2010年10月30日土曜日

尖閣諸島問題を考えた

「この問題はわれわれと日本の間で論争があり、釣魚島を日本は『尖閣諸島』と呼び、名前からして異なる。この問題はしばらく置いてよいと思う。次の世代はわれわれより賢明で、実際的な解決法を見つけてくれるかもしれない」            
                    鄧小平
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尖閣諸島問題がまだ尾を引いている。
今日は中国が首脳会談を拒否してきたと報じられているし、どうも中国の方が主導権を取っているようである。これに対する世論の大まかな論調としては、「中国はけしからん、政府の対応は弱腰だ」というもののようである。
この問題は実はもう40年以上にわたって紛糾している問題である。

冒頭の言葉は鄧小平がかつて来日した時に、日本人記者に質問されて答えた言葉である。
実はこの時質問した記者は、我が高校の大先輩である。
現在母校の財団で行っている社会人向けの勉強会の席上で、その大先輩がその時の話をいつも披露してくれる。

何でも直前の打ち合わせでは、外務省の役人から尖閣諸島の問題には触れないでくれと釘を刺されていたらしいのだが、そこは大先輩も記者魂を発揮して堂々と質問したという。今の記者ならたぶん言われた通り黙っていて質問などしないだろう。冒頭の回答を引き出したあと、先の外務省の役人が「よくぞ質問してくれた」と言ってお礼を言ってきたらしい。毎年この話を伺えるのは、世話役として参加している役得である。

さて、発言から30年。
鄧小平の期待した“賢明な世代”に、どうやら我々はまだあたりそうもない。
解決どころかまだまだ紛糾している。
「弱腰だ」と批判はするものの、「ではどうすべきか」についての意見はあまり目にしない。
批判をする人たちはどんな解決策を思い描いているのだろうか。

解決方法と言っても、よく考えれば3つしかない。
(穏便に済ませてさらに先送りするのは解決とは考えないとする)
問題は「島自体」というよりも、島を領有する事によって得られる海洋資源の権利だろう。
中国も日本もこの海洋資源がほしいようだ。
であればその3つとは、その資源を「全部取る」か「全部取られる」か「分け合う」かしかない。

中国と将来的にどう付き合うのか。
もしも友好的にやっていこうとするなら、「全部取る」のは難しいだろう。
中国にだってメンツはある。
40年にわたる主張を取り下げるとは思えないし、何より国家としての力=経済力+軍事力は中国の方が上だ。まず無理だろう。強いアニキ(アメリカ)に頼もうとするなら、友好は諦めないといけない。

尖閣諸島は歴史的にみても日本の領土だろう。
チャチャを入れてきているのは中国だ。
であれば、「全部取られる」のも看過できない。
となればあとは「分け合う」しかない。
領有権は日本の領土として認めさせた上で、海洋資源については「分け合いましょう」とするしかないだろう。共同で開発して、管理して、果実を分け合うのだ。

もしも自分の子供がおもちゃで遊んでいるところへ隣の家の子供がやってきて、そのおもちゃで遊ぼうとした。自分の子供は取られまいとして喧嘩になった。親だったらどうするか?
もちろん、どこかの知らない子だったら、その子にダメだと諭すかもしれない。
でも隣の家の、よく知っている子ならどうするだろう。

子供の世界は、現実世界の縮図でもある。同じように考えるしかない。
もっともそこは大人ゆえ、駆け引きはあってもいいだろう。
開発にあたっては、当然日本の技術力は力を発揮する。
対等にシェアする見返りとして、今問題になっているレアアースを優先的に分けてもらえるようにしたっていいし、北朝鮮問題での協力を取りつけたっていい。
アメリカからは得られないメリットを狙えばいい。

100年前であれば、たぶん確実にこれは戦争になっていただろう。
そして核を持たない日本は、中国と喧嘩しても勝てないし、頼みのアニキだって相手が中国だったら日米同盟だってどうなるか信頼はできない。
自国に核攻撃される危険を冒して、我々を守ってくれるだろうか?
ニクソン・ショックの歴史だってある。

幸いにして、100年後の今日ではまず戦争にまではならないだろう。
それは人類が賢くなった証であるが、さらにもう一歩だ。
相手が悪ければぶん殴っても許されるというものではないし、相手の方が強いわけだからそもそもそれも難しい。「全部取ろう」としたら、このままさらに睨みあい続けるしかない。

感情論よりもメンツよりも、もっと戦略的に賢い対応方法を主張する政治家に現れてほしいと思うのだが、まだまだ難しいみたいだ。
生きているうちに、「賢明なる世代」と呼ばれる世代に残れるだろうか。
選択権をもっているのは我々の世代だと思うのである・・・


【昨日の読書】
「サービスの達人たち」野地秩嘉
「存在の美しい哀しみ」小池真理子

    

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