2024年6月26日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その2)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、恭而無禮則勞。愼而無禮則葸。勇而無禮則亂。直而無禮則絞。君子篤於親、則民興於仁。故舊不遺、則民不偸。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、恭(きょう)にして礼(れい)無(な)ければ則(すなわ)ち労(ろう)す。慎(しん)にして礼(れい)無(な)ければ則(すなわ)ち葸(おそ)る。勇(ゆう)にして礼(れい)無(な)ければ則(すなわ)ち乱(みだ)る。直(ちょく)にして礼(れい)無(な)ければ則(すなわ)ち絞(せま)し。君(くん)子(し)、親(しん)に篤(あつ)ければ、則(すなわ)ち民(たみ)仁(じん)に興(おこ)る。故(こ)旧(きゅう)遺(わす)れざれば、則(すなわ)ち民(たみ)偸(うす)からず。
【訳】
先師がいわれた。
「恭敬なのはよいが、それが礼にかなわないと窮屈になる。慎重なのはよいが、それが礼にかなわないと臆病になる。勇敢なのはよいが、それが礼にかなわないと、不逞になる。剛直なのはよいが、それが礼にかなわないと苛酷になる。」またいわれた。「上に立つ者が親族に懇篤であれば、人民はおのずから仁心を刺戟される。上に立つ者が故旧を忘れなければ、人民はおのずから浮薄の風に遠ざかる」
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 孔子はとにかく「礼」を重んじた。それがなければ「恭敬」も「慎重」も「勇敢」も「剛直」もみなその価値を失うと言う。物事には裏表があり、「恭敬」も「慇懃無礼」に感じられる事は容易に想像がつく。「慎重」も裏を返せば「臆病」になるのも然り。その違いは何だろうかと考えてみるも、それはその相手に対する「信頼感」のようにも思う。相手がどんな人間かわかっていれば、素直に「恭敬」と捉えられ、決して「慇懃無礼」とは思われない。信頼感がなくて不信感が先立つと「慇懃無礼」になる。

 我が社でもそんな「信頼感」を痛感させられる時がある。社長がとある部長から報告を受けると、必ず不信感のこもった対応をする。「本当か?」と確認するのはまだしも、「それで大丈夫なのか?」、「ダメだったらどうするのか?」と畳かける。正直言って私もこんな風に追及されると答えに窮すると思うのだが、当該部長もやはり答えに窮するし、時に反発したり投げやりになったりする。するとそれがまた社長の不信感を招く。おそらく、私が同じ報告をしたら、「わかりました」で終わる。

 私もこれまでも似たような経験を数多くしてきた。銀行員時代には、上司から問われた事に対し、私が回答したところ、「それは本当か、間違いないか、関係部署に確認しろ」と言われた事が幾度となくある。私としては過去の経験もあって自信を持って答えているのだが、上司はそれを信用しない。仕方ないのでわざわざ関係部署に連絡してわかりきった回答をもらい、上司に納得してもらった。私の言葉は信頼できないのかと憤ったが、ビジネスではよくある「身内を信用しない」という傾向である。

 件の部長も社長からの信頼感を得られていない。それはこれまでの長い期間に積もり積もった不信感なのかもしれない。私もおべっかを使っているわけではないが、全社視点に立って(つまり社長目線で)物事を考え、意見具申している。件の部長は「部長目線」でしか捉えられていないところがあり、その視点の違いは大きい。例えば、全社目標が未達でどうするべきかを議論している時に、「うちの部は目標を達成している」で終わってしまうのである。「できていない部が考えるべき事」としてしまうのでは、社長にストレスが溜まってしまう。

 全社目線で問題点を考えれば、おのずと同じ問題意識を持つことになり、同じ土俵で話をするから自然と共感が生じる。それが信頼感につながっていると思う。考えてみれば、「礼にかなう」とは、「同じ目線で見る」と言い換える事ができるのかもしれない。裏表がある事についても、「表を見る」という共通目線があれば、齟齬もなくなるわけである。ある者が表を見て話している時に、裏を見て答えれば当然意見の齟齬が生じる。そもそも共通の目線にないので違和感が生じる。

 銀行員時代、出張の多い業務に就いていたことがあったが、その時の上司はとかく出張が大好きで、それはそれでいいのであるが、「どこに行けば何を食べよう」的な話ばかりをしている人であった。そうなると、仕事をしているのかという不信感が湧いてくる。ましてやその上司の仕事は、相手先に訪問して役職者に会うだけで具体的に契約を取ってくるでもなかったのである。「何しに行っているのか」と部下である我々はみな思っていた。そうなると、真面目にやっているのがバカらしくなってくるものである。

 上に立つ人間の姿勢というのは重要であり、家族で行ったレストランの領収書を経費に回してきたりするような公私混同をしていると、下の者もやっていられなくなる。つい最近、同業者で大量退職が発生した。そのきっかけは社長による会社の私物化であり、利益を社長一族で吸い上げているのが役員にバレてしまい、一斉に辞めるという事態になってしまったのである。中小企業であれば、社長は「会社は俺のモノ」という意識になってしまうのだろう。何をやっても良いと勘違いすればこのような反乱を招いてしまう。

 上に立つ者がいかに公平公正で背筋を正しているかは、下の者のモチベーションに直結する。「この人のために働きたい」と思ってもらえたら、その組織は安泰だろう。自分も役員であり、上に立つ者の1人であるから、当然身を引き締めたいと思う。実際、経費の申請についてはやろうと思えば自分のハンコだけで通せるが、あえて社長に印をもらい、少額の交通費は部下の課長に承認印をもらっている。常にオープンにして疑われることなきようにという意識は持っているのである。

 古から真実というのはそう変わりはない。だからこそ古典も現代に生きてきたりする。自分がすべて正しいとは思わないが、折に触れ鏡を見て身を正す意識は持っていたいと思うのである・・・

PexelsによるPixabayからの画像

【本日の読書】
こうして社員は、やる気を失っていく リーダーのための「人が自ら動く組織心理」 - 松岡保昌    心はあなたのもとに (村上龍電子本製作所) - 村上 龍








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