2024年8月28日水曜日

友人K

 友人Kは、私の銀行員時代の友人である。銀行内の研修で隣に座ってからの仲で、いろいろと共通点が多く、その場で意気投合。後に同じ職場になった事からも親しくしてきた。私が銀行を辞めてからも何度か2人で飲みに行ったりした。しかし、最近は疎遠になってしまっている。お互い職場が違うというのもあるが、それ以上に何か私の方が原因で彼に距離を置かれてしまっているような気がしてならない。何度か誘ってはみたものの、多忙との事で色よい返事はなく、返事すらなかった事もある。鈍い私でも何となく感じるところがあってそれ以上声はかけていない。

 もしかして私の気のせいで、本当に忙しかったのかもしれないし、メールも見ていないか気がつかないのかもしれない。ただ、何となく感じるだけなので何とも言えない。はっきりとわかればいいのだが、もしも会いたくないのなら直接言うのも憚られる事だろうし、たぶん私が知ることはできないのだろう。そういう相手が他にも1人いるし、私にも良くないところがあるのだろう。何がいけなかったのかと考えてみるも、残念ながらこれと言った原因は思い浮かばない。

 あれこれと考えてみると、まったく思い浮かばないという事でもない。何かと考え方も同じで息が合った彼であるが、唯一意見が合わなかったものがある。それは「仕事に対する考え方」であった。私は仕事は楽しいし楽しむものという考え方だが、彼は仕事は辛くて厳しいものでありやりたくないものという考えであった。退職してから何度か彼と飲みに行ったが、私は仕事が楽しいという話をしたと思うし、彼もそれに対して異を唱えていなかったが、内心では快く思っていなかったのかもしれない。

 退職後の収入も違っていた。銀行員時代は同じ職責だったのでほぼ給料は同じだったと思うが、私が退職し、彼が子会社に転籍して収入に差がついた。お互いに年収はダウンしたが、私は3割減、彼は半減という感じである(ちなみに今は銀行員時代の年収にほぼ近い)。銀行は52〜53くらいを目途に関連会社に移るか他社に転籍するか、銀行に残るにしても一旦退職して退職金をもらい特別職員となるのである。そこで年収はぐっと下がる。銀行としては人件費を抑える必要もあり、そういう制度を設けているのである。彼は関連会社へと転籍したのである。

 銀行というところは、心穏やかに働けるところではない。全部の銀行とは言わないが、最近読んだ『メガバンク銀行員ぐだぐだ日記』によると、みずほ銀行(筆者は富士銀行出身)でも似たような状況だったので、どこもかしこも似ているのかもしれない。何より一番のストレスは人間関係である。私も仕事自体は面白いと思っていたが、特に上司との関係は最大のストレス要因であった。簡単に言えば意見が合わないのである。

 意見が合わないのは仕方ない部分もあるが、私の建設的な意見を「石橋を叩いても渡らない」的な保守的・保身的考えで否定されるのは本当にストレスであった。そんなエピソードは数えきれないほどある。彼ともよく互いの愚痴を言い合っていたが、転職後は私はそういうストレスからは解放されてのびのびと仕事をした(前職では「そうせい候」の社長の下、ほとんど1人で会社の経営を担っていたほどである)。それを彼に楽し気に語ったのが面白くなかったのかもしれない。

 彼は仕事を続けたくなかったのだろう、今年定年退職している。私はと言えば、住宅ローンも残っているし、息子はまだ大学生だし、定年退職など夢のまた夢であるからうらやましい限りではあるが、たとえゆとりがあったとしても仕事は続けるだろう。それは仕事を楽しめている(ストレスを感じていない)からに他ならないが、その点でも彼とは話が合いそうもない。たぶん、飲みに行ってお互いに現況報告になったら、彼に不快な思いをさせてしまうのかもしれない。

 すべては想像でしかない。本当のところはよくわからない。私の方にはなんのわだかまりもないが、彼の方には何か私の気づかないものがあるのだろうかと思ってみる。それがあるのであれば、何だろうかと知りたいと思う。ただ、上記に想像した仕事に関する価値観の違いであれば話が弾むことはないのかもしれない。そう言えば同じ職場であった頃は、共通の上司のダメさ加減の話題で盛り上がっていたのを思い出す。いつかまた飲みに行ける日がくれば、あの時のダメ上司の話なら盛り上がれるかもしれない。そんな関係にまたなれたらいいなと、今は思うのである・・・


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【本日の読書】

ひこばえ(下) (朝日文庫) - 重松 清 グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない (&books) - ロバート・ウォールディンガー, マーク・シュルツ, 児島 修




2024年8月25日日曜日

自慢話について

 少し前だったが、役員研修を受けた時の話である。「取締役とは」という内容で、取締役の役割について改めて学ぼうというものであった。私からすれば内容的には特に目新しいものはなかった。取締役の役割など分かりきっていたし、その内容は私の理解からズレるものではなかった。こういう時、私はわかっているからとスルーするのではなく、「自分だったらどんな講義をするだろうか」という視点で捉える。そうするとまた違った勉強になるからである。そういう視点では有意義な研修であった。

 その時、一緒に受けたのは我が社の先輩取締役。実はその先輩取締役がどうも取締役の役割を理解していなくて、それで一緒に受けてもらったという経緯だったのである。「どうでしたか?」と終わってから尋ねたところ、「自慢話ばっか」と辟易したような表情で答えが返ってきた。確かに、講義の中で講師の方の「成功体験」がいろいろと語られていた。「成功体験」であるから見方によっては自慢話になってしまうのだろう。むしろ、そちらに意識が行っていたとしたら、あまり話は響かなかったのかもしれない。

 野村監督の本を何冊か読んだ事がある。主として野球の話ではあるが、いろいろとビジネスや人生に通じるものがかなりあり、読むべき価値は高い本だと思っている。ただ、「自慢話」が多いのも確かである。阪神のエースだった江夏が南海に来た時、本人を説得してリリーフに回して大成功した話は繰り返し出てくる。当時は今のようにピッチャーの分業体制は一般的ではなく、「先発完投こそが投手」という時代である。リリーフ・エースの先駆けであり、それは凄いと思う。

 その話は確かに「自慢話」ではあるが、「自慢話」と捉えてしまうとどうしても反発心が出てきてしまう。人は誰でも他人の自慢話ほどめんどくさいものはない。しかしながら、そんな自慢話満載の野村監督本を何冊も読んだのは、その中に込められたエッセンスに惹かれたからである。要は自分の「為になる」話が多いのである。単に面白いエピソードというのももちろんあるが、自分の中に取り込みたいものもある。だから、次々と読んだというわけである。

 考えてみれば、研修の講師の話もそうであるが、「こうやったらうまく行った」という実際の成功事例は、理屈ばかりの話よりもよりイメージしやすいという利点がある。実際の成功例だから尚更である。そうなると、理屈を補強する手段としては、実際の成功体験はあった方が良いとわかる。しかし、実際の成功体験は、見方を変えれば「自慢話」に他ならない。それを排除してしまうのは残念な話である。

 実際の体験談を「成功事例」と捉えるか、「自慢話」と捉えるかはひとえに受け手の問題だと言える。せっかくの研修で、私はそれなりに有意義だと感じられたものを件の同僚取締役は「自慢話」のオンパレードとしか捉えられなかったわけである。結果的にも彼にとっては意味のない研修に終わってしまったようであり、同じ研修を受けながら結果が違って出たというのは、やはり受け手の捉え方に他ならないのだろう。

 同じ経験をしながらもその経験を生かせる人と生かせられない人がいる。それは受け止め方の問題であり、その人の心のあり方の問題でもある。「賢い者が愚か者から学ぶ事の方が、愚か者が賢い者から学ぶ事よりも多い」とはモンテーニュの言葉として知られているが、その通りだと思う。悦に入って自慢話に耽る人も確かにいて、それはあまり心地良いものではない。自分の成功体験は確かに心地良いし、他人のそれは煩わしい。しかし、何かを伝えたい時に、成功体験は欠かせないツールでもある。

 教訓として、他人の自慢話はそのエッセンスを汲み取って自分の血肉にするように聞き、自分の自慢話は何か伝えたい事の具体例としてのみ控えめに語るという事になるのだろうか。自分が悦に入らないように、意識したいと思うのである・・・



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【今週の読書】
グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない (&books) - ロバート・ウォールディンガー, マーク・シュルツ, 児島 修  もう明日が待っている (文春e-book) - 鈴木 おさむ




2024年8月21日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その6)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命。臨大節而不可奪也。君子人與、君子人也。
【読み下し】
曾(そう)子(し)曰(いわ)く、以(もっ)て六尺(りくせき)の孤(こ)を託(たく)す可(べ)く、以(もっ)て百(ひゃく)里(り)の命(めい)を寄(よ)す可(べ)し。大節(たいせつ)に臨(のぞ)みて奪(うば)う可(べ)からず。君(くん)子(し)人(じん)か、君(くん)子(し)人(じん)なり。
【訳】
曾先生がいわれた。「安んじて幼君の補佐を頼み、国政を任せることができ、重大事に臨んで断じて節操をまげない人、このような人を君子人というのであろうか。まさにこのような人をこそ君子人というべきであろう」
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 君主制の国家では、若くして君主となった幼君を側近が支えるというのが歴史上でもよくあり、この場合、事実上その側近が国家権力を握る事になる。そうなるとその側近がどんな人物かによって国政が左右されることになる。それが立派な人物であれば言う事はないが、私利私欲に走るような人物だと国家を私物化したり、権力の乱用に走ったりという事もありうる。ひどい場合には幼君を排除して自らの王朝を立てたりする。古代の中国をはじめ、そういう歴史は珍しくない。

 我が国でも石田三成などが幼君を補佐した例としてすぐに頭に浮かぶ。また、幼君ではなくても、有能な側近に政治を任せるというのもよくある事。江戸時代の「側用人」などはその最たる例であろう。柳沢吉保や田沼意次などが有名で、側用人が将軍に取って代わる事はなかったが、老中を上回る権力があったとされる者もいる。こうした側近が力を発揮するのは、「君主(実権者)」の能力が不足している場合であるが、補佐する者の能力に加え、「忠誠心」がやはり重要だと思う。これがないと政権が維持できなくなる事になり得る。

 「重大事に臨んで断じて節操をまげない」というのも重要であろうが、やはり「忠誠心」の方が大事だろう。漫画『キングダム』でも側近が力を持ち過ぎていつ何時反旗を翻すかと案じる場面が出てきていたが、安心して委ねられるという部分では「忠誠心」が何よりの安心材料なのではないかと思う。翻って現代でも経験の浅い二代目社長をベテラン役員が支えるというのが似たようなケースではないかと思う。二代目が社長として独り立ちできるまでベテラン役員が支えるケースでは、役員の力量が問われるのは言うまでもない。

 私も前職では不動産会社に役員として入社した。その会社は父親が息子のために作った会社で、役員も父親がかつての部下を集めて未熟な社長の補佐をさせるべく体制を整えてスタートしたものであった。最初は役員がしっかりと仕事をし、事業は順調に進んでいったが、会長となっていた父親が高齢で経営から身を引いたあたりから迷走に入っていった。社長が自分の力量を過信。主要な役員が高齢で退職し、真面目で仕事はできるが大人しい役員だけになると迷走は加速。赤字決算が連続して存続の危機も出始めていた。

 私が入社したのはそういうタイミングで、私も銀行で企業再建のお手伝いをした経験もあり、それを生かして再建計画を立てて再建をスタートさせた。さらには実行が何より大事であり、採算の悪い不動産を計画的に売却し、新たな投資計画を立てて収益物件を購入。さらに清掃等外注に任せていたのを内製化し、マンションの管理組合におけるサービス提供も開始し、入社翌年から6年連続の増収を実現した。100%私の考えた通りに進め、(社員の協力もあり)その結果を手にしたが、我ながら名参謀ぶりであったと自負している。

 では忠誠心はどうであったかと言うと、そもそも会社の株主はすべて社長が持っており、クーデターなどできる余地はなかったし、それ以上に多額の債務の保証人になってまで会社を乗っ取ろうという気持ちは欠片もなかった。ましてや自分で資金を集めるのも大変であるし、独立までして自分で経営しようという気持ちも欠片もなかった。忠誠心などという大げさなものではなかったが、雇われ役員の気楽な立場で会社を思うように動かせるわけであるから、その方がはるかに魅力的であった。忠誠心というよりも損得という問題である。君主制ではないし、権力の規模も違う現代の中小企業となればそうかもしれない。

 確かに、それなりの力がある人間なら、幼君(または力のない人間)に取って代わろうという誘惑に心を動かされるかもしれない。その誘惑を断ち切ってきちんと国政を運営してくれるという安心感を与え、さらに重大事に臨んでもひるまず意思を通すような人物なら「君子」と言えるのであろう。私が社長に代わって経営に勤しんだのも、「面白かったから」が6割(会社が潰れると収入がなくなるからが4割)であり、君子とは程遠かったが、最後まで信頼して任せてくれたのであればもっといい結果をもたらせたと思う(結果的には社長に裏切られたのである)。

 現代でも無私の心で社長(というよりも社員を含めた会社)のために全力を尽くしているつもりである。自惚れかもしれないが、それが現代の君子なのかもしれないと思ってみる。願わくば周りのみんなにそういう君子だと思われるように、今の仕事に邁進したいとあらためて思うのである・・・


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【本日の読書】

グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない (&books) - ロバート・ウォールディンガー, マーク・シュルツ, 児島 修  もう明日が待っている (文春e-book) - 鈴木 おさむ





2024年8月18日日曜日

派遣がなぜ悪いのだろうか

 『派遣で16年同じ職場で働くも雇い止め 渡辺照子・練馬区議「雇用形態で差別が合法化」』というネットニュースを目にした。なぜか我が国では「派遣=悪」という図式が出来上がっているように思える。しかし、以前から私はこの図式がどうも腑におちないでいる。「差別が合法化」とは物事の本質を無視した物言いであるように思える。派遣の問題点として、マイナビの「派遣社員の意識・就労実態調査2023年版」というものから、「現在の派遣元に不満な理由」というものが発表されていた。それは以下の通り。

 1. 高賃金の仕事が少ない(ない)
 2. 同一労働同一賃金に対する意識が低い
 3. (派遣先で)就業中のフォロー体制が制度化されていない
 4. 正社員に転換できる仕事が少ない
 5. 通勤費の支給など福利厚生が少ない

 このうち「3」と「5」はわからない。が、たとえば「1」などはスキルによると思う。「高い金を払ってでもやってほしい」というスキルがあれば問題はないだろう。そうではなくて、なんのスキルもないのに、ただ「高賃金の仕事が少ない」というのは、そもそも虫が良すぎる。意識の段階でわかっていないとしか言いようがない。そんな仕事があれば正社員を辞めてみんな派遣になるだろう。

 「2」であるが、そもそも派遣先の企業は派遣元にそれなりの費用を払っている。以前、我が社でも正社員が辞めてその補充として派遣会社に派遣を依頼したが、月額の費用は「正社員に対する給料よりもずっと高かった」。確かに毎月定額で賞与などはなかったが、1年間の合計は正社員を雇うのとほとんど変わらなかった。幸い、派遣されてきた人がいい人であったため、派遣会社と交渉してそれなりの移籍費用を払って正社員になってもらった。その後昇給したが、昇給前の年収は「派遣費用の年間費用よりも安かった」。

 しかし、最終的にその派遣社員に支払われる給料(派遣元から支払われる給料)は、我々が払った派遣費用から「派遣元が利益を抜いて」派遣社員に払うため、ずっと安くなる。その派遣社員からすれば、正社員登用によって給料が上がる(賞与も含めてである)ので喜んでもらった。同一賃金同一労働は当たり前であるが、派遣会社が利益を抜けば同一にならないのも当たり前である。それがわかっていない。「4」は上記の通り我々のような利用方法であれば正社員になれるルートはある(少ないのかもしれないが)。

 そもそも、派遣は企業にとって都合の良い制度である。それは雇用の調整弁としてであり、正社員は簡単に首にできないが、派遣社員なら都合で雇い止めにできる。そういうニーズから生まれてきたものである。もし派遣という制度がなければ、企業としては正社員として雇うか雇わないかの選択を迫られる事になり、もしかしたら雇用自体が生まれなかったかもしれないのである。その時は「派遣の口」すらなかったわけで、失業が長引いていたとも言える。それでいいのだろうか。

 そもそも派遣制度に文句があるなら、派遣になどならなければいいのである。派遣しかないのであれば、失業したままでせいぜいアルバイトくらいしかないわけで、それが良かったのであればアルバイトをすればいいのである。「アルバイトは嫌、でも正社員にはなれない、失業も嫌」となって派遣社員になったのであれば、何で文句を言うのだろうかと思う。雇い止めになる可能性がある事はわかっている事であるから、その時に備えておけばいいだけである。冒頭のネットニュースの方は、16年間も何をしていたのだろうかと首を傾げざるを得ない。

 マスコミも「雇い止めはひどい」という論調でしか語らないが、そういう問題の本質を理解していないとしか言いようがない。16年間派遣で働いていたこの方は、派遣制度があったから働けたのであり、そうでなければ働けなかったのである。その方が良かったのだろうか。派遣制度があるから正社員になれないというのは間違った考えである。もちろん、派遣制度がなければ企業もある程度は正社員として雇わざるを得ないだろうが、それでも総数ではない。派遣の者が「すべて正社員になれるわけではない」のである。

 「雇用形態で差別が合法化」などどこをどう見ればそんな発想が出てくるのだろうかと思う。もちろん、物事を上部だけ見ていればそういう結論は出てくるが、嘆かわしい限りである。我が社も過去に正社員の産休時になどに派遣を利用したそうであるが、まさにそういうのが派遣制度のありがたいところである。正社員の給料以上の費用を払わなければならないが、その利便性には変えられない。今後もお世話になる機会はあるだろうが、大いに利用させていただきたいと考えている。

 いつもの事ではあるが、マスコミにはもっと勉強してほしいと改めて思うのである・・・

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【今週の読書】
「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策 - 今井 むつみ  グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない (&books) - ロバート・ウォールディンガー, マーク・シュルツ, 児島 修  メガバンク銀行員ぐだぐだ日記――このたびの件、深くお詫び申しあげます (日記シリーズ) - 目黒冬弥




2024年8月14日水曜日

娘に時計

 先週末の3連休、娘と買い物に行った。娘はこの春大学を卒業して就職。そのお祝いに何かプレゼントしようと希望を聞いたところ、「時計」という答えが返ってきたので、それを買いに行ったというわけである。就職したのは4月だからずいぶんのんびりした話なのだが、一度買いに行ったところ、娘もどれがいいか決めかね、少し時間が欲しいとなったのである。娘なりにあれこれと調べていた結果、ようやく欲しいものが決まったとなってこの時期となったというわけである。そういうわけで、娘と再度一緒に出掛けたのである。

 出かけて行った先は池袋のヤマダ電機。家電量販店で時計というのも異な気がするが、その品揃えは下手な専門店より充実している。前回は時計専門店を数店回って見たのだが、娘の気に入るものはなく、結局のところ家電量販店に落ち着いたという次第である。商品は各メーカーのものがいろいろとあって、価格帯もそれなりに幅広くある。就職祝いという事で、やはりそれなりのモノにしたいと思っていたが、結果的にはそれなりの価格で、本人の気に入ったものが買えたので良かったところである。予算的にも覚悟していたほどではなく、親子ともに満足であった。

 就職祝いをと思ったのも、これで「子育て」は終わりという自分自身への一つの大きな区切りであり、また社会人となる娘に対する激励の意味もある。資金は私のポケットマネーであるが、どこから出してきたのかと妻に問いただされないかヒヤヒヤしたが、杞憂に終わったのも良かったところである。やはりこういう時のために自由になるお金は手元に置いておきたい。そうした余裕を持てるようになったのも(秘密の収入を確保したからなのだが)、これまでいろいろと努力して身につけてきた仕事の能力の成果だと密かに自負している。

 思い起こせば、私も大学に合格した春に父親から腕時計を買ってもらった。それまで親にあまり何かを買ってもらう(ましてや父親から)という事がなかったから、突然言われて驚いたものである。そうして迷って今でも使っている腕時計を買ってもらったのである。時計を買ってもらったという事以上に、何かその時の父親の思いのようなものを感じて嬉しかったのであるが、自分も父親となった現在、同じ事をしたかったという事もある。娘が今回の買い物についてどんな感想を持ったのかはわからないが、記憶に残ってくれれば嬉しいと思う。

 想定していた予算の半分で済んで良かったのは確かだが、もしかしたら娘も遠慮したのかもしれないという思いもある。実際はどうだろう。支払いを終えた時に娘から「ありがとう」と言われた。それは当然のようにも思うが、ふと思った。その感謝の気持ちはどちらからだろうかと。父に時計を買ってもらい、自分も娘に時計を買ってあげられた。無事に生まれ育って社会人となってくれた。お金は私が出したが、それで娘に時計を買ってあげられたという喜びが得られた。むしろ私の方が感謝したいという気持ちである。

 普段、娘とはあまり話をしない。何を話していいかわからないという戸惑いもあるが、娘の好みなんかもほとんどわからない(好きなアイドルくらいはわかるが・・・)。今回は2人だけで買い物に行き、帰りに2人でフラペチーノを飲み、いつになく充実した時間を過ごせたのも良かった。まだ仕事の愚痴は聞かないが、これからいろいろと大変な事も出てくるだろう。親に何ができるという事もないだろうが、相談くらいには乗れるかもしれない。頑張って人生の試練を乗り越えていってほしいなと思う。

 親父に買ってもらった時計は41年経ってもまだ普通に動いている。私もそれを週に1回はつけて出勤している。娘がその時計をどれくらい使うかはわからいが、同じSEIKOだし、長持ちしていつまでも「父親に買ってもらった」事を覚えていてくれたらいいなと思う。次は4年後に息子が社会人になる(きちんと大学を卒業して就職してほしい)。息子にもやっぱり何かお祝いに買ってあげたいと思う。そしたらもう一度感謝の気持ちを持てるだろう。その時までにまた秘密の資金をしっかり貯めようと思うのである・・・

【本日の読書】
「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策 - 今井 むつみ



2024年8月11日日曜日

夏休み

 先週、夏休みが終わった。今の会社も夏休みは交代で取ることになっていて、毎年のことだが、どこへ行くにも激混みとなるお盆を避けての取得である。前職では、転職時にお盆に夏休みを取得した事があるが、それは会社全体でこの時期に休みを取るというものであったためにやむなく従ったのであるが、元々アマノジャッキーな私としては我慢ならず、翌年から交代制にしようと主張して会社の制度を変えてしまったという過去がある。そうして今年もお盆を避けて休みを取ったという次第である。

 思い起こしてみれば、昔は「休むことは悪」という風潮が世の中にはあったが(何せ「24時間戦えますか」の世の中であった)、今はそういう風潮はほとんどないと言える(少なくとも私の周辺では)。いい時代というか、昔が異常であったと言える。銀行員時代、夏休みはもちろん交代で取っていたが、毎日1回は職場に連絡を入れなければいけないというルールがあった。休み中の本人に聞かないとわからない事があった場合のためというのがその理由。私はこれが嫌でたまらなかった。

 今考えても当然であるが、休みは従業員としての権利であり、心身ともにリラックスするために、休みの日は仕事を離れてのんびりできる期間である。しかしながら、休む事が悪という風潮にそれは反している。その根底には、「休んでも周りに迷惑をかけないようにしなければいけない」という雰囲気があった。ちなみに今は「おかげさまとお互い様」を合言葉に、「休む人が気持ちよく休めるようにすれば自分も気持ちよく休める」という精神を部下には強要している。当時の風潮に対する反発である。

 銀行の主任時代だったが、反抗的な私はその夏海外旅行へ行った事もあって、あえて休み中に電話を入れなかった事がある。海外から高い国際電話をかける気にはなれなかったのである。すると、なんと日本の職場からホテルにまで電話がかかってきたのである。呼び出しを受けて、何かトラブルがあったのかと慌てて電話を取った。すると「連絡がないから」と言う。ついでのように事務的な質問をされたが、私も本部の事務部門に聞かないとわからない。「こちらで聞きますか?」と嫌味のように返したが、さすがにそこまでは求められなかったが、旅行気分をぶち壊されたのは言うまでもない。

 今も私と同世代の人間には、「休むのが悪」という雰囲気は根強い。我が社の社長のように「仕事が趣味」となれば休まないのも理解できる。そういう人はいいと思うが、私は今でも「休む派」である。もう子供も大きくなれば家族旅行という事もなく、休んでも何をするのかと問われると痛いところだが、それでも普段平日にしかできないことをしたり、今年は家族にも黙って都内のアパホテルで1人過ごしたが、エアコンの効いたホテルの室内でのんびり映画を観たりドラマを観たり、ネットサーフィンをしたりと過ごし、大浴場に浸かったのはいいリラックスタイムであった。

 もっとも私も完全に頭の中をオフにしたわけではない。取締役として仕事には責任を持っているが、今はスマホで会社内のやり取りが見えるし、メールチェックもできる。合間合間に確認する事で、「何か起こってないか」と案じる事もなく、チェックする事で逆に安心を得られたという効果もある。あの時もスマホとチャットツールがあれば、お互いストレスなく海外旅行を楽しめたかもしれない(ただあの時はそこまでしたいとは思わなかったと思うが・・・)。

 世の中の進歩は、確実にいい方に向かっていると思う。時代の風潮や技術などの恩恵も大きい。今は銀行ではどんな働き方をしているのだろうかとふと思う。働くのが苦行だったのは過去の事になったのだろうか。私も仕事が趣味ではないが、安定した望み通りの生活を送るためにも仕事で成果を上げる事は必須であり、そのためにこそ頑張ろうと思う。夏休みは十分リラックスできたし、また来年の夏休みを楽しみに、1年間楽しく働こうと思うのである・・・


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【今週の読書】

歴史学者という病 (講談社現代新書) - 本郷和人  父が息子に語る 壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書 - スコット・ハーショヴィッツ, 御立 英史




2024年8月8日木曜日

論語雑感 泰伯第八 (その5)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】
曾子曰、以能問於不能、以多問於寡、有若無、實若虚、犯而不校。昔者吾友、嘗從事於斯矣。【読み下し】
曾(そう)子(し)曰(いわ)く、能(のう)を以(もっ)て不(ふ)能(のう)に問(と)い、多(おお)きを以(もっ)て寡(すく)なきに問(と)い、有(あ)れども無(な)きが若(ごと)く、実(み)つれども虚(むな)しきが若(ごと)く、犯(おか)さるるも校(こう)せず。昔者(むかし)吾(わ)が友(とも)、嘗(かつ)て斯(ここ)に従(じゅう)事(じ)せり。
 【訳】
曾先生がいわれた。「有能にして無能な人に教えを乞い、多知にして少知の人にものをたずね、有っても無きがごとく内に省み、充実していても空虚なるがごとく人にへりくだり、無法をいいかけられても相手になって曲直を争わない。そういうことのできた人がかつて私の友人にあったのだが」 
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 どんなに優秀な人間であってもすべての物事に精通しているわけではない。となれば、自ずと知らないことが出てくるのは当たり前だと言える。しかし、世の中には「知らない」という事を恥じるのか、知っているふりをする人間はいる。自分は日頃から「知らない」「わからない」という事をきちんと表明するように心掛けている。それは何も恰好をつけているわけでもなく、聖人ぶっているわけでもない。ただ、「かっこ悪く思われたくない」からである。

 やはり知らないのに知っているふりをするという事は、特にそれがばれた場合、とてもかっこ悪いものである。立場上、知らないとは言えないケースがあるのかどうかはわからないが、立場が下の者にばれたらよけいその権威は崩落する。そんなかっこ悪い無様な姿をさらすくらいなら、初めから「知らない」と言ってしまった方が、少なくとも内心でバカにされる事態は防ぐことができる。どちらがいいかなど、考えなくても答えは出る。

 私の知り合いの方は、高級官僚時代は時の総理大臣とも交流があったほどの方であるが、齢90を越えてもなお矍鑠としていて、非常に謙虚であり、人に教えを請うのを厭わない。まさに「実ほど首を垂れる稲穂かな」といった有様である。その姿勢ゆえに尊敬の念が自然に湧いてくる。人に尊敬されたいと思ったら、まさにその方のように振る舞うべしという見本のような方である。そのような良き見本がいるからこそ、私も自然にそう思える。

 それに謙虚な姿勢だろうか。知らない事を素直に知らないと言う事も大事であるが、常に学ぶ姿勢を示している姿も尊敬の念を起こさせる。知り合いのシステム開発会社の社長さんであるが、昨年社長を引退した。悠々自適の生活を送ろうと思えば送れるのに、今も顧問として残って毎日出社している。と言っても何か仕事をしているわけではなく(困った時の相談役という位置付けである)、これからのAI時代に中心となるPythonという言語を独学しているのである。

 私のラグビー人生も随分長くなったが、やっぱりうまい人ほどよく練習している。チーム練習が終わったあとも、自分の弱点を克服すべく、あるいは得意なプレーを強化すべく、次の試合でやりたいプレーの精度を上げるべく練習する。そうでない人は、全体練習が終わると満足してすぐに上がってしまう。うまい人は、歯を食いしばって練習しているというより、「楽しいから」練習しているようにも思える。「このプレーを試合で使ってうまく行ったらうれしい」というワクワク感から練習しているように思える。

 論語の時代は今から2,500年も前であるが、その頃から既に人の尊敬を集めるような人の姿というものは一定のものがあったように思う。そしてそうした知恵が2,500年も前からあったのであれば、もう少し尊敬できる人物が世の中に溢れかえっていてもいいように思う。もっとも、それも学んでいてこそであり、学んでいなければそもそもそんな事もわからないのであるから、知ったかぶりをしたり、無いのにあるように振る舞い、充実しているように振る舞うのかもしれない。古の教えはやはり大事であり、それを学ぶ事も大事であると思わされる。

 「無法をいいかけられても相手になって曲直を争わない」というのは、わかっていても難しいところがある。「(争いたくても)争えない」というケースは別として、「争うことができる」場合、そこに必要なのは、己の相手に勝ちたいという気持ちを抑える理性が必要となる。これが私にはけっこう難しい。そういう時はいつも「ライオンに勝てると思えば猫にもなれる」という言葉を思い出すようにしているが、まだまだそういう境地には至れていない。わかっていても難しいという事はあるものだと思う。

 わかっていれば適切に行動できるところと、わかっていても難しいところはある。2,500年も変わらぬのが人間の性なのだろうが、「かっこ悪い人間にはなりたくない」という己の思いを実現するように行動したいと思うのである・・・


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【本日の読書】
父が息子に語る 壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書 - スコット・ハーショヴィッツ, 御立 英史




2024年8月4日日曜日

提案力が大事

 私が働く会社はシステム開発の会社である。私はと言えば、銀行、不動産と仕事をしてきたがエンジニア経験はないので、今の会社の本業はよくわからない。わからなくとも、取締役という立場上、わからないから何もしないというわけにはいかない。みんなどんな仕事ぶりをしているのか、それがいいのか悪いのかも判断がつかない。私の担当は財務・人事・総務部門なのだが、それでも問題意識を持っていて、聞こえてくる話を基に考えてみたところ、どうやら社員のみんなには「提案」という考えが弱いらしい事に気がついた。

 「提案」とは文字通りであるが、「言われた通り」にするのではなく、こちらから「こうしたらどうか」と働きかける事である。これがあるかないかで、仕事の成果もだいぶ違ってくると思う。銀行は以前は護送船団方式で、どこにお金を預けてもどこでお金を借りても一緒であった。だから提案力がないと取引も厚くならない。現実にはそれまでの「お付き合い」を基にしたお願いベースで取引を増やしていたのであるが、「こんなことをしてみたらどうか(資金はご融資いたします)」という提案ができれば、他行に差をつけられたものである。

 前職の不動産業時代、とあるアパート大家からトイレにウォシュレットを設置したいという相談を受けた。全室で確か30万円くらいだったと思う。私はそこで、「なんでウォシュレットなのか」と聞いたところ、話を聞いてきた担当者によると、「女性を入居させたいから」という事であった。ウォシュレットのない部屋だと女性に敬遠されるという事でウォシュレットを設置したいという事になったそうなのである。しかし、ならば「ウォシュレットでいいのか」という疑問がその時私に湧いた。

 当時、私も賃貸住宅の競争力アップに関心があり、いろいろと考えていて、「デザイン」という事に行き着いていた。クロスから始まり、キッチンなど独自のデザインにしてこの部屋に住みたいと思わせれば、他との比較にならずに済むと考えたのである。価格競争(家賃の値下げ競争)に陥らずに済むと。そこでウォシュレットだけでなく、部屋の内装についても女性が喜びそうなものにしようとオーナーに提案することを提案した。ところが社内の反応はイマイチ。というか及び腰であった。

 それもある意味当然で、それまで誰もそんな発想など持っていなかったからである。いろいろと議論する中で、社長が言ったのは「理屈はわかるが、まずはお客さんの言う通りにきちんとする事が大事ではないか」という事であった。もっともらしく聞こえるが、要は「言われた事だけやりましょう」という事である。それがお客さんの希望であり、それに応えていれば問題はないという事である。しかし、それだとお客さんがうちに依頼する理由は何だとなると、「価格(どれだけ安いか)」になってしまう。つまり価格競争になるという事である。

 価格競争はどれだけ安いかの競争。それだと利益を減らすか、原価を落として(それは質を落とす事にもつながる)いくという事になる。しかし、価格以外の価値を提供できれば価格競争から脱する事ができる。普段から社員には「言われた事だけしていてはダメ」と言っているのに、お客さんに対しては「言われた事だけしましょう」というのはないだろうと私は反論した。そんな仕事をしていては、いつまで経っても相見積もりからは抜け出せず、薄利に苦しむ事になる、と。

 残念ながら、結果的にその時点では会社にそれだけの提案力がなく、薄利でその仕事を請け負った。後日、内装力アップに取り組むきっかけにはなったが、「提案」という事を考えるいい例だと思っている。提案力とは会社の競争力そのもののように思う。たとえこちらの提案に反対されたとしても、それはそれで構わない。その時点で初めてお客さんの言う通りにすれば良いのである。その提案は、きっとどこかで相手の心に残っていて、次の機会に繋がるのであれば、その効果はあったと言えるわけである。

 提案と言っても簡単にできるものでもない。必死になって考えないと相手の心を動かすような提案はできないだろう。だが、だからと言って言われた事だけしていてもいいと言うわけではない。そこに甘んじていると、提案をしてきた競争相手に仕事を取られるかもしれないし、現実的に我が社のある長期プロジェクトでは単価のディスカウントを要求されてしまった。「何も提案もしてくれないし・・・」と言うのが相手の担当者の弁。仕事の質を高める事を意識しないといけないが、そのための具体的手段が「提案」であると思う。

 個人でも言われた事だけしている人よりも、いろいろと意見を出してくる者の方が頼り甲斐があるように思える。一味違う事を見せるためにも、「提案」は欠かせないと思うのである・・・


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【今週の読書】
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