2017年12月24日日曜日

論語雑感 為政第二(その15)

子曰。學而不思則罔。思而不學則殆。
()(いわ)く、(まな)びで(おも)わざれば(すなわ)(くら)し。(おも)いて(まな)ばざれば(すなわ)(あや)うし。
【訳】
先師がいわれた。他に学ぶだけで自分で考えなければ、真理の光は見えない。自分で考えるだけで他に学ばなければ独断におちいる危険がある
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論語の言葉はどれも真理だとは思うが、人によって受け止め方は様々だろう。今回のこの言葉は、個人的にはかなり納得感の高い言葉である。常々「考えること」の重要性を意識している我が身としては、「学ぶ→考える」「考える→学ぶ」というサイクルこそが進歩の礎だと思っているからである。論語の言葉で学んだことではないが、「論語にも書いてあった」ということで「我が意を得たり」と膝を叩かされたのである。

自分自身の性格を顧みると、子供の頃からかなり真面目である。それは父親譲りだと自覚しているのだが、その性格は教えられたことをそのままきちんと覚えるというところに出ている。それを深く意識させられたのは高校時代のことである(【進化】)。高校でラグビーを始めた私は、当然ながら教えられたことを忠実に守り、真面目にその通りに実践していった。その結果、私のプレースタイルは「教科書通り」と評価されるようになっていたのである。

この言葉は「褒め言葉」として言ってもらったのであるが、私にはショッキングな言葉であった。言われてみればなんの面白みもないと気づいたし、決められた線路しか走れない人間であるかのような感覚に囚われたのである。そんな考え方が変わったのは、大学に入ってラグビー部の門を叩いき、そこでの自主性を重んじるトレーニングを経てからである。高校時代の私はまさに「教科書通り=学びて思わざる」状態であったのであるが、大学の練習で「考える」ことに気付き、「教えられた通りが必ずしもいいわけではない」ことに遅ればせながら気がついたという次第である。

例えば高校時代、タックルのやり方を習った。そのやり方は皆に徹底されていて、それを外れると練習でも試合でも注意された。もちろんそのやり方は、長年の先輩たちの努力と工夫の積み重ねであり効果的であると思うが、タックルのやり方は当然ながら一つではない。高校時代教えられた二つでもない。そもそもであるが、タックルの目的は「相手を倒すこと」である。相手を倒せば正解なのであって、どんな倒し方であったとしても(ルール違反にならなければ)いいのである。たとえ教えに反していても、である。
「考えてみれば」それは当然である。

では、倒すためにはどうすれば良いか。高校時代に教えられたタックルのやり方はもちろん間違いではない。しかし、シチュエーションや自分の心理(タックルに行くには最初やっぱり恐怖心があったのである)を考えてみると、いろいろなやり方がある。それを実践で試し、そこから得た教訓からまた考える。これを繰り返すうちに、恐怖心もなくなり、「形(教え)にとらわれず」「倒せば正解」のタックルは私にとって好きなプレーの一つになったのである。

勉強でも仕事でも、そんな例は様々ある。勤めていた銀行では様々な社内ルールがあった。それをそのまま覚えるのも大事だが、「なぜそんなルールが生まれたのか」、「なぜそうしなければならないのか」を考えればより一層ルールが深く身につく。そしてその原則が分かっていれば、違うシチュエーションでも応用が効く。表面的に覚える(学ぶ)だけではなく、その背景まで深く「考える」ことが極めて重要である。

今でも日々の仕事にそれは生きている。それがあれば、状況に応じた「判断」ができるようになる。子供達も学校で習ったことをそのまま覚えて欲しくはないと思う。一つ一つ教えてあげることはできないが、食卓での会話などの機会にできる範囲内で話したいと考えている。一つ例がわかれば、あとは自分で応用を効かせられるかもしれないからである。この論語の言葉は、その深い意味とともに諳んじられるくらい教えたいと思うのである・・・






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