2024年8月25日日曜日

自慢話について

 少し前だったが、役員研修を受けた時の話である。「取締役とは」という内容で、取締役の役割について改めて学ぼうというものであった。私からすれば内容的には特に目新しいものはなかった。取締役の役割など分かりきっていたし、その内容は私の理解からズレるものではなかった。こういう時、私はわかっているからとスルーするのではなく、「自分だったらどんな講義をするだろうか」という視点で捉える。そうするとまた違った勉強になるからである。そういう視点では有意義な研修であった。

 その時、一緒に受けたのは我が社の先輩取締役。実はその先輩取締役がどうも取締役の役割を理解していなくて、それで一緒に受けてもらったという経緯だったのである。「どうでしたか?」と終わってから尋ねたところ、「自慢話ばっか」と辟易したような表情で答えが返ってきた。確かに、講義の中で講師の方の「成功体験」がいろいろと語られていた。「成功体験」であるから見方によっては自慢話になってしまうのだろう。むしろ、そちらに意識が行っていたとしたら、あまり話は響かなかったのかもしれない。

 野村監督の本を何冊か読んだ事がある。主として野球の話ではあるが、いろいろとビジネスや人生に通じるものがかなりあり、読むべき価値は高い本だと思っている。ただ、「自慢話」が多いのも確かである。阪神のエースだった江夏が南海に来た時、本人を説得してリリーフに回して大成功した話は繰り返し出てくる。当時は今のようにピッチャーの分業体制は一般的ではなく、「先発完投こそが投手」という時代である。リリーフ・エースの先駆けであり、それは凄いと思う。

 その話は確かに「自慢話」ではあるが、「自慢話」と捉えてしまうとどうしても反発心が出てきてしまう。人は誰でも他人の自慢話ほどめんどくさいものはない。しかしながら、そんな自慢話満載の野村監督本を何冊も読んだのは、その中に込められたエッセンスに惹かれたからである。要は自分の「為になる」話が多いのである。単に面白いエピソードというのももちろんあるが、自分の中に取り込みたいものもある。だから、次々と読んだというわけである。

 考えてみれば、研修の講師の話もそうであるが、「こうやったらうまく行った」という実際の成功事例は、理屈ばかりの話よりもよりイメージしやすいという利点がある。実際の成功例だから尚更である。そうなると、理屈を補強する手段としては、実際の成功体験はあった方が良いとわかる。しかし、実際の成功体験は、見方を変えれば「自慢話」に他ならない。それを排除してしまうのは残念な話である。

 実際の体験談を「成功事例」と捉えるか、「自慢話」と捉えるかはひとえに受け手の問題だと言える。せっかくの研修で、私はそれなりに有意義だと感じられたものを件の同僚取締役は「自慢話」のオンパレードとしか捉えられなかったわけである。結果的にも彼にとっては意味のない研修に終わってしまったようであり、同じ研修を受けながら結果が違って出たというのは、やはり受け手の捉え方に他ならないのだろう。

 同じ経験をしながらもその経験を生かせる人と生かせられない人がいる。それは受け止め方の問題であり、その人の心のあり方の問題でもある。「賢い者が愚か者から学ぶ事の方が、愚か者が賢い者から学ぶ事よりも多い」とはモンテーニュの言葉として知られているが、その通りだと思う。悦に入って自慢話に耽る人も確かにいて、それはあまり心地良いものではない。自分の成功体験は確かに心地良いし、他人のそれは煩わしい。しかし、何かを伝えたい時に、成功体験は欠かせないツールでもある。

 教訓として、他人の自慢話はそのエッセンスを汲み取って自分の血肉にするように聞き、自分の自慢話は何か伝えたい事の具体例としてのみ控えめに語るという事になるのだろうか。自分が悦に入らないように、意識したいと思うのである・・・



EliasによるPixabayからの画像

【今週の読書】
グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない (&books) - ロバート・ウォールディンガー, マーク・シュルツ, 児島 修  もう明日が待っている (文春e-book) - 鈴木 おさむ




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