2017年12月17日日曜日

ケンカ男子

小学校から中学校にかけて、私はどちらかというとおとなしい方だったと思う。ただ、では目立たない方かと言えばむしろ逆で、運動神経は良かったからスポーツでは割と中心的な位置にいたと思う。昼休みの野球では主力選手の1人だったし、運動会では常にリレーの選手だったし。中学では2年から途中入部したバスケット部でレギュラーになれなかったというのはあったが、最初から入っていればそんなことはなかったと思う。ただ、それ以外では大人しい子供のグループに入っていたと思う。

そんな私だったが、ケンカ度胸だけはなくて、この点では「逃げるが勝ち」派だった。小学校の時は友達をからかい過ぎて殴られたことがあったが、その時は予想もしていなかった反応で驚いたということもあって殴られっぱなしだった。ただ、そうでなくても殴り返せなかったと思う。中学の時も同様のことがあった。腹のなかでは「ちきしょう!」と思ってもやり返すだけの度胸はなく、悔しい思いを飲み込むことしかできなかった。

中学時代は、当時いわゆる「ツッパリグループ」と呼ばれていた一味がいて、自分は目をつけられないようにいつもビクビクしていた。一度道で出会ってしまい、公園へ連れ込まれそうになったが、慌てて何だかんだと言い訳をして逃げたことがある。今振り返って思い出してみても、悔しい思い出である。もしも今の自分だったら、そのまま公園へついて行って殴り合いのケンカに応じていただろう。だが、当時はまったくもってそんな意気地などかけらもなかったのである。

そんな自分がケンカができるようになったのは、ラグビーを始めてからである。体と体でぶつかり合うことを繰り返すうちに恐怖心も徐々に薄れ、体の大きな相手をタックルで倒すことができるようになると、「殴られてもこの程度のダメージ」ということもわかるようになっていき、自然と度胸もついていったのである。走り込んで来る相手にタックルに行くのは勇気のいる行為であり、これができるようになると、ケンカぐらい大したことはないと思うようになったのである。

ケンカをするのは当たり前だが良いことではない。だが、「ケンカをしない」のと「ケンカができない」のとの間には、天と地ほどの差がある。「いざとなったらケンカができる」、「殴り合いになっても怖くない」という自信は、心に余裕を生み、その余裕が腹が立っても感情を抑えて対処できることに繋がる。大人が5歳の子供にケンカを売られても優しくたしなめられるだろう。まさか本気で相手にする人はいないと思うが、それは力の差からくる余裕であり、それと同様である。格闘技を身につける意義もここにあると個人的には考えている。これは女性には理解できないことだろう。

社会人にもなれば、腹が立ったからと言ってまさかケンカをするわけにもいかない。ただ、理不尽なクレームに怯まずに対処するにはこの度胸が役に立つ。私も実際、銀行の窓口で理不尽クレーマーを撃退したことがあるし、つい最近も理不尽要求を突っぱねたところである。ケンカ度胸のない人は、こういう時にしどろもどろになってしまうだろう。少し前にコンビニで土下座させられた店員さんの動画が話題になったことがあったが、私だったら絶対にしないだろう。

こうした経験から、息子にも当然「ケンカのできる男」になって欲しいと思うが、一方で「力のコントロール」も学んで欲しいところ。ただケンカができるだけではマイナスにしかならないと思うからである。いざとなったら、自分や家族を守る。不当要求にはきっぱりと突っぱねる度胸を持つ。こうしたものの裏付けとなるのは、いざとなったらケンカができるという自信だろう。

ケンカができると言っても、理不尽な要求には屈しないと自慢してみても、実はそれは家の外での話。家の中では、耐えるばかりなのが実情。こればかりは如何ともしがたいものがある。息子が将来どんな大人に育って行くのかはわからないが、少なくとも家の外ではきちんと怯みなく自己主張でき、理不尽な要求には屈しないだけの精神力と腕っ節とを身につけてもらいたいと、父としては思うのである・・・






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