2024年6月30日日曜日

よくわからないこと(少子化対策)

出生率最低1.20 昨年、出生数72万人
2023年に生まれた日本人の子ども(出生数)は72万7277人で、統計がある1899年以降過去最少だった。1人の女性が生涯に産む見込みの子どもの数を示す「合計特殊出生率」も1・20で、統計がある1947年以降過去最低。
朝日新聞デジタル2024年6月6日
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 もう我が国の少子化問題は慣れっ子になってしまった感がある。政府も自治体もあれこれと対策を立てているが、少子化は止まらない。ニュースでは過去最低とあるが、実は2005年にも1.20を記録していて、正確には過去最低に並ぶという事である。ほぼ20年間事態は変わっていないわけで、となるとこれまで行われてきた「少子化対策」の効果がなかったという事に他ならない。そもそも、児童手当の充実や保育所などの施設拡大、さらには育児休暇といった施作が果たして有効なのかと疑問に思っていたが、有効ではなかったという事であろう。

 さらに少子化対策の制度が改善されても出生率が上昇しないのは、国民の生活が苦しくなって子育てどころではなくなったからだ、という意見もあるようである。しかし、厚労省の調査によると、児童のいる世帯で、「苦しい」と答えた世帯の割合は2019年の調査よりも改善しているというからそうとも言い切れない。どうも政府の考え方はピントがずれているように思えてならない。なぜ子供が増えないのであろうか。私は専門家ではないからなんとも言えないが、それは「子供ができない」と言うより、「結婚できない」からではないかと思えてならない。

 例えば私の務める会社でも結婚しない若者が実に多い。20〜30代の独身率は9割くらいではないかと思う。結婚はしていないが、同棲をしているという若者がいるのも現代的と言えるが、それは良しとして、やはり30代になって付き合っている相手もいないと聞くと、少子化が止まるとはとても思えない。我が国の少子化対策は、まず「若者のカップル化」が最優先事項ではないかと思えてならない。まずは彼氏、彼女を作ろう。同棲もいいが、それはどちらかと言えば結婚するかしないかの見極めだとしたら、早めに決断しようというところだろうか。

 カップル化となると、やはり気になるのは男の草食化だろうか。我が社はIT業界であるが、この業界はとかく草食化傾向があるように思えてならない。決して彼女が欲しくないというわけではないが、自分から探していかない、求めていかないというように思える。社内でもイベントがあって社員が集まる機会があるが、男同士で固まって話し込んでいるのが目につく。それも悪くはないのだが、女性と話をしたいと思わないのだろうかと疑問に思う。私の若かりし頃は、絶対女性と(サシでなくてもグループでも)話せるように動いたものである。

 それは今でもそうであるが、立場もあるし、年齢差もあるので我慢してみんなと公平に話すようにしている。それゆえに会社の若者たちを見ていると、他人事ながらもどかしくて仕方ない。だが、こうした若者に檄を飛ばしても仕方ないであろう。政府の立場からできる事を考えてみると、マッチングの機会を設けて出会いの環境を演出することができることではないかと思う。そういう事を言えば、マッチングサイトはいくつもあるが、なんとなく危うい感じがしてならない。そこを払拭するのが政府としてできることではないかと思う。

 例えば、本人確認を厳密に行い、マッチング自体は自由にできるとしても、会うとなればサイト側の運営者が間に立つなどの仲人機能を設ければ、いかがわしい目的での利用は回避できるだろう。いわゆる「お見合い」に回帰していく感じである。そういう健全な運営をしているサイトに助成金を出してカップル化を促せば、結婚率も上がり、ゆくゆくは出生率も上がるように思える。そもそも結婚したカップルは普通に考えれば子供が欲しいと思うものだろうと思う。例え、少しぐらい家計が苦しくても。そのあたりの感覚が、政府関係者にわからないから、少子化対策に有効な手が打てないように思う。

 現代における「お見合い」の復活こそが少子化対策に有効であるように思うのである・・・


Chu Viết ĐônによるPixabayからの画像

【本日の読書】
こうして社員は、やる気を失っていく リーダーのための「人が自ら動く組織心理」 - 松岡保昌  心はあなたのもとに (村上龍電子本製作所) - 村上 龍





2024年6月26日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その2)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、恭而無禮則勞。愼而無禮則葸。勇而無禮則亂。直而無禮則絞。君子篤於親、則民興於仁。故舊不遺、則民不偸。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、恭(きょう)にして礼(れい)無(な)ければ則(すなわ)ち労(ろう)す。慎(しん)にして礼(れい)無(な)ければ則(すなわ)ち葸(おそ)る。勇(ゆう)にして礼(れい)無(な)ければ則(すなわ)ち乱(みだ)る。直(ちょく)にして礼(れい)無(な)ければ則(すなわ)ち絞(せま)し。君(くん)子(し)、親(しん)に篤(あつ)ければ、則(すなわ)ち民(たみ)仁(じん)に興(おこ)る。故(こ)旧(きゅう)遺(わす)れざれば、則(すなわ)ち民(たみ)偸(うす)からず。
【訳】
先師がいわれた。
「恭敬なのはよいが、それが礼にかなわないと窮屈になる。慎重なのはよいが、それが礼にかなわないと臆病になる。勇敢なのはよいが、それが礼にかなわないと、不逞になる。剛直なのはよいが、それが礼にかなわないと苛酷になる。」またいわれた。「上に立つ者が親族に懇篤であれば、人民はおのずから仁心を刺戟される。上に立つ者が故旧を忘れなければ、人民はおのずから浮薄の風に遠ざかる」
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 孔子はとにかく「礼」を重んじた。それがなければ「恭敬」も「慎重」も「勇敢」も「剛直」もみなその価値を失うと言う。物事には裏表があり、「恭敬」も「慇懃無礼」に感じられる事は容易に想像がつく。「慎重」も裏を返せば「臆病」になるのも然り。その違いは何だろうかと考えてみるも、それはその相手に対する「信頼感」のようにも思う。相手がどんな人間かわかっていれば、素直に「恭敬」と捉えられ、決して「慇懃無礼」とは思われない。信頼感がなくて不信感が先立つと「慇懃無礼」になる。

 我が社でもそんな「信頼感」を痛感させられる時がある。社長がとある部長から報告を受けると、必ず不信感のこもった対応をする。「本当か?」と確認するのはまだしも、「それで大丈夫なのか?」、「ダメだったらどうするのか?」と畳かける。正直言って私もこんな風に追及されると答えに窮すると思うのだが、当該部長もやはり答えに窮するし、時に反発したり投げやりになったりする。するとそれがまた社長の不信感を招く。おそらく、私が同じ報告をしたら、「わかりました」で終わる。

 私もこれまでも似たような経験を数多くしてきた。銀行員時代には、上司から問われた事に対し、私が回答したところ、「それは本当か、間違いないか、関係部署に確認しろ」と言われた事が幾度となくある。私としては過去の経験もあって自信を持って答えているのだが、上司はそれを信用しない。仕方ないのでわざわざ関係部署に連絡してわかりきった回答をもらい、上司に納得してもらった。私の言葉は信頼できないのかと憤ったが、ビジネスではよくある「身内を信用しない」という傾向である。

 件の部長も社長からの信頼感を得られていない。それはこれまでの長い期間に積もり積もった不信感なのかもしれない。私もおべっかを使っているわけではないが、全社視点に立って(つまり社長目線で)物事を考え、意見具申している。件の部長は「部長目線」でしか捉えられていないところがあり、その視点の違いは大きい。例えば、全社目標が未達でどうするべきかを議論している時に、「うちの部は目標を達成している」で終わってしまうのである。「できていない部が考えるべき事」としてしまうのでは、社長にストレスが溜まってしまう。

 全社目線で問題点を考えれば、おのずと同じ問題意識を持つことになり、同じ土俵で話をするから自然と共感が生じる。それが信頼感につながっていると思う。考えてみれば、「礼にかなう」とは、「同じ目線で見る」と言い換える事ができるのかもしれない。裏表がある事についても、「表を見る」という共通目線があれば、齟齬もなくなるわけである。ある者が表を見て話している時に、裏を見て答えれば当然意見の齟齬が生じる。そもそも共通の目線にないので違和感が生じる。

 銀行員時代、出張の多い業務に就いていたことがあったが、その時の上司はとかく出張が大好きで、それはそれでいいのであるが、「どこに行けば何を食べよう」的な話ばかりをしている人であった。そうなると、仕事をしているのかという不信感が湧いてくる。ましてやその上司の仕事は、相手先に訪問して役職者に会うだけで具体的に契約を取ってくるでもなかったのである。「何しに行っているのか」と部下である我々はみな思っていた。そうなると、真面目にやっているのがバカらしくなってくるものである。

 上に立つ人間の姿勢というのは重要であり、家族で行ったレストランの領収書を経費に回してきたりするような公私混同をしていると、下の者もやっていられなくなる。つい最近、同業者で大量退職が発生した。そのきっかけは社長による会社の私物化であり、利益を社長一族で吸い上げているのが役員にバレてしまい、一斉に辞めるという事態になってしまったのである。中小企業であれば、社長は「会社は俺のモノ」という意識になってしまうのだろう。何をやっても良いと勘違いすればこのような反乱を招いてしまう。

 上に立つ者がいかに公平公正で背筋を正しているかは、下の者のモチベーションに直結する。「この人のために働きたい」と思ってもらえたら、その組織は安泰だろう。自分も役員であり、上に立つ者の1人であるから、当然身を引き締めたいと思う。実際、経費の申請についてはやろうと思えば自分のハンコだけで通せるが、あえて社長に印をもらい、少額の交通費は部下の課長に承認印をもらっている。常にオープンにして疑われることなきようにという意識は持っているのである。

 古から真実というのはそう変わりはない。だからこそ古典も現代に生きてきたりする。自分がすべて正しいとは思わないが、折に触れ鏡を見て身を正す意識は持っていたいと思うのである・・・

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【本日の読書】
こうして社員は、やる気を失っていく リーダーのための「人が自ら動く組織心理」 - 松岡保昌    心はあなたのもとに (村上龍電子本製作所) - 村上 龍








2024年6月23日日曜日

管理職について思うこと

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
山本五十六

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 ここのところ会社では管理職のあり方について考えている。自分の考えが必ずしも正しいとは思っていないが、諸々考えると、管理職について「こうあって欲しい」という私の思いはあながち的外れではないと思う。某課長に対しては、常々会社としてやって欲しいことを伝えているが、「そうは言っても現場は大変だということを理解してほしい」との反論が返ってきてなかなかうまく行かない。実際、その課長さんは土日に社内のコミュニケーションツールで連絡してくる事が多々ある。平日はなかなかできないという事であり、忙しいのは事実である。

 私もそんな課長職の負担をどうしたら軽くできるだろうかと考えていた。ところが、先日、ひょんなところから意外な事実が判明した。それはその課長さんのチームの残業時間の一覧を目にした事である。課長さんだけが残業が飛び抜けて多く(ちなみに我が社では管理職に時間外手当はつかない)、他のメンバーは極端に少ない。それどころかほぼ毎日定時退社している若手もいる。個々のメンバーと面談してみると、みんな一様に「課長は忙しそう」と口を揃える。

 いろいろと関係各部署にヒアリングしてみたところ、どうやらその課長さんは1人で仕事を抱え込んでいるらしいとわかった。こういうタイプはよく見かける。実は我が社にももう1人このタイプの課長がいる。仕事はチームとして完成させれば良いわけで、課長が1人で背負い込むことはない。もっとメンバーに仕事を割り振れば良いのであるが、そうはしない。おそらく、「できないから」という理由が返ってきそうな気がする。私も実際の業務内容はわからないが、それはその課長の思い過ごしであると思う。

 もちろん、中身によっては任せられる仕事と任せられない仕事があるのはわかる。だが、意外と任せてみれば出来てしまうものであるのも確かである。例えば大口の取引先で、課長が直接対応しなければならないと思われるところであっても、あえて若手に担当させるのである。大事なのは「任せっぱなしにしない」事であり、例えば週一回の訪問ルールを決め、訪問してきたらその報告をさせ、どんな話をしたのか確認し、次回はどうするという風に綿密にフォローすればできたりする。

 さらに月に一度は課長も一緒に訪問してフォローすれば、課長がどんな話をするのか同行した担当者は勉強できる。取引先も大事な話は課長がきちんときてくれれば若手が担当でも文句は出ないだろう。あらかじめ取引先にその旨を伝えて協力を依頼するという事もできる。「若手には任せられない」という事はないと思う。1人で抱え込むのではなく、言葉で励ましながら、サポートすれば若手でも十分にこなせるだろう。それに負荷をかかる仕事をこなせば若手も成長する。人材育成が業務を行いながらできるのである。

我が社では、課長に3つの責任を負ってもらっているのは前回述べた通りである。すなわち、    
 1. 業務遂行責任
 2. 収益管理責任
 3. 人事労務管理責任
である。大事な事は、このどれかをやるのではなく、どれもバランスよくやる事である。よく誤解されがちなのは、業務遂行責任だけ果たせば良いというものではない。「業務が大変だから(他の管理ができない)」という言い訳はできないのである。

 そのためには「時間的なゆとり」が必要であり、土日も仕事をするのではなく、仕事は部下に任せて自分は管理に回るという姿勢である。課長には課長にしかできない仕事をし、そうでない仕事は部下に任せないといけない。そして部下は仕事を任されてそれをこなせば成長できるものであり、まさに一石二鳥の効果がある。会社の方針を理解し、それを部下に伝達する。部下のお悩み相談に乗る。仕事のやり方も教える。そうした事にはゆとりが必要であり、課長はそのゆとりを持たねばならないのである。

 「任せられない」というのは、結局、部下がその仕事に耐えられないのではなく、部下に任せる能力が課長にないのではないかと思えてならない。それは一面では責任感の表れでもあると思うが、本来管理職が期待されていることという観点からすれば、それは的外れな責任感でもある。得てして、自分の好きな事、得意な事、やりたい事という観点から「自分がやらないと」と思っているのではないかとすら思えてしまう。

 「任せてやらねば人は育たず」を実践してもらいたいと思うのである・・・

Sergio Cerrato - ItaliaによるPixabayからの画像

【本日の読書】

考える葦 - 平野啓一郎  クスノキの女神 - 東野 圭吾





2024年6月19日水曜日

管理職の責任

 最近、「責任感」という言葉を考える機会が多くなってきた。「責任感」とは「責任」に対する「感覚=考え方」とでも言えるであろうか、要は「責任を全うする」という意識である。我が社のある役員とはこの点で考え方がずっと合わないで来ていた。彼は責任とは「辞める事」としている。何かあれば「辞めればいい」という意見であり、私とは決定的に考え方があわない。私は「辞めたらあとはどうするんだ」と考える。本人は「責任を取って辞めます」と言っていなくなればよい。ではその後始末はどうするのだろうか。 

 そのタイミングで、「責任とは取るものではなく果たすもの」という言葉を知り、まさに我が意を得たりの感があった。責任は果たしてこそのものであり、政治家であればともかく、民間の中小企業では責任は果たしてもらわないと周りが迷惑することになる。自分がやっている事は、それをやる事が自分の責任であり、それを最後までやり抜くことが必要であり、その覚悟と責任感は持たねばならない。それが当たり前だという感覚でいたが、かの役員はそうではなく、大きな違和感を持ってしまったのである。

 我が社の管理職には、3つの責任を持っていただいている。その3つとは、
  1. 業務遂行責任
  2. 収益管理責任
  3. 人事労務管理責任
である。1はプレイング・マネージャーとして、自ら部下を率いて業務を遂行する責任である。2は、会社の売上目標の追求と経費管理である。管理職ともなれば、仕事だけしていればいいというものではない。その仕事が会社の収益にどう反映するか。自分と部下の給料は自分が稼ぐという意識が欲しい。

 3の人事労務管理は、部下の評価や勤怠管理である。実績を正しく評価して昇給・昇格へつなげ、36協定を遵守して過剰な労働とならないようにし、トラブルがあれば率先して対応する。しかし、当たり前だと思っていたそれが、先日とあるプロジェクトで問題が発生した際に崩れてしまった。担当していた若手が対応しきれずに炎上してしまったが、直属の管理職の対応が後手にまわってしまったのである。我が社は個別のプロジェクトに分かれて従事することが多く、そのケースも部下と上司とが別々のプロジェクトに入っており、上司もそのプロジェクトの事がわからないという事で、腰が引けてしまったのである。

 私は、彼に管理職として対応に当たれと指示したのであるが、その管理職は「わからないから」と及び腰。では誰が顧客との間に入って問題を解決するのかと問いかけ、挙句に「私がやろうか」と言ったところ、その管理職は渋々対応に入る事を了承した。エンジニアでもなく、現場の事がまるで分らない私にやらせるわけにはいかないと、さすがに覚悟したようである。そもそも管理職であれば、「現場の問題を自分のところで止める」という意識も持ってほしいと思う。自分のところで止まらなければ問題は上に行く。それはすなわち、自分に問題解決能力がないという事である。私であれば、それを快いと思わない。維持でも何とかしようと思う。

 それこそが責任感だろうと思う。課長ともなれば、その課の責任者である。その課で起こった事は、責任者である課長に責任がある。それを引き受けてもらわなければならない。たとえそれが自分にはまったく関係ない業務であっても、部下が関わっている以上、部下に対する責任を果たして欲しいと思うのである。私も初めて部下を持った時、それを最初に教えられた。銀行員時代、私の部下が支店長に呼ばれて怒られていたが、「そばに行って一緒に聞け」と教えられたのである。「自分の部下が怒られているのだから知らん顔しているな」と。それは確かにその通りであり、以来ずっと実践しているが、そういう意識は大事だと思う。

 中間管理職と言えば、悲哀という言葉が連想される。それだけどこも大変なのであるが、中間管理職の強い組織は本当にいい会社であると思う。逆に中間管理職の弱い会社は、よほどトップが優れていないと生き残って行けそうもない気がする。私の少ない経験からすれば、トップがダメでも中間管理職(あるいは№2)がしっかりしていれば会社は成長できるものである(ただし、ダメなトップが邪魔をしなければ、であるが)。そんな強い中間管理職のキーワードは、間違いなく「責任感」だと思う。今後の我が社の管理職強化のキーワードにしたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
「答えのないゲーム」を楽しむ 思考技術 - 高松 智史 地図と拳 (集英社文芸単行本) - 小川哲





2024年6月16日日曜日

都知事選雑感2024

 東京都知事選が来月に迫った。現時点で立候補者は54名だという。凄いなと改めて思う。新聞等のメディアでは小池さんと蓮舫さんとの対決が話題になっているが、他の候補については田母神元航空幕僚長だとか前安芸高田市長について目にするぐらいだったから、この機会に他の候補についても改めて見てみる。パッと目につくのはNHK党だろうか。なんと19人も名を連ねている。党としての後押しにしては分散し過ぎているし、党としての戦略ではなく、たまたま我も我もと立候補したのだろうとは思う。

 ドクター中松が今回も立候補しているのは好ましく思う。この人はすでに名物的な存在になっており、他の泡沫候補とは一緒にするべきではないだろう。当選の確率などほぼないに等しいにも関わらず、これだけの長い期間、諦めもせずに立候補し続ける姿勢はある意味立派なものだと思う。タレントの清水国明の名前もあるが、最近は何をしているのだろう、なぜ突然立候補なのだろうと不思議に思うが、このあたりまでが真面目に検討してもいい範囲なのだろうと思う。

 そのほかは記念立候補なのだろうか。「つばさの党」などは党首が選挙妨害で逮捕されたはずであるが、その反省の色もなくの立候補である。あきれるというよりもどういう判断根拠なのかと逆に興味深い。「ポーカー党」はその名の通りポーカーが好きなのだろうか。都政進出もギャンブルなのかと興味深い。「カワイイ私の政見放送を見てね合同会社」の代表社員は、どれだけカワイイのか見てみようかと思わせてくれる。PVを稼ぐための何かのPRなのだとしたら成功するのかもしれない。 

 「ネオ幕府アキノリ党革命家」のアキノリ将軍未満と称する候補者は名前を見るだけで楽しくなる。「将軍未満」とは、将軍ではないのだろう。将軍はいるのかとちょっと気になる。「忠臣蔵義士新党」「覇王党」「核融合党」など勇ましい名前の党は普段何をしているのだろう。「ラブ&ピース党」はその名の通り平和を愛する人たちが集まっているのだろうか。「コンサルタント会社社長」「建設会社代表取締役社長」などの肩書きの人は、もしかしたら自分の事業の宣伝のためかもしれない。

 たぶん、本気で都知事を目指しているのは、小池さんと蓮舫さんと他数名だけだろうと思う。実際に当選しなくても話題や宣伝にはなるから、自分の名前を広くPRしたいという考えだったら、それはかなり効率のいい宣伝なのかもしれない。YouTuber(「元」も含めてではあるが・・・)が立候補しているのもアクセス稼ぎが狙いかもしれない。いずれにせよ、供託金が没収されるのを覚悟で立候補するわけであるから、それに見合うPRができればいいと考えているのだろう。

 こうした泡沫候補がいいのか悪いのかは、真面目に論ずるほどの事でもないのだろうと思う。泡沫候補が立候補できるという事は、それだけ世の中が平和であるという事だし、何より希望すればどんな人でも立候補できるという民主主義の制度がきちんと機能しているという事に他ならない。世界には対立候補が暗殺されたり、そもそも立候補すらできなかったりする国もある中で、希望すれば54人もの人が自由に立候補できる我が国の政治制度は実に素晴らしいと言える(あくまでも「制度は」であるが)。

 投票日は7月7日。正直言って、小池さんにも蓮舫さんにも投票したいとは思わない私にとって、誰に投票するかは非常に難しいところである。できれば純粋に我々都民のことを考えて都政を引っ張ってくれる人がいいと思うのだが、そういう人を見分ける方法がわからないところが残念なところである。まだ投票日までには時間がある。私も真面目に候補者のことを考えてみたいと思う。まずは「カワイイ私の政見放送」を見て、泡沫候補の人たちの主張も楽しみながら、考えたいと思うのである・・・



【今週の読書】
思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」 - 鹿島 茂  考える葦 - 平野啓一郎 地図と拳 (集英社文芸単行本) - 小川哲





2024年6月12日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その1)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、泰伯其可謂至德也已矣。三以天下讓、民無得而稱焉。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、泰伯(たいはく)は其(そ)れ至(し)徳(とく)と謂(い)う可(べ)きのみ。三(み)たび天(てん)下(か)を以(もっ)て譲(ゆず)り、民(たみ)得(え)て称(しょう)する無(な)し。
【訳】
先師がいわれた。「泰伯たいはくこそは至徳の人というべきであろう。固辞して位をつがず、三たび天下を譲ったが、人民にはそうした事実をさえ知らせなかった」
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 「謙虚」という姿勢はこの世の中を渡って行く上で確かに必要であると思う。海外ではいざ知らず、我が国では特にそうだと思う。オリンピックで表彰台に立った人が、「みなさまのご声援のおかげです」と言う。しかし、そんなことはなく、ほとんどはその選手個人の努力の賜物であり、声援のおかげなどはわずかだろうと思う。まぁ、接戦で応援をもらうと力を得る事は事実なので、そういう効果がないとは言えないが、本人の努力あっての成果である。

 「おかげさまで」という感謝の心は確かに大事だと思う。この世の中は1人で生きていけないものであり、協力しあって譲りあって生きていく必要がある。すべて自分の手柄と胸を張る人間は、たとえそれが事実だとしても、周囲から疎まれることは間違いない。我が国の社会は、人より下を良しとする「謙譲社会」と言えるかもしれない。「俺はお前より上」というよりも「私はあなたより下」という人の方が好感を持たれる。それでみんなが安心を得られるのかもしれない。

 しかし、過度な「謙譲」は煩わしくもある。よくあるのが往復はがきである。差出人は返信用の自分の名前の下に「行」と記す。そしてそれを受け取って返信する人はその「行」を二重線で消して「様」あるいは「御中」と書き足して返信する。アマノジャッキーな私は企業宛の場合はあえてそのまま出しているが、たまに部下がそれをこっそり「御中」と修正して出してくれている。それはどうなのかと思う。

 相手の事を考えたら、最初から「様」としておけばいいはずである。ところがそれは自分に対して「様」を付ける行為であり謙虚ではない。そこで「行」とするが、今度はそれを出す方はそのまま出すのは失礼だと「様」にして出す。自分がへりくだるために相手によけいな手間をかけさせるのは、相手の都合よりも自分の都合を優先している行為であり、おかしくはないかと思う。だから私は、個人相手はともかく、法人相手の場合は「行」のままあえて修正せずに出しているのである。

 我が国の社会が謙譲社会なのは、「出る杭は打たれる」社会なのと同根なのかもしれない。みんなが平等なので、「オレが上」=「出る杭」となるのかもしれない。「私の方が下」とへりくだっていれば叩かれる事はない。そういう人に周りは安堵し、「応援してやろう」という気になる。そういう図式が出来上がっているように思う。転勤や転職で新しい職場に来た人が「ご指導ください」と挨拶すれば受け入れられるし、下手に反発を食らえば仕事もやりにくくなるかもしれない。よけいな敵を作らないという意味では、へりくだっておけば間違いない。

 スポーツでは、いくら実力があろうと傲慢に見えてしまう選手は人気よりも批判が多かったりする。かつてのプロ野球の落合や江川、ボクシングの辰吉、相撲の朝青龍なんかはそんなイメージがある(本人の実態はわからない)。実力があっても人格が備わっていなければダメだという理屈は理解できるが、その人格のバロメーターが「謙虚」という事なのかもしれない。ましてや実力がなければ尚更「謙虚」でなければならないのだろう。

 私自身はどうだろうかと考えてみる。会社では取締役という地位から必然的に社員よりは立場が上になる。それでも日々「謙虚」を心掛けているが、それは外様であるがゆえに「現場(システムエンジニアによるシステム開発)を知らない」という引け目があるからに他ならない。財務という得意領域はあるものの、肝心な本業では素人である。偉そうにしたくてもできない。また、シニアラグビーでは、自分よりうまいチームメイトがいる。ここでも偉そうにしていたら恥をかく。どちらも「謙虚」にならざるを得ない環境である。

 結局、力のない者が謙虚になるのは当然であり、それに対し、力があるのに偉ぶらないのは人格が優れているということになる。だから語り草にもなるのであろう。残念ながら私が語り草になる事はないだろうから、これからも分相応に謙虚に振る舞っていきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】
思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」 - 鹿島 茂  考える葦 - 平野啓一郎  地図と拳 (集英社文芸単行本) - 小川哲







2024年6月9日日曜日

弁護士のアドバイスをどう使うか

 知人から相談を受けた。その知人は、実家の処分の事で頭を抱えていた。実家にはもともと老親が住んでいたが、認知症を患って施設に入居することになり、実家が空き家となったと言うのである。今よくある問題である。老親が実家に戻ることはもうなく、2人の子供もそれぞれ自宅があるので戻ることもない。もう処分するしかないとの事であった。しかし、売却するには老親の意思確認が必要であり、認知症ではそれもできない。成年後見制度の利用という方法しかないが、手続きが億劫である。

 そこで子供2人で話し合い、空き家のままだと物騒なので取り壊そうという事になったそうである。そしてその前にまずは家の中の家財の処分が必要であるとなり、そこでどういう経緯か知らないが、知り合いの弁護士に意見を求めたということである。ところが、相談したところ、「それはできない」と言われてしまったそうである。売却は難しいとしても、せめて空き家のまま放置する事態は避けたく、なんとかならないものかと頭を抱えていたのである。

 私は話を聞いて、「すぐに処分しても大丈夫ですよ」と知人に伝えた。弁護士でもない私がそんな事を言うものだから知人は驚いて理由を聞いてきた。弁護士に正面切って聞けばそういう答えが返ってくるのはある意味当たり前で、弁護士としてはそう回答せざるを得ないのだろう。だが、建前の法律論と実際論とは違うのであり、そこが大事なところである。もちろん、当然ながら弁護士が間違っているわけではない。ただ「実際的でない」だけなのである。

 私は常々、言葉は悪いが、弁護士は「使うもの」だと思っている。わからないからと言ってすべておんぶに抱っこで「お任せ」するものではなく、常に自分が主体で、必要なアドバイスや法律事務を代行してもらう存在である。自分がやりたいと思う事を代わりに判断してもらうのではなく、「どうしたらできるのか」を一緒に考えてもらうのである。法律の世界は独特のところがあり、専門家の手助けは必要であるが、主体はあくまでも自分である。

 先の相談においても、気の利いた弁護士であれば「やっても構わない」と言ってくれただろうと思う。私は法学部出身だからわかるのでしょうと言われたが、法学部の学生だったからといっても知識レベルで言えば、「法律にアレルギーがない」というレベルでしかない。ただ、素人でも突き詰めて考えればわかることもある。質問の仕方次第で必要な答えを得られるのである。つまり、先の相談であれば「違反したらどうなりますか?」と問えばいいだけである。それであれば、法律に詳しくなくても誰でもできる。

 その質問にはきっと、「訴えられる」という答えが返ってくる。そこで「誰に?」と問えば、「所有者に」となる。続いて「所有者とは誰か」と考えれば、それは「認知症の自分の親」であるとなる。つまり、「認知症の親に実の子供が訴えられる」リスクがあるわけである。そうなればあとは考えるまでもない。さらに法定相続人である2人の子供同士は仲が良くて、親の財産に対して揉めることはない。となれば、まったく問題などない事が明らかである。

 私も前職では不動産管理の業務に携わっていたが、この業界では「家賃を払わずに夜逃げした人が部屋に残した荷物」に難儀することが多々ある。部屋を片付けないと次の人に貸せないが、所有者に断らずに勝手に処分することはできない。保管するにしても場所と費用がかかり、大家さん泣かせなのである。これも私は(結局、一度もなかったが)処分したって問題はない(もちろんケース・バイ・ケースではある)と考えていた。現実的なリスクを考えれば実際面は問題がないケースがほとんどだろうと思うからである。

 私も性格的に「丸投げお任せ」は基本的に好きではない。弁護士に頼む部分を明確にし、主体として自分でとことん考える。それには面倒なこともあるが、自分の「考える力」を養うにも納得いく結論を得るためにも必要であると思う。こうした考える力をこれからも維持していきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
  思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」 - 鹿島 茂 考える葦 - 平野啓一郎 地図と拳 (集英社文芸単行本) - 小川哲




2024年6月5日水曜日

銀行員の仕事

 私は新卒で銀行に入り、25年間勤めた。ほとんどを融資部門で過ごし、いろいろな企業を担当させてもらい、それなりに充実した仕事ができたと思う。そもそも銀行を選んだのは、大学時代に法学部で法律の勉強をしていて、経済の事はまるでわからなかったので、「銀行に入ればお金、すなわち経済のことがわかるだろう」という実に安易に考えたからであった。たとえ辞めてもその経験をいかしてどこかの会社の経理部長くらいは務まるだろうとも。今の仕事はまさにその経理部長(実際は人事部も含めた総務部長だが)として日々働いているから、まんざら想定外というわけではない。

 民間企業の総務部長になって、今度は取引銀行の担当者と逆の立場で対峙するようになった。融資のある取引銀行は7行。我が社の規模からするとちょっと多い。3行くらいが理想的であるが、まぁ仕方ない。銀行員から逆の立場になってみると、いろいろなことに気づく。銀行も最近は預金と貸出だけでは食べていけないとあって、いろいろな金融商品やサービスを売り込んでくる。お互いに商売であるから、それはいいのだが、ただその方法については巧拙が目につく。

 銀行も収益状況が厳しいのであろう、店舗の統廃合が進んでいて、担当者の担当する範囲もずいぶん広がっているようである。それなのであろうか、各銀行の担当者もほとんど来ない(まぁ、我が社も訪ねるに値しないと思われているのだろう)。こちらからは、融資を受けているので、毎月業績の報告はしている。今の時代、電子メールで一斉送信できるので、各行訪ねて報告する事を考えれば極めて楽ちんである。お互い、効率を考えたら、まぁそんな関係になるのだろうかと思う。

 銀行員も忙しいし、たくさんの取引先を抱えていれば、全取引先をマメに訪問するのは無理であろう。ただ、それなのに銀行本部からプッシュされているのであろう金融商品やサービスを売り込みに来られても、「はい、わかりました」と申し込みはできない。断るのも心理的に大きな負担がかかるが、必要のないサービスに金を払うほど会社に余裕があるわけでもない。必然的にお断りすることになる。

 そう言えば、私もよく銀行としての推奨商品を売り込みに行かされたものである。やれJCBカードを作れだとか、定期預金を集めてこいだとか。そもそも相手が望んでいないものをお願いするのは気が引けたし、苦痛でもあった。某銀行はちょくちょくいろいろな商品・サービスを売り込んでくるのだが、その都度自分の経験を思い出している(だからと言って申し込みはしないが・・・)。相手も「最初の1年間は無料なので、1年経ったら解約してもかまわないのでお願いします」などと言ってきたりする。

 1年経ったら解約すれば手数料はかからないというのは、確かにこちらにとって不利益はない。逆に銀行全体からすれば意味はない。だが、担当者からすれば、「とりあえず獲得した」というアリバイにはなる。当然、そんな事をしていても、銀行全体の業績改善にはつながらない。よく「恩を売っておけば何か困った時に融資してもらえる」という下心から、そういう商品・サービスに申し込む人はいるかもしれないが、元銀行員として言えるのは、そんな事は融資の検討の際には微塵も考慮されないという事である。その時、業績が悪ければ遠慮なく融資を断られるだろう。

 某銀行の担当者は割とよく訪問してくれる。こちらからの報告メールに反応して電話をかけてきては、「伺います」と言って来てくれる。来てくれるとこちらもいろいろと話をする。その話の中から、ネタを見つけては融資の提案をしてきてくれる。おかげでその担当者が来てからその銀行の借入シェアは3番目から1番に跳ね上がって来た。頼み事もされるが、こちらも「してもらっている」と無碍にはできない。気がつけば法人カードの申し込みをしていたり、預金を増やしたりとしている。

 何もなくてただ来て「これを申し込んでくれ」と言われてもなかなか首を縦に振れるものではない。無料であれば「まぁ仕方ないか」と思ってお付き合いさせていただく事はあるが、その担当者に対してはあまり信頼感は感じられない。何か相談があっても、まず頭に浮かぶのは、セールスは後回しで当社に興味を持って話を聞きに来てくれる担当者である。逆に日頃の信頼感があれば、何か頼まれても「いいですよ」という事になる。少しはこちらも何か協力できる事があればと思うものである。

 そう言えば、私も銀行員時代、とある業績不振企業の再生のお手伝いをしていた時に、その会社の社長さんに、「他の銀行はいくら返せるのかという返済の話しかしてこないが、◯◯さん(私のことだ)はどうやったら業績を改善できるのかという話をしてくれるので、毎週来てほしい」と言われた事がある。業績不振企業の融資を減らしたいのはどこも同じ。だからと言って業績不振だから返せる金額にも限度がある。より多く返済してほしければ業績を改善するしかない。その当然の理屈から私は話をしていたが、それを評価していただいたのである。

 銀行員だけの話ではないが、自分たちの利益ばかり優先して考えていても商売は難しい。別の取引銀行の担当者は、最近入行2年目の若手に代わった。担当になってから月に1回訪ねてきて、話を聞いていく。こちらもわざわざ来てくれたからには先々の業績予測や資金需要などの話をしている。先日もそんな話をしたところ、持ち帰って上司と相談すると言うので次は何か提案を持ってくるのかもしれない。2年目だけど銀行員としての仕事のスタンスはいいのではないかと思う。前任者からの売り込みは断ったが、今度はどうだろうか。

 外から眺めると各行それぞれの銀行員の仕事ぶりも面白いと思うのである・・・


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【本日の読書】

思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」 - 鹿島 茂 高瀬庄左衛門御留書 (講談社文庫) - 砂原浩太朗  残酷人生論 - 池田 晶子






2024年6月2日日曜日

還暦に思う

あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。
だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい。
《ネイティブアメリカンの教え》
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 6月は誕生月である。今年は60回目、つまり還暦である。自分が還暦であるという実感はまったくない。人は頭の中では歳を取らない。今も20代の頃とまったく変わっていない。まぁ、考え方そのものは年月と様々な経験を経て20代の頃とはまったく違っているが、基本的な自分というものは歳をとっていない。それでも子供が小さい頃の写真に一緒に写っている自分を見ると、さすがに歳を取っているのはわかる。頭の中は若くても、体は確実に歳を取っている。

 60回目の誕生日はいつもと変わらぬ週末の1日。一応、家族はみな私の誕生日を覚えてくれている。当たり前のように思われるかも知れないが、それを当たり前のように思わないようにしようと思う。いつものように実家へ行く。年老いた母のため掃除と料理を手伝っているが、最近、めっきりと短期記憶が衰えた母も私の誕生日を覚えてくれている。母も私が還暦だという事をことのほか驚いていた。ある意味、自分の歳よりも驚くのかも知れない。私のすべての誕生日を祝ってくれている人である。

 父はいつものように散歩に出かけたが、帰ってきた時にはケーキを買ってきた。コージーコーナーのショートケーキだったが、親父なりに気を遣ってくれたようである。耳が遠くなり、理解力も衰えていて、歳を取るという事はこういう事なのかと、私に身を持って教えてくれている。自分より27年長く生きている両親の姿は、そのまま27年後の自分の姿であるのかも知れない(何となく自分はもっとしっかりしていそうな気はするが・・・)。

 いつの頃からか、自分の寿命は何となく90歳という気がしている。という事は、その2/3を終えた事になる。残りあと1/3。それが長いのか短いのか。2007年から昨日までの17年間で2,800本ほどの映画を観ている。本は2009年半ばから約1,500冊読んである。とすると、残りの人生で映画は5,000本、本は3,000冊くらいは読める計算である。そう考えると、まだまだ先は長い。そもそも時間が経つのが早いと感じるのは、現在から過去を振り返るからであり、未来を望めば長いのである。

 残りの30年をどう生きるか。何となく目の前の事をこなしているうちに過ぎてしまったという事は避けたいと思う。とりあえず仕事は住宅ローンを払い終わる70歳までは頑張ろうと漠然と考えている。会社さえ安定して経営できていけば今の収入は維持できるし、そうなれば多少のゆとりを持って引退後の生活に入れると思う。そこから先は健康次第という事になる。といっても健康はすべての源であるから、そこからというよりももう今からという事でもある。6月は毎年健康診断の月にしているが、これもきちんと受けたいと思う。

 これからだんだんと出来なくなることも増えてくるかも知れない。既にシニアラグビーの世界では、白紺世代(40〜50代)との対戦ではキツいと感じることが多くなってきている。怪我の回復も遅い。それも当然なのだと思うが、そうした事実を受け入れ、無理なく自分に合わせていこうと思う。仕事でも社員が働いてくれるからこそ、事業が継続できるのであり、役員である自分の力などささやかなものである。ならば、社員が働きやすい環境を構築していくしかない。

 できる事に最善を尽くし、できない事はやってもらう。それも気持ち良く。元々人の先頭に立ったり、表に立ったりするタイプではないが、これからもそのスタイルは続けて行くだろう。何よりも人間としてのあり方を意識したいと思う。人に恨みを買うような真似は、少なくとも自分からする事は避けたい。損得よりも大事なことを見失わずに行動したい。多少のお金と多少の尊敬とを得られるように行動していきたい。残り30年、どのみち苦労と苦悩は絶えないだろうが、一方でそれらを楽しみながら過ごしていきたいと思うのである・・・

Stefano FerrarioによるPixabayからの画像

【今週の読書】
思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」 - 鹿島 茂  残酷人生論 - 池田 晶子  高瀬庄左衛門御留書 (講談社文庫) - 砂原浩太朗