2017年2月26日日曜日

会社を動かす

高校生の頃、将来漠然と何になるかアレコレと悩んでいた時、一つだけ心にはっきりと思っていたのは、「サラリーマンにだけはなりたくない」ということであった。当時の私にとって、サラリーマンとは「命じられるままに命じられたことをして給料をもらう」というイメージであったのである。今で言う「社畜」であろうか。そうして映画『ジャスティス』の影響を受け、弁護士になろうと進路を決めたのである。

その後、法律そのものが自分に向いていないとわかって、挫折ではなく進路変更して銀行員になったが、高校生の頃抱いていた「サラリーマン=社畜」というイメージは間違っていたと今では思う。もちろん、働き方によっては「社畜」となっている人もいるだろう。それよりも弁護士だからと言って、自立しているかと言えばそうではない。所属している事務所には方針というものがあるだろうし、自分で看板を掲げていても売れない弁護士になるとクライアントに媚びを売ることもあるようである。医者や弁護士だからと言って、他人に左右されないということはあり得ない。どんな職業にだって、従わなければいけない人(上司やお客さんなど)はいるものである。大事なのは、「働き方」だと思う。

例えば、今私は社長ではないが、「会社を動かしている」という実感を持っている。会社が取るべき今後の方針を考えて事業計画を作っているし、銀行からの借入交渉も行っているし、日常の様々な判断もこなしている。それは社長が任せてくれているからであるが、そうなるように働き掛けてきた結果に他ならない。我が社は中小企業だし、我が社の社員は誰でもそうしようと思えばそれができるが、「そういう意識」で働いているのは今の所私だけである。

会社を動かすことは(特に我が社のような中小企業であれば)、実は簡単な事である。「こうしたい(こうした方が会社にとって良い)」と思うことがあれば、それを社長に説明すればいいのである。その結果、「やってみろ」と言ってもらえれば会社を動かすことができる。会社の方針を決めるのは最後は社長であるが、要は社長にそう決めてもらうように働きかければ良いのである。

得てして、「自分は社長でないから会社を動かせない」と考えている人は、こういう考え方がそもそもできない。それどころか、そういう考え方だと例え社長になっても判断を過つことになるだろう。「自分が会社を動かす」という気概があれば、何をやるべきか日頃から真剣に考えるだろうし、提案した以上、「やってみろ」と言われれば自分でやる覚悟がないといけない。「〇〇すべきではないでしょうか?」と他人事の評論家では、もちろん言葉に重みもないから、提案しても採用してもらえないかもしれない。

提案しても社長が迷っていたら、「自分がうまくやってみせます」というくらいの覚悟がないと、言葉にも迫力がないだろう。私も今の会社に入って2年超。そうやって自分でいくつもやってみせてきた。だからこそ、今会社を動かせているのだと思う。ある同僚に、「社長は○○さん(私のことだ)の言うことなら聞くんですね」と言われたが、それは初めから贔屓されているわけではなく、そういう働き方をしてきたからこそ社長も耳を傾けてくれるようになっているのである。

 それは結局組織の大小を問わずどこでも同じだと思う。と言っても私の元いた銀行などの大組織になるとなかなか簡単にはいかないだろうが、一つ二つ上の上司くらいなら十分動かせるはずで、要はそういう働き方、言ってみれば「気概」の問題であろう。

高校生の頃には思ってもみなかったサラリーマンに今はなっている。しかし、それは「サラリーマンになっている」ことを思ってもみなかったのではなく、「社畜ではない、会社を動かすサラリーマン」の存在を「思ってもみなかった」のであり、あの頃の私がタイムマシンに乗って今の私に会いに来たら、「サラリーマンになっている」とがっかりさせることなく、胸を張って今の状況を誇れるだろう。

我が家の高校生の娘は、「将来働きたくない」とのたまわっている。あの頃の私とはまた違う感覚であり、なんてアドバイスしたらいいのか良くわからない。だが、せめて楽しく働く姿を少しでも見せ、「働くのも悪くなさそうだ」「どうせ働かないといけないなら楽しく働くにはどうしたらいいだろうか」と思うくらいには導きたいと思う。果たしてうまくできるだろうか。

会社を動かすより、娘の心を動かす方がはるかに難しいと思うのである・・・

 
【本日の読書】
 LIFE SHIFT(ライフ・シフト)―100年時代の人生戦略 LIFE SHIFT - リンダ・グラットン, アンドリュー・スコット, 池村 千秋 帝国ホテルの考え方 本物のサービスとは何か - 犬丸 徹郎






2017年2月23日木曜日

NHKの衛星放送料金

先週末の事、自宅でくつろいでいるとケーブルTVのJCOMの営業マンがやって来た。我が家では引っ越ししてきて以来、JCOMのお世話になっている。家族で見るのは私くらいなのであるが、映画や何といってもラグビーの試合が多数観られるので重宝しているのである。そんなJCOMが来たのは、また何やらセールスだろうと思ったのである。JCOMもインターネットや電話や諸々料金アップにつながるサービスの提供に余念がなく、これまでもしばしばセールスを受けている。

ところが、JCOMの担当者の要件はまったく予想もしないことであった。それは、「NHKの衛星放送の料金を今度から払ってもらうことになった」というものであった。なんでもNHKからJCOMに対して申入れがあり、要は「見られるのだから払わせろ」となったようなのである。JCOMの料金と一括して払うと、「団体割引」が適用になってお得だというのである。

実は、以前にもNHKの担当者が集金に来たことがある。その時は堂々と「払わない」と宣告した。払わないと言っても、通常の地デジ分は払っている。それはNHKの公共性を認めてのものであり、納得いくものだからである。払いたくないのは「衛星放送」分である。これははっきり言って必要性が欠片も感じられない。NHKが衛星放送をやる必要などないし、やるならやるで構わないが、その料金を請求されるのはとんでもないことである。

なぜ、衛星放送が必要なのか?公共性を謳うなら地デジだけで十分であると思う。いくつもいくつも公共放送を流す必要があるとも思えない。もっともNHKの人から見たら必要な理由など何百も説明してくれるに違いない。政府の無駄と同じで、「必要か否か」は、「ないと困るかどうか」に置き換えて問う必要がある。NHKの衛星放送が「ないと困るか」と問われ、「困る」と答える日本国民が一体どれだけいるであろうか。

「衛星放送が見られるから」(料金を払え)というのも気に食わない。以前住んでいたマンションではWOWOWを観ていたが、集金に来た担当者には、「観られたくなかったらスクランブルをかけたらどうか」と申し上げた。玄関のドアを開けっ放しにしておいて、中を見たなと料金を請求するのはおかしな理屈である。無理やり見せておいて、料金を取るやり方は押し売りに他ならない。

我が家に来たJCOMの担当者こそいい迷惑だろうが、そういう考えをお伝えした。強制的に引き落とされるのが怖かったのだが、よく聞いてみたら一応同意書がいるということであった。それなら判を押さなければいいので、申し訳ないとお詫びしてお引き取りいただいた。ちなみに料金は月額900円弱で、正規料金の2,230円から比べれば大幅ディスカウントであるが、たとえ100円でも払う気はない。(考えてみると正規料金は、WOWOWの月額2,300円と比べてもいい根性している価格設定である)

世の中、理不尽なことは多々あるが、どうにもならないものもあれば、抵抗できるものもある。抵抗できるものであれば、せめて思いの一太刀ぐらいは食らわせたいと思うのである。それにしてもNHKもさるもの。直接がダメなら間接とばかりに事業者に圧力をかけてくるとは・・・これからもいろいろ考えてくるのだろうが、徹底抗戦の覚悟で臨もうと思うのである・・・



【本日の読書】
 参謀―落合監督を支えた右腕の「見守る力」 - 森 繁和 アリさんとキリギリス ―持たない・非計画・従わない時代 - 細谷 功





2017年2月19日日曜日

叱る事

先日の事、高校生の娘が無断外泊をした。と言うと穏やかならざる事態が想像されるが、泊まった先は同級生の女の子の家で、もともと何やらみんなでやりたい事があって、妻には許可を求めていたらしい。ところが娘の生活態度に一部問題があり(まぁはっきり言って受験勉強のやりすぎによる「燃え尽き症候群」だ)、その改善がなされなければダメと妻には言われていたらしい。ところがそれをクリアできず、差し迫った約束の時間の中で、「強行突破」したというのが真実である。

妻は当然のことながら烈火の如く怒りまくり、その勢いは何もしていない私もとにかく反省しなくてはと思わされるほどであった。娘とはスマホで簡単に連絡が取れるものの、当日は妻からのメールもLINEも無視するという(私にはとてもできない)、なかなか「度胸のある」態度であった。結局、すったもんだした挙句、その日は友人宅に泊めてもらい、翌日帰宅してから「話をする」ということになった。私であればもう家には帰らないであろう状況である。

翌日、早めに帰宅した娘。妻は幸い外出して帰りは夕方という状況、私は娘と話をすることにした。それは、妻に「あなたからもガツンと言って」と言われていたからではなく、父親としてやはり言っておくべきだろうと思ったからである。そして娘を目の前に座らせ、3分ほど静かに話をして解放した。妻が見ていたら、「なんて甘いのだ」とこれも烈火の如く、攻撃の矛先を私に向けてきたことであろう。

しかし、私には私なりに「叱り方」についての考えがある。妻の叱り方は、激情型だ。息子を叱るにも、頭から怒鳴りつけ、そして理を説きながら徹底して隙を追求するというものだ。問われた方は、正直に気持ちを言えばまた怒られるから黙っている。そうするとなんとか言えとしつこく追及され、ポロリと本音を漏らすとさらに怒りを買う。長い叱責の時間に嫌気がさし、投げやりな言葉を吐くとまたくどくどと説教が続く・・・案の定、帰宅した妻の叱責は1時間半に及び、娘は泣きはらした目で夕食の席に着いた。

妻に文句を言われようと、こうした叱責が効果があるとは思えず、従って私としてはもっと効果的な方法をと考えているのである。それが静かに諭すということである。もともと性格的に怒るのは好きではない。もちろん、喧嘩となれば今でもビビったり怯んだりすることはないが(相手によるが・・・)、叱るということになると、そうすればいいというものではないと思う。幼少期なら、怒って怖がらせて躾けるということもあるだろう。だが、子供も大きくなったらこちらも考えないといけない。

頭から怒鳴っても、もう心の底まで届かないだろう。「うるさいなぁ」とか「早く終わらないか」とか、我が身を振り返って見てもそう思うに違いない。叱る目的が、自分の怒りの発散なのかそれとも教育なのか。教育であるならその目的を達成できる手段を選ばないといけない。自分の経験からすると、基本的に叱責とその反省効果は、時間に反比例すると思う。「長ければ長いほど効果はない」と自分は思うのである。 

それは実はビジネスの現場でもそうではないかと思う。銀行に入った時についた最初の上司はとにかく厳しい人で、私の横で先輩の主任さんが半日立たされていたこともあった。係の先輩たちはとにかくその上司の叱責を恐れ、縮こまって仕事していた。とにかく失敗しないようにと。そんな環境の中で、「何かにチャレンジしろ」などと言われても絶対できなかっただろう。みんな間違えたり失敗することを恐れるのではなく、怒られることを恐れていたのである。

二人きりで、「ちょっとそこに座れ」と言われれば、娘も「来たな」と思うであろう。目の前に座った娘は、怒られると思って帰って来たわけで、それも普段何も言わない父親が改まって言うことで、当然緊張感は相当高まっている。娘の神妙な顔つきがそれを物語っており、それだけで教育効果は半分以上あったと思う。そして言ったことは、「自由には責任が伴う」ということで、要はやりたいことがあったら、きちんとした生活態度を維持しなさい、それが自分に対する信頼につながり何かやりたいと思っても「この子なら」と許可してもらえる事に繋がるのだということである。それは今後の人生でも当てはまる。

言うだけ言って、「以上、しっかりやりなさい!」と解放した。娘がそれをどう捉えたかは正直わからない。母親の長時間にわたる叱責に逆ギレ的な反論もしていた娘だが、翌日には母親と二人仲良く風呂に入っていたし、母娘の関係には父親には入れないものが確実にあると思うから、理屈通りにはいかないのかもしれない。だが、少なくとも両親からそれぞれ長時間叱責されるのは、さすがに効果も薄いだろうことは真実だと思う。妻は妻、自分は自分で思う通りにやるしかないと思う

叱ることについて、考えるいいきっかけになったことは事実である。我が家にはもっとやんちゃな息子もいるし、「効果ある教育的叱責」をこれからも考え続けたいと思うのである・・・


【今週の読書】
 第四次産業革命--ダボス会議が予測する未来 (日本経済新聞出版) - クラウス・シュワブ, 世界経済フォーラム  自分の時間を取り戻そう―――ゆとりも成功も手に入れられるたった1つの考え方 - ちきりん







2017年2月15日水曜日

日本のモノづくり

 私が勤務する不動産会社では、区分所有マンションを保有しており、定期的に管理組合総会の資料が送られてくる。先日もあるマンションで、そろそろエレベーターの交換を検討しないといけないという意見が管理会社から出されていた。「部品の保管期限が切れ故障しても交換ができない」ということである。また、別のマンションでは、同じ理由でインターフォンの交換が提案されている。

 メーカーの保管期限が切れ、部品交換ができなくなるというセリフは至る所で耳にする。メーカーの部品の保管義務については、特段何か法的なものがあるというわけではなく、概ね自主規制の世界のようである。まぁ、メーカーも様々な製品を作っているわけだろうし、修理のための部品保管に限度があるのも当然だろう。これまでは大して気にも留めなかったが、よくよく考えてみるとどうなのだろうと思う。

 考えるきっかけとなったのは、先のエレベーター交換の話だが、それとは別に先日読んだ本(NASAより宇宙に近い工場』)にも気になる表現があった。それは日本のメーカーは、『壊れやすい製品を作る』ということである。壊れればそれはすなわち買い替えにつながるわけで、そうしてメーカーは製品を売りながら次の需要を作り出しているということである。それに反発した著者は、『壊れない製品』を作っているそうである。

 それが本当かどうかはわからないが(まぁたぶん真実なのだろう)、それは「部品保管期限」という考え方にも表れていると思う。本当に否定するなら、部品を長く保管すればいいはずである。それは何も価格の安い家電などには適用しなくても、高額な製品であればそう思わざるを得ない。「使っているお客さんがいる限り」保管して欲しいものである。

 その昔何かで読んだ気がするが、伝統あるヨーロッパのブランド品は何年経っても修理してくれたりするらしい。そうして長く使用でき、それ故に愛されてきた伝統がそれぞれのブランドを築き上げてきたのだろうと思う。バックにしろ車にしろ、性能では引けを取らない日本のメーカー品が、ブランドで足元にも及ばないのは、ひょっとしたら『壊れやすい商品』を作っているからではないだろうかと思ってしまう。

 最近、日本の「モノづくり」が退化している。一生懸命日本のモノづくりを支えようと努力しているが、そもそもの原点に立ち返って、末永く利用できる製品作りから始めるのが解決策ではないかという気がする。NASAより宇宙に近い工場』の植松社長は、現に『壊れない製品を作る』ことを掲げているわけで、日本の大メーカーがやろうと思えばできないはずがない。そこまでいかなくても、部品など半永久保管にして、「使い続ける限り使えるようにする」というのでも良いと思う。

 ちなみに先のエレベーターは東芝製であるが、交換するとなると相見積もりの結果次第だが、おそらく価格的に他のメーカーになると思う。買い替えどころか、他所に持っていかれるわけである。それなら自社製品を使い続けてもらう方がいいのではないかと思う。そしてそうした評判が高まれば、(例えば)「東芝のエレベーターは高いけど長く使えるからお得だよ」と購入につながるかもしれないではないかと思わずにはいられない。

 目先の金勘定をしているところは、やっぱり短期的にしか成果を上げられないと思うのである。私はメーカーの人間ではないが、それで良かったか悪かったかと考えると、少なくともそんなメーカーの一員ではありたくないし、故に悪くはなかったと、残念ながら思うのである・・・


【本日の読書】
 第四次産業革命--ダボス会議が予測する未来 (日本経済新聞出版) - クラウス・シュワブ, 世界経済フォーラム  コーヒーが冷めないうちに - 川口 俊和 自分の時間を取り戻そう―――ゆとりも成功も手に入れられるたった1つの考え方 - ちきりん




2017年2月12日日曜日

論語雑感(学而第一の12)

有子曰。禮之用。和爲貴。先王之道斯爲美。小大由之。有所不行。知和而和。不以禮節之。亦不可行也。

有子(ゆうし)(いわ)く、(れい)(よう)()(たっと)しと()す。先王(せんおう)(みち)(これ)()()す。小大(しょうだい)(これ)()るも、(おこな)われざる(ところ)()り。()()りて()するも、(れい)(もっ)(これ)(せっ)せざれば、()(おこな)()からざるなり。
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 聖徳太子が制定した17条憲法の第1条に「和を以って貴しとなす」という有名な言葉がある。何よりもまず第1条に「和が大事」という言葉がきていることは、日本の文化を表しているという人もいるが、そんな和を大事にする我々からすると、今回のこの言葉はスムーズに入ってくるところである。17条憲法もここから来ているのかと思うくらいである。

しかしここでは、「和」よりも「礼」に重きが置かれている。ここでいう「礼」とは、岩波文庫によれば、「主として冠婚葬祭その他の儀式の定め」だという。「和」も大事だが、それには「礼」によって節度を持たせないといけないということなのだろうが、その意図するところはちょっとわかりにくい。わかりにくいのは、時間と言葉の壁なのかもしれない。このあたり、中国古典の限界なのかもしれない。

礼によって節度あるものとならしめられる「和」であるが、果たしてどういうものかと思ってみる。互いに相対立する意見があって、そこに「和」をもたらそうとすると、どうしてもどちらかが折れないといけない。あるいは、以前述べた通り「折衷案」を出して双方が譲り合うしかない。しかし、口で言うほど簡単ではない。どちらか一方の意見が通った場合でも、通らなかった方には忸怩たる思いが残るかもしれないし、中途半端な折衷案が問題解決に役立たないことも多々あることだからである。

仕事でもよく議論があるが、ある人はいつも自分の意見をはっきりと主張しない。だから議論になってもいつも私の意見が通ってしまう。もちろん、私は私なりに根拠を持って話しているので、自分の意見が通ることは満足であるし、会社としてもその方が良いと信じている。だが、いつもいつもそれでいいのかと思わなくもない。自分と違う意見と接した時に、いつも自分の意見を引っ込めていていいのだろうかと。いつも議論に議論を重ねていると疲れてしまうのだが、すんなり通るのもそれはそれで不満が残る。

礼をもう少し広く解釈して、相手に対する敬意と考えればすんなりと理解できる。議論をするとは、意見の衝突である。互いに我こそは正しいと信じているわけで、でもどちらかに決めなければならない。その際、採用された方は得意満面となるだろうし、意見が通らなければ面白くない。しかし、そこで意見が通らなかった方も顔が立てばスムーズに納得できる時もある。その「顔を立てる」ことが、「和」を維持するためにも必要であろう。「今回はやむなく不採用となったが、あなたの意見は貴重な意見だ」という態度である。

これを「礼」とするなら、まさに「礼」こそが大事なファクターだということになる。孔子の説いた「礼」が冠婚葬祭における形式的な行為であったのかどうか、その真に意図するところはどうなのか私にはわからないが、「相手に対する敬意」とするなら、すんなり納得できるところである。そしてそれが自分に備わっているかと考えると、どうも怪しい。ついつい自分の意見を主張することに熱中しがちになってしまうのである。

声高に自分の意見を主張することも大事だが、その場にいる一人一人の意見にもしっかりと耳を傾け、意見を言わない人も実はいい意見を持っているが遠慮して言わないだけかもしれないので、そういうところにも気を配りながら全体の意見を集約していく。そんな態度が取れたらいいと、自戒の念を込めて思う。

「礼」と「和」。議論する時に、心したいと改めて思うのである・・・


【本日の読書】
 雑談力 相手の心をつかみ、楽しませるネタと技術 (PHP文庫) - 百田 尚樹 コーヒーが冷めないうちに - 川口 俊和





2017年2月9日木曜日

『日本のいちばん長い日』に見る熱狂

先週末は、映画『日本のいちばん長い日』を観た。終戦間際の戦争終結に向けた動きを描いた映画である。敗色濃厚な戦況に、総理大臣に任命された鈴木貫太郎を中心として降伏へ向けた動きを探るのであるが、本土決戦を主張する陸軍が反発するという内容である。その対立は最後まで続き、結局、「聖断」という形で天皇に決めていただく形で終戦を迎えたのは周知の通り。そんなストーリーとあわせて、強く印象に残ったのは自分の意見に猛進する人の姿である。

本土決戦を主張する青年将校の畑中少佐。彼はポツダム宣言受諾へと向かう動きに我慢がならず、国体護持、本土決戦を周りに力説していく。そして降伏の動きを封じ込めようとするクーデター命令を出させようと近衛師団長に迫るが、当然受け入れてもらえない。そこで畑中少佐は師団長を殺害し、命令書を作成する。傍から見ればとんでもない行動であるが、本人からすれば、純粋な愛国心からの行動なわけである。そこが怖いところである。

誰でも自分なりの信念、考え方があるだろう。そしてそれが正しいと信じているわけである。だが、当然世の中にはそう思わない人もいるわけで、それは人それぞれ生まれ育ってきた中で、学習したり経験したりしてきた中から身につけた思考である。それが正しいかどうかなんて、単純な算数の問題の如く明らかなわけではない。立場が変われば異なるものもあって、一概に否定はできない。それが人というものであろう。

しかし、世の中には「自分の意見絶対主義」とでもいう人がいて、自分の意見こそが世の中の絶対正義と信じて疑わない人がいる。かつて大阪で橋下徹さんの絡んだ選挙があり、橋本さんは60万票獲得していたが、橋本さんを批判するある人物は、「大阪に60万人もバカがいる」とのたまわっていた。これこそ「自分の意見絶対主義」の典型である。自分とは異なるとはいえ、60万人もが賛同する考え方なわけである。当然ある程度の敬意はあってもいいだろう。少なくとも自分はそう考える。

相手には相手の考え方がある。自分とは異なるのであれば、まずどうして異なるのか、自分であればまずそれを聞く。ひょっとしたら自分の知らない情報を持っていて、それを知れば自分の意見も変わるかもしれない。ならばじっくりと聞いてみるべきであろう。あるいは立つ位置によっても違うだろうし、もしかしたらそちらの視点の方が大事かもしれない。そう考えれば、間違っていたらすぐ改めるためにもまずはその主張を聞くところからだろう。

ところが、「自分の意見絶対主義者」は、自分の意見が絶対であるからこそ相手の意見になど耳を傾けない。ネットの世界をのぞいてみれば、そんな人たちがウジャウジャいる。安倍総理批判を展開する人たちなどがその典型である。こういうからには、自分は「自分の意見絶対主義」には陥っていないと思っている。かつて東北に住む先輩Hに、護憲派としての意見を聞いたことがあるが、それがその表れである。

 安倍総理の考え方に批判的な先輩Hであるが、その考え方は自分とはもちろん異なる。先輩Hの意見を聞いたが、残念ながら納得できるものではなかった。したがって自分の意見を変えるところまでいかなかったし、自分の意見の正しさが改めてわかったと思う。ただ、だからと言って先輩Hに考え方を改めさせようと思うかと思えばそうは思わない。それは先輩H個人の居心地の良い心情であって、それを否定することは誰にもできない事だからである。相手の考え方を尊重するということは、自分の考え方を尊重するのと同様、大事なことだと思う。

畑中少佐の純粋な愛国心はよく理解できるが、近衛師団長を射殺し(史実では刀でとどめを刺したようである)、命令書まで偽造してしまうのは当然やり過ぎである。自分の考えに酔いしれるあまり、他人の考えを尊重することまで思い至らなかったわけである。そして怖いと思うのは、やはり今でもこういう人が多いと思われるところである。「60万人ものバカ」とのたまう人は、おそらく自分は畑中少佐ではないと思っているだろうが、相手の意見を尊重しない「自分の意見絶対主義」という点ではまったく同じである。

幸いにして畑中少佐の企みは挫折し、玉音放送は無事放送され、日本は無条件降伏した。クーデターが成功していたら、さらなる悲劇が引き起こされていたに違いない(3発目の原爆投下とか、ソ連による北海道の占領→戦後の分断とか・・・)。大きな悲劇は当然であるが、日常の小さな悲劇であっても、互いに互いの考えを尊重する考え方があれば悲劇は起こりにくい気がする。ビジネスの現場などでもそうだと思う。

かく思う限りは、「自分の意見絶対主義」に自ら陥ることのない様、自分の考えを一歩引いて客観的に眺められるように心掛けたい、と思うのである・・・


 【本日の読書】
 日本共産党と中韓 - 左から右へ大転換してわかったこと - (ワニブックスPLUS新書) - 筆坂 秀世 雑談力 相手の心をつかみ、楽しませるネタと技術 (PHP文庫) - 百田 尚樹 誘拐 (双葉文庫) - 五十嵐貴久





2017年2月5日日曜日

結婚21年

今週は我が家の結婚記念日の週であった。妻と結婚して21年になる。結婚して21年が経ち、自分も50代となるとさすがに結婚当時とは大きく異なるものだという気がするが、実はそうでもない。さすがに子供が二人生まれたりして環境は変わったが、気持ちの上では結婚当初と変わらないというのが正直なところ。ただしそう思うのは私だけで、妻の方はもうそうではないらしい。

結婚当初何を考えていたかといえば、なんとなく漠然と将来子供は二人くらいで、しかも長女長男のいわゆる一姫二太郎で、銀行ではそこそこ出世して、両親と同居できたらいいなという程度であったと思う。子供についてはその通りとなったが、あとはダメであった。まぁそれはそれで仕方がない。

子供も小さいうちはただ可愛くて、それだけで良かったが、だんだん大きくなると「教育」という問題が出てくる。ここで妻とは大きく意見が異なってしまう。自分は国公立の道を自力で切り開いてきたという自負がある。塾へも予備校にも通わなかったし、何が必要かを考え、自分で必要な努力をしてきた。子供達にも当然同じようにできるようにしたいと思うが、妻はそうではない。

受験に際し、学校とも連携し、熱心に受験をサポート。やれ学校見学だと早くから動き、通信教育に塾にと通わせ、勉強しろと尻を叩いた。なんとなく違和感を感じていたが、口を出すこともはばかられ、結局自分はそれを見守っているだけだった。その成果もあって、娘は学力トップの公立高校に合格したが、今は失速して目標を見失っているようである。早くも大学受験が目の前にチラついているが、娘の頭の中は漂流状態である。

そんな娘に対しては、自分なりのアドバイスがいくつも頭の中に浮かぶのだが、同時に妻の顔も頭に浮かぶ。「なんて言うだろうと」。妻の頭の中は、「首都圏の国公立大学」となっているようである。それはもちろん経済的な理由もあるのだが、経済的な理由と言っても同意しかねるところがある。「そのくらいなんとかなる」と言うのが私の考え。もちろん医学部と言われたらさすがにひるんでしまうが・・・

そしてそれを自分は妻と議論したいとは思わない。良くないとはわかっているものの、そこでのやり取りを想像すると憂鬱になるのである。お互いの性格の違い、考え方の違いを大きく感じている。妻の考え方は、「堅実だが堅実すぎて子供の可能性を大きく制限する」ものだと思えてならない。これは結婚前にはわからなかったことである。これに限らずであるが、結婚生活を送る中で、最初はわからなかった二人の考え方の違いというのが随分と出てきている。もしも映画『ペギー・スーの結婚』のように21年前に戻る事ができたなら、果たして自分はもう一度妻と結婚するだろうか。

その答えはお互いにNoなのかもしれない。だがもしも目の前に尻尾を生やした悪魔が出てきて、その願いを叶えてあげようと言われ、ただし互いに結婚しなければ今の子供たちとも出会わないよと言われたらどうだろうか。もう一度今とは違った人生にチャレンジしてみたいという気持ちはあるが、子供たちとは別れたくないという思いも強い。「子はかすがい」とはよく言ったものである。

人生に困難はつきものであり、この程度であるならそれも良しなのかもしれない。子供が重い病気で海外に移植手術に行かなければならないなどという状況を想像してみると、はるかに今の生活は幸せである。これからどんな夫婦生活が続いていくのだろうか。あるいはそもそも続くのであろうか。先のことはわからないが、そんな未来を手探りで迎えようじゃないかと思う結婚21年目なのである・・・


今週の読書】
 日本共産党と中韓 - 左から右へ大転換してわかったこと - (ワニブックスPLUS新書) - 筆坂 秀世 誘拐 (双葉文庫) - 五十嵐貴久







2017年2月2日木曜日

人間性とは・・・

 銀行員時代、ずっと融資の仕事をしてきたが、つくづく「窮地に陥ると人は変わる」ということを見てきた。お金を借りて返せるうちは良いのだが、返せなくなると態度が変わるのである。もちろん、すべての人と言うわけではない。誠実に対応していただく方も多いが、それ以上に手のひらを返したように変わる人が多いのである。

 事業がうまくいかなくなり、資金繰りが厳しくなって新たな融資の申し出に来られる時がある。銀行も諸事情を勘案し、支援できる場合はこれに応じる。しかし貸し倒れになるリスクが高い時はお断りすることがある。返ってこないと思われるお金を貸すのは、事業をしている以上ありえない。普通の人も自分が貸す立場になればそう思うであろう。しかしながら、断られた方は面白くない。「今までいくら利息を払ってきたと思っているんだ」とか、「銀行が資金を供給しないから景気が回復しない、金を貸してくれなければ返せない」とかいろいろと言うものである。

 銀行も公共的な役割を担っているとはいえ、ボランティアではない。銀行はそれが商売でもあり、一方で預金者から集めたお金は間違いなく返さないといけない。そういう背景からすると、結局のところ銀行はどんな人に貸すのかと言えば、ただ一言、「返せる人に貸す」のである。よく「銀行は雨が降ったら傘を貸さない」と言われるが、正確ではない。雨が降っても「傘を返せる人には貸す」のである。

 それはともかく、驚くのは返せなくなった方の変わりようである。あれこれと言い訳するのはまだいい方で、ひどいのになると平気で嘘をつく。「あの時ああ言った」とか「こうだった」とか、あることない事主張する。銀行は審査の時に「人、モノ、金」と判断する。そんな人に限って過去の審査資料を見ると「人物面良好」などと記載してあるのである。借りる時、調子が良い時は誰でも善人なのである。

 不動産業界に転身しても、やはりお金にまつわるゴタゴタはついて回る。家賃を払えなくなる、退去の時に敷金を多く返せとごねる、などはよくあることである。例えば退去の時には「事前告知」を契約時に取り決めしてある。住宅では1か月、事務所では3か月などである。これは貸す方も「明日出ていきます」と突然言われても困るからである。だいたい退去しようという時には、事前に予定するものだろうし、事前告知も無理ではないと思う。またどうしても、という場合にはお金だけいただく事で対応している。

 ところがここでも手のひらを返される。曰く、「いろいろとこちらもしてやっただろう」とか、あの時こう言ったとか、もしかしたら出ていくかもしれないと言ったのは退去するという意味だとか、よくぞまぁ都合よく言うものだと感心するのである。もっともそれだけ困っているというわけで、こちらとしても正直に「申し訳ないのだけど」と相談いただければ、「それでは」と譲れるところまで譲る対応もするのであるが、端からクレームまがいに来られると歩み寄る気持ちも失せてしまう。

 「窮地に陥った時こそその人の人間性が出る」というのは本当で、お金に困った時も同様である。もう亡くなった私の叔父も、事業で成功している時は弟たちに「お金を出すから商売をやってみろ」などと羽振り良く振舞っていたが、事業が傾いてから「金返せ」、「相続は長男である自分が多くもらう権利がある」などと主張しだし、兄弟間で「争続」争いへと発展して仲違いしてしまった。「すまん助けてくれ」と頭を下げていたら、弟である父たちも兄貴を助けようと団結していたに違いない。

「人間の器」と言えばその通りで、窮地に陥った時こそ頭を下げられる人間というのが、結局はそれまでの尊敬も失わないし、いつまでも人間関係は続くものだと思う。人のせいにして逃げたりせず、正面から困難を迎え撃つ気概こそが、周りの評価を集めるものだと思う。困難に陥ったからといってなりふり構わず、あることない事言いがかりをつけて都合よくやろうとする人を相手にしなければならなくなると、こちらも不快な気持ちになる。ものは考えようであるが、そういう人を相手にするのを避けられないのであれば、その醜い姿を反面教師として自分の肥やしするしかない。

そう言い聞かせて、しばらく目の前の事態に対応しよう思うのである・・・



【本日の読書】
 NASAより宇宙に近い町工場 僕らのロケットが飛んだ - 植松努  潮騒 (新潮文庫) - 三島 由紀夫