2022年4月24日日曜日

流されないために・・・

 ロシアがウクライナに侵攻してから2ヶ月が経過したとニュースで報じられていた。テレビも新聞もずっと「ロシア批判」で溢れかえっている。そして先日は、JRの恵比寿駅で、抗議を受けてロシア語表記を一時隠したという。幸い、批判を受けて元に戻したそうであるが、抗議をする方もそれを真に受ける方もいかがなものかと思わざるを得ない。そこには簡単に一方向の意見に流されてしまう安易な思考と、信念のなさ、事なかれ主義とも言える安易さが見て取れる。

 先日読んだ『太平洋戦争への道』という本には、戦前の国民の「熱狂」が紹介されていた。満州事変に際しては、全国130紙にわたる新聞が一斉に国際連盟脱退を主張し、五・一五事件に際しては、首相を暗殺した犯人の「義挙」を国民が支持。そうした国民の熱狂が関東軍の後押しをし、天皇陛下の抑制を無視して中国での権益拡大へと暴走していく。現代でも民主党政権誕生や小池百合子都知事の圧倒的支持など、民意が一斉に一方向に流れる危うい風潮は変わっていない。

 軍事侵攻したロシアが悪いことは間違いがない。それに対する批判は適切である。ただ、問題は「ロシアだけが悪いのではない」ということである。ロシアがウクライナに侵攻したのは、ウクライナがNATOに加盟しようとしていたのがその最大の理由である。NATOは「対ロシア軍事同盟」であり、ウクライナがこれに加盟すれば、ロシアの喉元に核ミサイルが配備されることになる。ロシアがこれを嫌ったのも当然であり、似たような状況に置かれたアメリカがキューバ危機では核戦争を決意したことからも、どれほど嫌な状況かというのもアメリカはよくわかっているはずである。ならば認めなければいいものを、侵攻前にアメリカはロシアのウクライナのNATO加盟を認めるなという要求を拒否している。

 ウクライナ政府にしても、ロシアと接する位置関係にあるわけであるから、敵対的な政策ではなく、中立的な政策を取れば問題は起きなかったはずである。そんな思惑の中で、犠牲になっているウクライナ市民こそいい迷惑なわけで、ロシアの即時撤退を要求するのであれば、同時にウクライナのNATO加盟の永久放棄と中立政策の堅持も交換条件として出すべきであろう。ロシアに対する経済制裁にしても、参加しているのは実は欧米諸国のみで、中国やインドなど多数の国は参加していない。こういう事実を我々は冷静な目で見る必要がある。

 実は、我が社でも役員同士で意見が合わずにギクシャクしている。原因はコミュニケーション不足である。お互いに会社のために良かれと思っていろいろ考えている。だが、当然その内容は違うわけであり、どちらが正しいというものではない。であれば、お互いに議論して「何が会社にとっていいか」を考えればいい。それによって、譲るところは譲り、通すところは通す。議論して決めたことを一緒に進めていけば問題はない。ところが、互いに相手を批判するだけで、その考えを知ろうとしない。だからギクシャクする。

 会社は1人ではできないことを可能にするシステムである。しかし、みんなが目指す方向がバラバラだとそれが機能しない。リーダーの下、一つの方向にベクトルを合わせ、力を合わせて進めば大きなことができる。スポーツでもそれは同じである。そのために経営理念を定め、社長が目指す方向性を決める。しかし、その中でも細かい意見の相違は、互いに交換しあって微調整していく必要がある。誰もが「正しい意見」を持っているのである。それは国レベルでも一緒で、ロシアもウクライナもアメリカも「自分の正義」を持っていて、互いに調整しないから対立するのである。

 大事なのは、そういう事情をきちんと理解し、一方だけの意見を聞いて判断するということをやめることである。私は、互いに心の中で反発する役員の双方の意見を聞いてそれを感じている。それぞれの意見を尊重しつつ、会社のためには一つの意見を採用しなければならないとしたら、議論してそれを決めるべきである。そして「決まったら従う」というスタンスがあれば、問題は生じないと思う。どうしても自分の意見を通したいと譲らなければ問題が拗れてしまうが、そういう意地を張らなければ解決策はあると思う。

 私がお世話になった先輩は、「複眼思考」ということをよく仰っていた。物事を一つの方向からだけ考えるのではなく、反対側も含めていろいろな方向から考えることである。ゼレンスキー大統領の話だけを聞くのではなく、プーチン大統領の話にも同じくらい耳を傾けるべきだと思うし、私もいろいろな意見を聞くようにしている。もしかしたら、そこには自分に対する批判意見も含まれているかもしれないし、それを耳にしたら心穏やかではいられないかもしれない。それでも知らないより良いと思う。

 マスコミの意見は、公平ではなく一方的な意見である。もともとそう思っているので私はマスコミの意見は信用していない。日常生活においても、誰かの一方的な意見だけではなく、いろいろな人の意見に耳を傾けたいと思う。幸い私は社内でそうすることが可能なポジションにある。それをうまく利用して、一方向に流されなることのない確たる意見を身につけていきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】


2022年4月21日木曜日

論語雑感 雍也第六(その15)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰、「孟之反不伐、奔而殿、將入門、策其馬、曰、『非敢後也、馬不進也。』」
【読み下し】
子(し)曰(いは)く、孟之反(まうしはん)伐(ほこ)ら不(ず)。賁(はし)り而(て)殿(しんがり)たり。將(まさ)に門(もん)に入(い)らむとして、其(そ)の馬(うま)に策(むちう)ちて曰(いは)く、敢(あへ)て後(おく)れたるに非(あら)ざる也(なり)、馬(うま)進(すす)ま不(ざ)れば也(なり)と。
【訳】
先師がいわれた。「孟子反は功にほこらない人だ。敗軍の時に一番あとから退却して来たが、まさに城門に入ろうとする時、馬に鞭をあてて、こういったのだ。自分は好んで殿の役をつとめたわけではないが、つい馬がいうことをきかなかったので。」
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 戦における殿(しんがり)とは、敗色濃厚な戦いにおいて総大将を逃すために盾となって時間稼ぎをすることで、当然真っ先に敵にやられる可能性があり、危険な任務である。それだけに上手く努めれば評価も高くなるわけで、かの豊臣秀吉も金ヶ崎の戦いで主君織田信長の殿を務めて出世の階段を登っている。その重要な役割を務めながら、孟子反という人物は「馬が言うことを聞かなかったから(最後になってしまった)」と言ったとされている。その謙虚な物言いを孔子は誉めているわけである。

 マズローの欲求五段解説によれば、人間には五段階の欲求があり、その四番目の高位に「承認欲求」というものがある。それだけ人間には「承認欲求」という強い欲求があるわけで、誰もが人に認められたいと思うだろう。幼児でさえ、母親に「見て!見て!」と得意になってものを見せにくるのも、「誉めてほしい、認めてほしい」という表れであろう。それほどの基本的欲求を孟子反は謙虚に避けている。孔子の誉める所以である。

 この「功を誇らない」という精神は、日本人的にもしっくりいくところであり、逆に功を誇る人に対しては煙たがるものである。功を誇らなくてもそれは皆のわかるところであり、わざわざ強調するものではないという感覚がある。しかしながら、ビジネスの世界ではそうでなかったりする。社内の人事評価などでは、むしろ自らの実績をきちんとPRしないと評価してもらえなかったりする。

 たとえば、かつて勤務していた銀行では「目標評価シート」というものがあって、これは「S」「A+」「A」「B」「B-」と五段階にわかれていて、それぞれ「自己申告」と「上司評価」とがあった。数字で「120%超達成はS」など決まっているものは評価も容易いが、数字で表せないものになると、どうも「S」はつけ難くなる。そこで堂々と「S」などと自己評価をつけようものなら、「謙虚さが足りない」という印象を与えてしまうかもしれない。かと言って本人が「A+」としているものを上司が「S」とするのも難しかったりした。その匙加減が難しく、とりあえず本人申告は「S」としていたものである。

 我が社にも似たような「目標評価シート」がある。聞いてみたところ、けっこうみんな貪欲に自己PRしてくるそうである。外資系企業でもそんな傾向があると聞いたことがある。みんな自分の実績をしっかりPRしないと認められないと。かつて「日本は謙譲の文化、欧米は自己主張の文化」という話を聞いたことがある。特に人種の坩堝アメリカでは、何事においても自己主張しないと認められないのだとか。それはそれで悪くはないと思う。

 自己主張するのがいいのか、それとも謙って謙譲の態度がいいのかは文化の違いである。どちららがいいというわけではない。実績などというものは、わざわざPRしなくともわかるわけで、それをPRするのは何かガツガツしているような印象を受けてしまう。日本人的には、やはり謙虚なのが好ましいとみな思うだろう。それは孔子の時代の中国でもそうだったのだろう。しかし、現代の中国は自己主張の文化と言われている。2,500年の間に謙譲の文化が自己主張の文化に変わったのであろう。

 孟子反の行為が心地良く思えるのは、我々が謙譲の文化の下にあるからにほかならない。そういう文化に浸って生きてきたし、これからも生きていく。それはとても心地良いものであるし、中国人が失ったそういう心地良さを残していくためには、周りの人も孟子反のような人物をきちんと認めるようでないといけない。そんな意識を持ちながら、心地良い謙譲の文化をこれからも大事にしていきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

 



2022年4月14日木曜日

新人研修

 今月、我が社にも新入社員が5名入社した。社員数80名ちょっとの中小企業にしては毎年このくらい採用しているのであるから、けっこう頑張っていると思う。入社式の後は会社の説明等入社手続きで1日費やし、1日だけ自社内で新人研修を行い、後は外部の新入社員研修に参加してもらっている。他所の企業の同じような新入社員に混じって切磋琢磨する事になっている。

 その1日だけの自社内の新人研修では、まずは社長による企業理念の話からのスタートであった。企業理念については、社長も重視していて、ゆえに最初にこの話からのスタートにしたという次第である。5人とも熱心に聞いていたが、その心の内はいかにと密かに思っていた。と言うのも、我が身を振り返ってみれば、都市銀行に入行した35年前の自分はこのあたりの話はてんで理解しようという気にならなかったからである。

 当時の自分にとって、仕事とは給料をもらうための単なる手段であり、「仕事で夢を実現しましょう」などと言われてもピンとこなかったのである。「俺の夢(の一つは)は働かずとも生きていけること」というものであり、つまり仕事と夢は対局にあるものだったのである。そんな自分が今は夢を持ちましょうという側に回っているわけである。自ずと居心地の悪さを感じてしまう。もちろん、今は当時と違って、夢を持ちたいと心底思っているから、そう言うことに違和感はない。

 社長の話が終わった後、そんな自分の体験談を正直に話し補足した。「夢」と言ってもあまり深く考えず、「仕事をしていく上でなりたい自分」というくらいに捉えてほしいと。それはその通りだと思う。そうすれば、違和感なく受け入れてもらえると思う。「常に夢と誇りを持ち仕事に取り組むこと」というのは、我が社の行動理念の一つである。「夢」とは、そういう仕事上の「夢」と解釈することにしている。

 もう一つの「誇り」であるが、これも当時の私にはピンとこなかったものだと思う。「仕事とは生活費を稼ぐ手段」と言う考えが根底にあり、そういう現実と「きれいごと」を一緒にすべきではないと考えていたのである。もちろん、今も仕事は生活費を稼ぐ手段ではあるが、当時と違うのは「生活費を稼ぐためだけに仕事をしているわけではない」ということであろう。当時であれば、「何もしなくても同じ給料を払う」と言われたら、喜んで何もしなかったと思うが、今はそれでも仕事はする。この違いは大きいと思う。

 そんな今の仕事に誇りを感じているかと言われれば、「感じている」と答える。仕事は大変だけど楽しいし、やり甲斐もある。「仕事にはつまらない仕事などなく、仕事とのつまらない関わりがあるだけ」という言葉があるが、その通りだと思う。どんな仕事であろうと創意工夫で人とは違ったやり方を工夫できるかもしれない。たとえどんな仕事であろうと、自分がやることで他の人との違いを見せられたら気分もいい。

 さらに給料は「稼ぐ」ものであって、「もらう」ものではないという話もした。「もらう」は受動的である。与えられるのを待っているというイメージである。こういうスタンスだと、「言われたことをやる」=「言われないとやらない」ということになり、しばらくすれば立派な「支持待ち族」の出来上がりである。自ら能動的に仕事をこなし、その対価として給料を払わせるようでないといけない。 

 外部研修に参加している新人は、毎日その日の成果を研修日誌にしたためる。講師の方がそれにコメントを加え、WEB形式ゆえに翌日には私もチェックできる。どうしても集合研修は学校の延長のような雰囲気になってしまう。研修日誌にもそんなところが現れていたので、「学校と違い、研修日誌にも給料が払われている」ことを伝えた。「もらう」のではなく、「稼ぐ」内容になっているかと問い掛けた。その答えは明日にでも出るだろう。

 「鉄は熱いうちに打て」ではないが、最初にプロ意識というのをしっかり持ってもらいたいと思う。それは勘違い君であった35年前の自分に対する戒めのようにも思う。彼らがこれからどんな社会人になっていくのか。ひょっとしたら、10年後には彼らに食わせてもらっているかもしれない。そうなったら理想的だし、今日の彼らの姿を心に焼き付けつつ、彼らに恥ずかしくない背中を見せたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 


2022年4月6日水曜日

息子の誕生日

 若い頃から漠然と将来結婚したら子供は2人、上は女の子で下は男の子、いわゆる一姫二太郎を考えていた。そして娘が生まれ、次に息子が生まれた時は念願叶った気がして嬉しかったものである。そんな息子が生まれて、今日で17年である。振り返ってみると、感無量のところがある。娘が生まれた時のダメージがあり、普通の妊娠は難しいと言われた。ダメもとでと試したのは体外受精。それで見事着床。途中で息子だとわかる。

 喜びも束の間、胎児に異常があるかもしれないと医師に脅さた。堕ろすなら早い方が良いとも言われ、暗澹たる気持ちにさせられた。障害児として生まれたら、一生の問題である。産むのが良いのか悪いのか。しかし、産もうと決めたら母親の入院騒ぎ。絶対安静で何ヶ月か過ごして臨月を迎える。退院して通院に代わっていたが、出産は人工的に行うと予定日が決められた。だがその予定日の朝、破水して病院に向かう。私もあらかじめ休みを取っていたのでスムーズに対応。昼過ぎ、私の目の前で息子がこの世に生まれ出た。

 ハイハイからよちよち歩きへ。大人の真似をしようとするが、うまくできずに周囲に笑いを振りまく。幼稚園からかけっこだけは早くと、運動会の前に特訓。ほとんどの運動会で一等賞を取った。ラグビーをやらせたいと思ったが、自分の経験もあって野球もやらせた。息子とキャッチボールというのが父親のベタな夢であるが、私もグローブを買って息子とキャッチボールをした。誘えば嬉しそうに素直についてきて、公園で一生懸命ボールを投げてきた。

 そんな息子も私が通った都立高校よりもワンランク上の都立高校に入学し、既に高校2年生。身長は私を越え、ラグビー部に入らないかなとの私の願いも虚しく、野球部に入った。残念ながら弱小チームで、甲子園はおろか、予選で1、2勝できれば良い方というレベルのようであるが、毎日楽しく練習しているようである。残念ながら勉強は平均点をうろうろ。特に数学に苦戦しているようである。文武両道がモットーの私としては、「野球も勉強も両方しっかりやれ」と言っているが、どこまでやるのやら。

 17歳と言えば、かなり自分というものが確立されてくる。私も17歳の頃はどうだったか思い出そうとするが、どうだっただろうと思うばかり。今と変わらないような気もするが、世界は自分を中心に回っているような気がしていたようにも思う。自分が意外と「普通」なんだと思わされたのは社会に出てからだったように思う。今は、「普通だが一味違う男」でありたいと思っている。息子はどうだろう。世界の中心にまだいるのかもしれない。

 驚くことに息子にはもう彼女がいる。私は高校3年になる前だったから、私よりも早い。私に似てか、イケメンだとよく言われるから当然なのかもしれないが、我が身を振り返って念の為「避妊だけはしっかりやれよ」とアドバイスした。息子に対してそういう性教育は気恥ずかしい思いがあるが、こればっかりは油断はできない。自分は父親にそんなことを言われたことはないが、こればっかりは父親の義務だと考えている。さらにどこで買えるかも教えた。私も最初は夜中にこっそり買いに行ったものである。「当分大丈夫」というのが息子の答えであった。当分っていつまでだろうと思わずにはいられない。

 これから息子にはどんな人生を歩いてもらいたいだろうかと考えてみる。高校生活が終われば大学があり、その先には社会人がある。国立難関大学に合格でもしてくれれば嬉しいと思うがどうだろう。私は執念で突破したが、持てる力以上に出し切ったから大変だったが、それ故に満足もあった。良い大学を出れば就職が有利などという考えは微塵もないが、そこに入る努力の過程と、考える思考回路の育成ができたことが私の場合は今につながっていると思うので、息子にもと思ってしまう。

 就職は、とか考えるのはまだまだ気が早い。大企業に入れば安泰など教えるつもりはないが、大企業に入れば白が付くのは確かである。たとえ転職したとしても、最初に「大手企業に入社した」というのは、個人のプロフィールを飾るに十分である。新人教育もしっかりしているだろうし、社会人としての基礎は身につけさせてくれる。一生しがみ付けなどとくだらないことを言うつもりはサラサラないが、最初に大企業に入るメリットはあると思う。

 その先はとにかく困難にあってへこたれない精神力だけはつけてほしいと思う。安泰な人生を歩んでほしいが、人生の航海は凪いだ海ばかりではない。私も夜中に不安で目が覚めてしまうような経験を何度もした。息子には味わわせたくないが、そうもいかない。であれば耐える、あるいは乗り越える術と精神力とを身につけてほしいと思う。私の経験がそれに生きれば何より。そういう経験談を少しずつこれからしていきたいとも思う。日々逞しくなっていく我が息子であるが、これまでの日々を思いつつ、これからの人生にエールを送りたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
  


2022年4月4日月曜日

現代の同棲

 知人の娘さんが同棲したいと言い出したそうである。母親は大反対。父親である知人も内心は反対であるが、真っ先に母親が反対の声を挙げたのでとりあえずは態度保留状態らしい。両親とも私とはひと回り上の昭和世代。真っ先に浮かぶのは、「何で結婚しないの?」という疑問。私も同じ感覚なのでよくわかる。同棲となれば、男には都合が良いが、女には不利との感覚が残っているのが昭和世代。女性の婚前交渉はタブーというかつての感覚がかろうじて理解できる世代である。

 頭を抱える知人。他人事だから冷静に聞ける私。しかし、娘を持つ身としては同じ。自分だったらどうするだろうとふと考える。確実に言えることは、反対しても火に油を注ぐだけだということ。恋愛は反対されてもそれで火が消えることはないということは、「ロミオとジュリエット」を筆頭に古今東西枚挙にいとまがない。だから、もしも娘がどうしても自分の気に入らない男を連れてきたとしても、頭から反対することだけはしないでおこうと今から決めている。

 そう考えると、一体どんな男だと気に入らないのだろうかと考えてみる。まずは無職のチャラ男だろうか。しかし、無職であったら娘も選ばないかもしれないという希望はあるが、「イマドキの」男はみんなチャラ男に見えてしまう気がするのはどう我慢しようかと思うと悩ましい。年の差がある場合も不快感が湧くだろう。特に娘より私との年齢差の方が近かったらと考えると気が遠くなる。こっそり跡をつけて夜道で襲うかもしれない。マザコン野郎も許しがたいものがある。まだまだ列挙できそうであるが、やめておくとする。

 そもそも親が子供の結婚に反対する理由は何だろうかと思う。基本的に親は子供に幸せになって欲しいと願う。だから、子供が幸せになれそうな相手だったら反対はしないだろう。それは男であれば相手の職業だろうし、女であれば家庭的なところがあるといったところであろう。親には自分の「経験」というものがある。二十代の頃にはわからなかった世の道理というものがわかっているが、子供にはわからない。そこから必ずしも「愛こそすべて」というわけではないという「現実」がわかっている。そのギャップこそが対立の元になる。

 昨年、実施された「親に反対された相手と結婚した男女185人を対象に実施した調査」によると、「両親共に反対」という割合は32.4%だったのに対し、「母親だけが反対」という割合は半数以上の51.9%にも上ったそうである。件の知人の例もその典型というわけである。ちなみに反対の理由の第1位は「相手の収入が十分でない」(22.7%)で、第2位が僅差で「態度や性格が気に入らない」(22.2%)だったという。知人の奥さんは、正確に言うと「同棲に反対(要は結婚しろ!)」ということだから、ちょっとニュアンスは異なるかもしれない。

 「同棲」という言葉には、どこか甘美な響きがある。それは「神田川」のようなフォークソングに歌われた世界であり、当時小学生だった私からすると、漠然と憧れる大人の世界の印象が強い。どちらかと言うと、「男にとって都合がいい」という印象があるが、実は件の知人の場合は、乗り気なのはお嬢さんの方らしい。曰く、「そこで相手を見定めて良かったら結婚する」という。甘く甘美な世界は今は昔であり、現代は極めてシビアな選別の場なのかもしれない。

 母親と口論となった知人のお嬢さん。「結婚すべき」と説くお母さんに対し、「江戸時代かよ!」と賜ったらしい。せめて昭和か大正だろうというツッコミは抜きとしても、現代っ子の感覚はまた我々のそれとは当然違う。もしも娘が「同棲したい!」と言い出したらどうするだろうか。相手には目を瞑り、「娘の人生だから」と思って何も言わないでおく方が無難なのかもしれない。「娘が幸せになるのであれば、その形は問わない」と今から覚悟を決めておくしかないのかな、と思うのである・・・


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【本日の読書】
 


2022年3月21日月曜日

論語雑感 雍也第六(その14)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子游爲武城宰。子曰、「女*得人焉耳乎*。」曰、「有澹臺滅明者、行不由徑。非公事。未嘗至於偃之室也。」
【読み下し】
子游(しいう)武城(ぶじやう)の宰(さとをさ)爲(た)り。子(し)曰(いは)く、女(なんぢ)人(ひと)を得(え)焉(た)る耳(のみ)乎(か)。曰(いは)く、澹臺(たかだい)あるも明(めきき)を滅(ほろぼ)す者(は)、行(ゆ)くに徑(たてみち)に由(よ)ら不(ざ)ればなり。公事(おほやけごと)に非(あら)ずと。未(いま)だ嘗(かつ)て偃(えん)の室(むろ)於(に)至(いた)らざるなり。
【訳】
子游は武城の代官をつとめていたが、ある時、先師が彼にたずねられた。「部下にいい人物を見つけたかね。」子游がこたえた。「澹臺滅明という人物がおります。この人間は、決して近道やぬけ道を歩きません。また公用でなければ、決して私の部屋にはいって来たことがございません。」

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 会社というのは、組織で仕事をする場である。組織で仕事をするということは、個人でするよりも大きな仕事をすることができる。1人より2人、2人より3人と多い方がより大きな仕事ができる。と言っても、数に単純比例するわけでもなく、人には考え方の違いがあり、能力の違いもある。1人が2人分以上の成果を上げる場合も当然ある。優秀な人間はやがて部下を使うようになる。どんな組織であれ、有能なリーダーがいる組織の方が強いのは当然である。そしてそんな有能なリーダーの下で働く有能な部下もまた然りである。

 有能なリーダーももとは、有能な1プレーヤーから始まっている。その実績が認められ、リーダーに任命されるわけであるが、有能なプレーヤーであることは有能なリーダーであることを約束しない。なぜなら、自分がプレーすることと、部下をマネージすることは違うからである。チームとして思うような実績を挙げられず、それも部下が思う通りに動かなかったりすることが原因だったりすると、リーダーの能力が疑われてしまうかもしれない。部下を思う通りに動かしチームとして実績を挙げるというのは、また別の能力であると思う。

 部下が有能であればそれに越したことはない。実際、有能な部下とそうでない部下とでは雲泥の違いがある。私も初めての部下が有能でないタイプであり、思う通りに係を動かせずに当時の支店長によく怒られたものである。支店長も実情はよくわかっていて、部下の仕事もしている私を見かねて終いには部下を変えてくれた。新たに転勤してきた部下は実に有能な男で、係の仕事が面白いようにスムーズに回るようになった。こんなに違うのかと驚いたものである。2人の部下の何が違うのかと言えば、それはやはり「考え方」であったと思う。

 当時、我々は非常に多忙な環境にあったが、新しい部下は仕事に優先順位をつけ、優先度が低い仕事は遠慮なく後回しにし、事前準備を徹底して仕事の効率化を図り、前任者の倍くらいのペースで仕事をこなしていった。おかげで私も部下の仕事のカバーに向けていた手間を本来の自分の仕事に向けられたので、係の仕事もすべてがスムーズに回り出した。「使えない部下はいない、部下を使えない上司がいるだけ」という言葉を私は気に入っているが、「使える部下」がいると上司も仕事ができるようになる。それは紛れもない事実である。

 私にとって「いい部下」とは、やはり第一に「考え方がしっかりしている部下」である。何より「人は考え方でできている」と考える私としては、これが第一である。これができていれば自ずと仕事もできるであろう。そういう有能な部下がいれば、自分は本来自分がやるべき仕事ができるし、そうすればチームの業績も上がるだろう。1人ひとりが自分のやるべき仕事をきっちりこなせるチームほどそのパフォーマンスは最大に近づくものである。そこはまず第一に挙げたいと思う。

 孔子と子游の会話の中で、子游は澹臺滅明という部下を評して「近道やぬけ道を歩かず、公用でなければ決して私の部屋に入ってこない」としている。私とは異なる考え方である。「近道や抜け道」が何を意味しているかは不明だが、大事なのが「目的地に着く事」であれば、通る道は違法でない限り問題はないと私は考える。それに用がなくても気軽に部屋に入ってきてほしいと思う。雑談の中からお互いの理解が深まったり、貴重なヒントを得られたりするものである。部屋のドアは常に開けておきたい私としては、澹臺滅明という部下はちょっと使い難いかもしれない。

 最も当時の(今もか)中国では、賄賂などの不正行為がありふれていたのだろうし、澹臺滅明のような「堅すぎる」スタンスこそが信頼につながったのかもしれないから、一概にはなんとも言えない。人はやっぱりコミュニケーションによって信頼は深まるものであるし、部下と以心伝心的な関係を築くにはコミュニケーションは欠かせない。そしてそんなコミュニケーションは、いつでも「ちょっといいですか」と話しかけられる関係がないと取り難いし、用がなくても部屋に来て雑談を交わすような関係も大事だと思う。そして上司たる自分は、そんな部下が気軽に入って来られるよう、部屋のドアは常に開いておきたいと思うのである(部屋はないけど)・・・


【今週の読書】
 



2022年3月17日木曜日

ハラスメント

 4月1日から通称パワハラ防止法が中小企業に適用になる。特に何か複雑な準備をしないといけないというわけではないが、とりあえず我が社の中ではどうなんだろうと考える。中間管理職の中には「厳しい」と評判の課長がいるが、差し当たりそのあたりが気をつけないといけないところかもしれない。今年、定年退職となった嘱託社員のおじさんが総務部の女性のお尻をすれ違いざまに撫でていくのを目撃したことがある。「今の時代に何と大胆な」と感動を覚えたものであるが、触られた方も大人な対応が見事でなかなかやるなぁと感心した次第である。そんな光景を目にすると、セクハラはあまり気にしなくてもよさそうな気がしている。

 それにしても調べてみると、ハラスメントにもいろいろある。妊娠や出産、子育てを理由とした嫌がらせや不利益な取り扱いをする「マタニティ・ハラスメント」なんていうのもあるし、相手の意見をことごとく拒絶したり、わざと実行不可能な仕事を依頼したりして精神的な苦痛を与える「モラルハラスメント」というのもあるらしい。男らしさや女らしさを強要する「ジェンダーハラスメント」というのもあれば、パソコンやスマホなど、ITスキルの弱い人に対する嫌がらせや相手を困惑させる「テクノロジーハラスメント」などは、部下から上司に対するハラスメントになる可能性もある。

 「自分は大丈夫」なんて思っていると、匂いによって周囲を不快にさせる「スメルハラスメント(スメハラ)」なんていうのもあるらしい。こうなると体臭や口臭など自分では気がつかない可能性があり、私も恐ろしくなってしまう。何でもかんでも「ハラスメント」にしてしまうのはいかがなものかと思わざるを得ない。「過ぎたるは及ばざるが如し」というが、行き過ぎた規制や注意喚起はかえって人との交流にブレーキをかけるような気がする。こうした時代の流れは良いのか悪いのか、その判断は難しい。

 私が社会人デビューした1988年当時は、もちろん「ハラスメント」なんていう言葉は存在しなかった。もちろん、怒られることは多々あったし、理不尽な扱いに腹正しい思いをすることもよくあった。私は、どちらかというと精神的にはタフな方であり、威圧的な言動などがあっても怒られても、それでメンタルをやられるなどということは皆無であったし、それはこれからもないであろう。それよりも何よりも我慢できなかったのは「理不尽」であろう。筋が通っていれば、怒られても素直に反省できるものである。

 まだ3年目くらいの若手銀行員時代、当時温和で怒ることなどあり得ないような支店長に怒られたことがある。と言ってもやっぱり声を荒げることなどなかったが、何より言うことがもっともであり、確かに自分の考えが至らなかったこともよくわかって深く反省した。怒鳴られたとしてもそこに筋が通っていれば、反省の心が強く怒り、もう絶対に繰り返さないという思いだけでメンタルを病むなんて欠片もあり得ない。そういうものだと思う。

 考えてみれば、セクハラも笑って許せる相手もいれば、不快な気分になる相手もいるという。要は「その人自身」の問題であろう。それはセクハラに限らず、ほとんどのハラスメントにあたることなのではないかと思う。そしてそれは日頃のコミュニケーションにあるのではないかと思う。その行為が「ハラスメント」と取られない人というのは、やはり日頃から相手を尊重してきちんと接している人ではないかと思う。特に部下など自分よりも弱い立場の人に対して、そういう考えで接している人はハラスメントなど気にしなくても良いような気がする(スメハラはわからない)。

 自分はどうだろうかと振り返ってみると、とりあえず自分の意識の中ではできていると思う。イラッとすることはよくあるが、それをグッと堪えて温和に話をしている。相手が上司であればグッと堪えるはずで、それと同じ対応を取れば良いのであると自覚している。「相手によって態度を変える」のは、自分の中では恥ずべき行為だと、過去の何人かの反面教師に教わっている。これはたぶんこれからも変わらずに続けられると思う。ハラスメントに関しては、自分は(スメハラ以外は)心配ないのではないかという気がしている。

 組織としてはどうだろうか。そこは仕事としてきちんと考えていきたいが、「自分を手本にしろ」と言えるように、これからも振る舞いたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
  



2022年3月13日日曜日

批判に対抗するには

 転職してはや半年が過ぎた。もう仕事には慣れ、自分のペースで周りのみんなにも満足される仕事ができていると思う(たぶん)。他の部署との連携も気をつけているし、各部の部長と個別に話を聞いたりしてうまくやっているつもりである。その中で一つ気になるのは、その場にいない人の批判意見を耳にすることである。その内容は、それなりにもっともであり、私も問題だなと感じる。しかし、そこで批判されている当人に、別の機会にさりげなくその話を聞くと、きちんとした意見が返ってくる。それなりに理由はあるのである。

 人は誰もが自分の人生の主人公。常に(自分なりに)正しい意見を持ち、(自分なりに)正しい行動を取っている。他人から見れば、そこに批判の余地はあるのかもしれないが、その人なりに理由はあるのである。逆にその人からは、批判していた人に対する逆批判の意見もあり、聞けばそれももっともなのである。そうした双方批判を聞けば、どっちもどっち感が強いが、世の中的にはそういうものなのだろうと思う。自分では正しいと思ってやっているが、他人から見るとそうではなかったりするものなのかもしれない。

 ふと、自分はどうだろうかという思いが脳裏を過ぎる。自分では常に良かれと思うことをやっている。正しいと思う行動を取っている。しかし、他人から見えている自分の姿が見えているわけではない。自分ももしかしたら批判されているかもしれない。最近は、そういう批判の気配はまったく感じない。だから大丈夫というわけではなく、気がつかないだけかもしれない。そういう批判があるのかどうかは気になるところである。ないと信じたいが、そう考えるのは楽観的過ぎるかもしれない。

 他人からの批判に対しては、自分はけっこう凹むタイプかもしれないと思う。よくネットで中傷され、それを気に病んでしまうという話を聞いたことがある。そんな人を弱い人間だなどと言うことは自分には無理かもしれない。もしも、私が自分に対する批判や陰口などを耳にしたら、けっこう堪えるに違いない。その昔、菅直人元総理の話を聞く機会があったが、印象的だったのは、「メールが100万通来ればそのうちの999,999通がである」というもの。それこそ日本全国から来るのだから、私だったらとても耐えられないだろう。

 批判されるのが怖いと、自然と私の行動は「良い子ちゃん」になっていく。批判されないようにしようと思ったら、常に他人の視線を意識しないといけない。自分の勝手な考えではなく、誰もが納得するような考えに基づいた行動を取るようになる。少なくとも、そういう意識を持つようになる。批判を恐れる自分としては、そのあたりをかなり意識している。そしてなるべく人の意見を幅広く聞くようにしている。そうすることで、早めに批判の素をキャッチできれば、修正も容易いと思うからである。

 しかし、それでも完璧ではないと思う。必ずどこかに批判の的はあると思う。それに対しては、説明責任を果たすしかないと考えている。「自分はなぜそういう行動を取るのか」をきちんと説明するしかない。その上でそれを批判されたのであるのなら、そこは「もう考え方の違い」でしかない。そして考え方の違いは、万人が皆同じでない以上は仕方がない。カツ丼よりカレーの方が好きと言う人もいれば逆の人もいる。どちらが正しいとは言えない。ゆえに説明責任を果たしてそれでも批判されるならそれはそれで仕方ないと思うしかない。

 そう考えているので、私はけっこう物事はよく考えて行動していると思う。他人からの批判が怖いからこそ、慎重にその行動の理由を考えている。自問自答して説明できるかを考えている。さらには、他人から意見をもらった時には、素直に耳を傾けている。もしかしたら自分が間違っているかもしれないと考えて聞いている。もちろん、間違っていると感じたら直ちに改めるようにしている。特に部下からの意見に対しては敏感に反応している。部下こそは最も批判の声が聞こえてこない相手だと思うからである。

 もしかしたら、部下は私のことを「よく話を聞いてくれる上司」だと思っているかもしれない。しかし、それは物分かりのいい上司というよりも、批判が怖いだけというのが実態である。本心がバレたらけっこうみっともない。しかし、話を聞いてもコロコロ自分の意見を変えるわけではない。それはそれでカッコ悪いからである。ただ、反対意見を聞いてもそれでもやる場合は、きちんとその理由を説明している。考え方の違いは仕方のないことであり、ただきちんと説明することだけはするようにしている。そうすれば後で批判されても自分に言い訳できるから、心の負担も軽くできる。

 結局、残念ながら批判は防ぐことはできない。できるのは、説明責任を果たし、批判に対する受け身を取ることぐらいである。いたずらに批判を恐れて身を縮めるよりも、「きちんとした説明」という防弾チョッキを着込むしかない。その昔は読心術を身につけられたらいいなと思ったことがあったが、今ではそんな能力は怖くて身につけられない。好評価ならいいが悪評であれば耐えられないからである。幸い、そんな能力はないので、聞こえてこないことが何よりである。聞こえないのが批判がない証拠なのかはわからないが、防弾チョッキだけはしっかり身につけていたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

2022年3月10日木曜日

今の若い者は・・・

  4月1日から通称パワハラ防止法が適用となるにあたり、弊社でも最後の準備を進めている。すでに大企業では適用がスタートしているが、中小企業は猶予されていたのであるが、その猶予期限がいよいよ到来というわけである。パワハラ、セクハラなどというと、ついつい「昔は当たり前だった」と言いたくなる。私なども若手の頃、中年の営業課長から「社内の女の子はお尻の一つも触ってやってコミュニケーションを取るものだ」と言われたものであるが、ついぞそんなコミュニケーションを取る勇気もなく終わったものである。

 怒鳴られるのも当たり前。私が一年目に仕えた上司は厳しい人で、ある時など主任さんが半日立たされていたことがあった。私はその時、上司のすぐ目の前に席を置かれていたので、横に立っている主任さんが気になって仕事どころではなかった。私もその上司に怒られたことがあるが、負けん気も強かったので気にもならなかった(モノには当たっていたが・・・)。なので怒られてシュンとなってしまう者の事など理解できないが、人は皆強いわけではないから、おかしいと言うつもりもない。ただ、当時はそんなこと問題にもならなかったのは確かである。

 ついつい、「今の若い者は」と言いかけて、はたと気づく。自分もいつの間にかそんな陳腐なセリフを吐くようになってしまったのだろうかと。私も若い頃は、確かにそう言われていたと思う。自分では何がおかしいのかと反発していたものである。「そちらの考え方こそおかしい」と。実際、何よりも仕事優先の考え方は理解できず、単なる「社畜」じゃないかと思っていたほどである。休みの日すら嫌々ながら会社の行事に繰り出して陰でボソボソ文句を言っている。「嫌なら行かなきゃいいじゃないか」と思っていたものである(実際、私は堂々と拒否して顰蹙を買っていた)。

 さらに支店の計画を考えると言って、休みの日にわざわざ会議に出さされたのにはつくづく閉口した。「平日にやれよ」と。そして今、来期から3年計画を立てるにあたり、経営幹部で土日に合宿をやろうという話が出ている。もちろん、私もそれに加わる予定である。昔はあれほど嫌だったのに、今はむしろ積極的に参加する自分がいる。それはペイペイだったあの頃と比べ、今は幹部の一員という立場の違いが大きい。仕事は大事だし、仕事であれば、休日を潰すのも苦ではない(もちろん、ワークライフバランスでその分平日に休みを取るが・・・)。私自身、あの頃と何ら変わってはいない。変わったのは、「立場と経験」であろうか。

 若い頃は、プライベートが何より重要で、「遊ぶために働いているのだ」という意識であった。今も基本的には変わらないが、あえて言うなら「遊ぶ前に働く」という感じであろうか。楽しく充実したプライベートを過ごすために、楽しく充実した仕事をするのである。仕事は生きるための苦行ではなく、楽しみの一つである。ただ、会社の若い人にそんな考えの人はいそうもなく、そんな話をしたら煙たがられるであろうことは間違いないだろう。それはやっぱり経験の差だろうと思う。若者もさまざまな経験を経て中高年となる。経験を積んだ人間とそうでない人間には自ずと考え方に差が出るだろう。「今の若い者は」ではなく、単に経験の違いだけなのであろう。

 その昔、お世話になった支店長からは「仕事の報酬は仕事だ」と言われ、内心ひどく反発したものである。「報酬なら金をくれ」と。今はその言葉はその通りだと思う。仕事で成果を挙げれば次にもっと大事な仕事を任される。そしていつの間にか会社の中心にいるようになり、会社を動かす立場になれば仕事もさらに面白くなる。「今の若い者」もそんな経験を積めば、いずれ私と同じ境地に達するだろう。お世話になったあの支店長に、今の私の姿を見ていただきたいとつくづく思う。

 そう考えると、目の前にいる若い社員たちは、「あの頃の自分」なのだと思う。かつて新人類と言われた私より少し下の世代も、今は嘆く側である。そう考えると、今の若い者を嘆く前に理解する必要がある。あの頃の自分を思い出して。目の前にいるのは若い頃の自分である。そう考えて接したいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 



2022年3月7日月曜日

論語雑感 雍也第六(その13)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子謂子夏曰、「女爲君子儒、無爲小人儒。」
【読み下し】
子(し)、子夏(しか)に謂(い)ひて曰(いは)く、君子(なさけびと)の儒(じゆ)と爲(な)れ、小人(ただびと)の儒(じゆ)と爲(な)る毋(な)かれ。
【訳】
孔子が子夏に言った。
「お前は君子の学者にならねばならぬ。小人の学者になってはならぬ。」
************************************************************************************

 子夏というのは、孔子の弟子なのであろう。師が弟子に学者になるにしても小人の学者ではなく、君子の学者になれと諭している。君子の学者とは、おそらく世のため人のためになる学者ということであろうと解釈する。自分のことだけを考えるのではなく、世の中のことを考えろということなのではないかと思う。それは何も学者だけに言えることではなく、あらゆる職業に言えることのように思う。君子の政治家、君子のサラリーマン、君子の医者・・・

 人間、誰でも我が身がかわいい。何よりも自分のことを優先するのは、当然と言えば当然である。ただ、それでもあえて自分以外の人のことを少しでも考えられる人が「君子」なのだろうと思う。まずは自分の配偶者、子供、親兄弟。そして友人になり、職場の同僚になり、顧客であり、袖擦り合う人であり、見ず知らずの赤の他人と君子の度合いが高まるにつれ、だんだんその範囲が広がっていく。そして世の中の人すべてとなると、もう大君子と言えるのかもしれない。

 逆に自分のことしか考えられない人というのは、小人ということになる。ではどうしたら君子になれるであろうか。日頃からそう心掛けることはもちろん大事であるが、それだけで君子たることはできるのであろうか。人間、比較的余裕のある時は誰でも君子に近づけると思う。お金を貸してくれと言われた時、1億円持っている人なら、1万円くらい躊躇せずに貸せるだろう。1万円どころか10万円でもそうだろう。しかし、10万円しか持っていない人であればどうだろう。それが2万円だったら、まず躊躇するだろう。

 君子のように振る舞うことはそう難しいことではない。余裕があれば。しかし、余裕がなければ簡単ではない。日常でもたとえば買い占めなどという行為は、明らかに自分のこと(せいぜい自分の周りの人まで)しか考えていない。震災の時などスーパーの棚から物がなくなったが、あれは万が一に備えて自分達だけ準備しようという小人的発想に他ならない。人間には自己保存本能があるから、それが悪いとは言わないが、ただ君子的ではないことは確かである。

 そうしたことは、日常に溢れている。電車の中で席を譲ったり、エレベーターに乗った時に、我れ先に降りるのではなく、他の人を優先させてその間、開閉ボタンを押していたり、職場でフロアーに落ちているゴミを拾ったり、溜まっているシュレッダーの屑を率先して捨てたり。他人のために少しだけ苦労を背負う行為が、君子的と言えば君子的なのかもしれない。自己満足で終わるのではなく、世の中の人が少しでも幸せになることを考えられる学者になれと孔子は弟子に諭しているのだと思う。

 そうした君子であることが何になるのか。もちろん、より世の中には君子と呼ぶべき立派な人も大勢いる。しかし、大半の人はそれほどではない。小人もたくさんいるだろうし、というよりそれがほとんどのように思う。世のため人のためよりはまず自分。自分にゆとりがなければ人のためになどと言ってられない訳であり、そして自分のことで精一杯で終わってしまう。それはそれで仕方ないことであり、責められるべきことでもないと思う。それゆえに、君子たる者が尊敬されるべきだと思うのである。

 自分が君子たりえているかというと、それほどではない。小人とまではいっていないと思うが、謙遜を抜きにしても君子レベルと胸を張れるものではない。それであるからこそ、君子のサラリーマンになりたいとは思う。なぜなら、会社では給料は多い方に属する(少なくとも上から数えられる)。世間的に言えば多くはないが、我が社の中という限定された中では多い方である。となれば、その分、社員のみんなのことも考えないといけない立場である。そういう自覚を常に持ちたいと考えている。

 年齢的にも50代後半となれば、自分のことだけ考えているのもみっともないと思う。もちろん、還暦を過ぎても自分ファーストな人はいるが、それは他山の石としたいところ。少しでも高みへ。君子のサラリーマンを目指したいと思うのである・・・


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【本日の読書】
  



2022年3月2日水曜日

ロシアのウクライナ侵攻を憂う

 ロシアがウクライナに侵攻してはや一週間が過ぎた。事前に相当期間に渡って警告されてはいたものの、まさか本当に侵攻するとは思わなかったので、個人的には驚きである。クリミア半島を手中に収めて満足していたのかと思っていたが、どうやらまだ火種は燻っていたらしい。なぜロシアがウクライナに侵攻したのかというと、それはウクライナのNATO加盟を阻止するためだったと言われている。

 ウクライナがNATOに加盟すると、ロシアの目と鼻の先にNATO(つまりアメリカ)のミサイルが配備されてしまうからであるとされているが、専門家によるとそれに加えてロシア側の軍事情報も渡ってしまうからだという。侵攻すれば経済制裁を受けるというのはわかっていたであろうし、それによる深刻な経済的影響もわかっていたであろうが、それ以上にウクライナのNATO加盟がロシアに与えるダメージが大きかったのであろう。

 アメリカ及び先進国は一斉にロシアを非難し、経済制裁に入ったが、そもそもそれにも違和感を禁じ得ない。なぜなら、事前にプーチン大統領がウクライナをNATOに入れるなと要求していたのに対し、応諾していれば今回の侵攻もあり得なかったはずである。本気で軍事的衝突を回避しようと思うのであれば、簡単にできたわけである。それをやらなかったのはなぜなのか。それこそが、何百年と続いている人類の戦争の原因そのものである。つまり、「領土(あるいは資源)分捕り合戦」である。

 戦争の歴史は、この「領土(あるいは資源)分捕り合戦」である。それが現代でも連綿と続いているわけである。アメリカはソ連の崩壊を機に一気に旧東側諸国を自らの軍事同盟であるNATOに引き入れ、今回さらにウクライナを引き入れようとしていたわけである。ロシアはそれを阻止しようとしていたわけであり、まさに領土分捕り合戦である。アメリカは正義の味方ぶっているが、アメリカがちょっかいを出さなければロシアも実力行使に出なかったわけである。

 ウクライナもそういうロシアの考えはわかっていたであろうし、わざわざNATOに入ろうとしなければよかったわけである。ましてやNATOは「軍事同盟」である。それも仮想敵国はロシアである。EUのような経済同盟ならまだしも、わざわざロシアの目の前で入る理由はないだろう。もちろん、だからと言って軍事侵攻するのは仕方がないなどという気はないが、そういう背景事情をきちんと理解していないと、表面的な事実だけ見ていても物事は解決しないと思うのである。

 およそ大国は今でも世界で分捕り合戦をやっている。今回は正義感ぶっているアメリカも石油資源をめぐってイラクに侵攻したのは記憶に新しい。時のフセイン政権を「大量破壊兵器を隠している」という理由をでっち上げて、圧倒的な軍事力で葬っている。ロシアを非難できる筋合いではない。そして最近は中国が台頭してきてアメリカに挑んでいる。台湾を狙い、我が国の尖閣諸島や沖縄を狙っている。どうして他人から分捕ってまでして奪おうとするのだろうか。平和に暮らそうという発想ができないのだろうか。「奪い合えば足らぬ、分け合えばあまる」というあいだみつおの言葉を教えてあげたくなる。

 それはともかく、一刻も早い停戦が望まれるわけであるが、相当の覚悟を持って軍事侵攻したロシアをストップさせるにはなかなか難しいものがあると思う。しかし、いち早く停戦させようと思えば、経済制裁よりももっと効果的な方法がある。それはウクライナをNATOには加盟させないと欧米が約束することである。まさにプーチンがそれを望んで公言しているわけであり、これほど簡単なことはない。あるいはウクライナ政府自体がそれを約束すれば済む話である。実に簡単である。

 返す返すもNATOは「軍事同盟」である。「そんなの自由だろ」というものではない。軍事同盟の加入を巡って軍事力の行使に至っているわけであるから、ある意味、責任はNATOとウクライナにもあると言える。ロシアが北方領土を返還しないのも、北方領土に日米安保に基づいてアメリカのミサイルを配備されるのを嫌っているからだと言われている。あちらでもこちらでも、アメリカの裏の顔がちらついている。大国の領土・資源分捕り合戦はいい加減にしてほしいと思わざるを得ない。

 いつまで分捕り合戦をやっていれば気が済むのであろう。みんなで譲り合って暮らせないものなのかとつくづく思うのである・・・


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【本日の読書】