかりやすいものは素直に頑張れるが、出世競争のように評価基準が曖昧で、「押し退け感」を感じさせられるものは苦手なのは、私だけではないと思う。自らの進歩に必要で役に立ち、それでいて人を押し退ける必要がない。そんな競争なら大歓迎かもしれない。昨日より今日、今日より明日と少しずつ進歩していく・・・

「ライバルは昨日の自分」
今はそれを合言葉にしているのである・・・




【本日の読書】
 損する結婚 儲かる離婚(新潮新書) - 藤沢数希 ハリネズミの願い - トーン・テレヘン, 長山 さき





2017年10月16日月曜日

選挙を前にして

 いよいよ衆議院選挙が目前に迫って来た。個人的には二十歳になって選挙権を得て以降、何回かの例外は除いて真面目に投票に行っている。支持している政党や人はその都度変化していて、どこかの政党の固定支持者というものではない。それゆえだろうか、毎回よく考えているつもりではあったが、「なんとなく感」もあるところ。そんなわけで、今回改めて冷静に比較してみることにした。

私の選挙区は東京9区。小選挙区では4人の候補が立候補している。
候補者名
所属政党
現職
すがわら一秀
自民党
衆議院議員5期目
高松さとし
希望の党
練馬区区議会議員
原純子
共産党
党国会議員元秘書等
前田吉成
無所属
元警備員

 「4人しかいない」という事実に寂しい思いがするが、「期待していた」風見鶏議員木内孝胤氏が何と8区に転出してしまった。たぶん今回新たに立候補する候補者との調整なのだろうが、あまり自分の選挙区にこだわりを持っていないのだと思う。「らしくて」いいなと思う。

 その中で誰を選ぶかというと、やはりすがわら一秀さんだろうか。4人目の方は何かの記念かもしれないから比較候補にも入らないが、原純子さんはもらったパンフレットによると共産党の公約そのままで、特に惹かれるところはない。高松さとしさんは家が近所で親近感があるので、迷うところではある。

 すがわらさんと高松さんはともに「大江戸線」の延伸を公約に挙げている。ともに選挙区を意識してのものだと思う。基本的に国会議員は国政優先でやってほしいが、地元も多少は意識してほしいところ。その点、「7つの約束」のうち国政に関するものが1つしかない高松さんはやはり現職の区議会議員だからだろうか。地元的にはいいが、国政に出るなら目線を上げてほしいところである。その点、すがわらさんは「10の約束」のうち地元は1つだけなのはさすがバランスがいい。中でも「議員定数削減」は期待したいと思う。

比例代表区の政党は、「何となく自民党」なのだが、改めて感心のある公約を比較してみた。  
憲法改正
原発
消費税
興味のある公約
自民党
○
○
予定通り
外交等実績
希望の党
○
×
凍結
道州制
共産党
×
×
中止
税制改革
日本維新の会
○
?
予定通り
株式会社の農地保有
私の希望
○
×
凍結
甲乙つけがたし

 ちなみに「民進党の残骸」、「自民党と同じ」公明党、その他のよくわからない党は検討対象外とした。「改憲」「原発」「消費税」で比較すると、何と一番近いのは希望の党だった。これだけで決めるかどうかはわからないが、「何となく」ではなく、自分なりに根拠をしっかり持ちたいと思う。

 あれこれ比較してみて1つ気づいたことがある。それは比例代表の候補者リストを見ていてなのであるが、我が9区の候補者3名はいずれも比例候補者の上位に名前があるということである。ということは、たとえ小選挙区で負けたとしても政党の得票率によっては比例で当選する可能性があるわけである。あれこれ悩んでみたところで、結局みんな当選という可能性が高いと思う。

 これはこれでいいのかもしれないが、個人的にはこうした「重複」制度は廃止すべきだと思う。名前の売れていないうちは党の庇護の下で比例代表で議員となり、その後実績を積んだら名前で勝負というのがいいと思うが、我が身可愛い議員さんにとってはそれはやりたくないのかもしれない。それに是非実施してほしいのは、「比例で当選した議員は離党したら議員資格を失う」制度だ。比例で当選したのに平気で離党し、議員を辞めない人を見ていると、「国民はあなたを選んだのではない」と言いたくなる。政治家には是非とも「筋」を通してもらいたいと思うのである。

何はともあれ、来週までにしっかりと考え、投票に行きたいと思うのである・・・

【今週の読書】
 ありえないレベルで人を大切にしたら23年連続黒字になった仕組み - 近藤 宣之 仇敵 (講談社文庫) - 池井戸潤