2010年10月13日水曜日

コミュニケーション~1~

 人間は判断力の欠如によって結婚し、
   忍耐力の欠如によって離婚し、
     記憶力の欠如によって再婚する。
                    アルマン・サラクルー
********************************************************************************

子供たちに教えたい事の一つに「コミュニケーション」がある。
人とのコミュニケーションぐらい痛いほど我が身に染みて重要性を実感しているものはない。
親の失敗を良き教訓として、子の人生に活かしてもらいたいと思うのは誰しもそうだろう。
私にとって「コミュニケーション」は間違いなくその一つだ。

何気ない一言で険悪な雰囲気になり、誤解され、腹が立つ。
表面に出てきていない事もたぶん結構あるだろう。
こちらに悪意もないのに悪く取られたりして唖然とする事もしばしばある。
特に我が家の夫婦間では頻繁に起こる。
一生懸命分かりやすく説明したつもりが、「理屈で言いくるめられた」とはよく親に言われる事だ。
どうしてそんな事が起こるのだろう。

言葉を尽くしたところで、「理屈じゃ負ける」と言われる始末。
「ああ言えばこう言う」程度にしかとってもらえない。
社会人になりたての頃は、何が大変だったかといえばそのすべてが人間関係だった。
仕事で辛い事なんてほとんど皆無だった。
ここ最近、自分を理解してもらうという事には限界があるという事に気がつき始めた。(遅いか)
それよりは相手を理解する努力の方がまだいいだろうと思うようになった。

例えばAがBを殺したという事件が起こる。
Aは当然有罪にすべきだ。
ところがその状況を調べたところ、実はAは会社帰りに家の近所まで来たところで突然刃物を持ったBに襲われ、咄嗟に避け揉み合っているうちにBの持っていた刃物で刺してしまった、と判明したとする。すると一転して、Aは正当防衛で無罪にすべきだと誰でも思うだろう。

今度はまたなぜBはそんな事をしたのか調べてみた。
すると実はBはAに騙され、全財産をだまし取られ、それが元で一家は離散、絶望のあまり犯行に及んだ、とわかった。Aは罪には問われていないものの、同様の余罪がかなり疑われている、という事情が判明したらどうだろう。有罪無罪は別として、感情的にはAに対する同情心はなくなってくる。
つまり表面だけ見ていてもだめだという例だ。
法学部の学生の頃、よくそんな話をし、議論した。

相手も相手の人生の中では主人公。
常に自分は正しいと考えている。
かちんと来る事であっても深呼吸して、なぜそんな言動をするのかと一歩引いてみる事でこちらの怒りの炎も収まり、穏やかに対応できる事がある。
我が家の夫婦間は、そんなトレーニングの絶好の機会を常時提供してくれる。

もっともそんな対応ができるのも、家族や友人、職場などの限られた範囲内だ。
自分から心理的な距離が遠くなる間柄の人ほどそんな対応はしきれなくなる。
街中に出れば腹立たしい人間はたくさんいるし、とてもではないが「相手も自分の人生の主人公」なんて思う気持ちは起きて来ない。
「世の中自分中心で回っているわけではない」と教えてやりたくなる。

ようやく自分でも少しずつ理解してきた事を子供に教えるのはもっと難しい。
「誰とでも仲良くしなさい」と世間の親は簡単に言うが、そういう親自身そんな事は不可能なはず。
それなのに子供にやれと言っても無理がある。
「喧嘩してはいけない」と言っても、親だってするのだから子供にできるわけがない。
だから私などは子供たちには、「仲の良い子とはもっと仲良くしなさい」「喧嘩はしてもいいけど、そのあと自分から謝りなさい」と言うのがせいぜいだと思っている。
中学生・高校生くらいになったら、もう少しましな事を言いたい。

この「相手を理解する」というコミュニケーション・スキルは、およそ世の中で生きていく上では、実は一番重要なスキルであるのかもしれない。
どうやって身につけるかは、親でも難しく思っている事だから教えるのも難しい。
だからどうしたら良いと言いにくいものがあるが、「重要だ」という事だけはしっかりと子供たちに伝えたいと思う。

さしあたっての問題は、我が家の冷戦だ。
どうやったら終わるのか。
理解はできても相手の心は動かせない。
こればっかりはパソコンを叩いても答えは出てこない。
実に悩ましい問題だと思うのである・・・


【本日の読書】
「経済予測脳で人生が変わる!」中原圭介
「アヴェンジャー(上)」フレデリック・フォーサイス

    
     

0 件のコメント:

コメントを投稿