世の中には「変えていいもの(変えるべきもの)」と「変えてはいけないもの(変えるべきではないもの)」とがある。孔子は倹約のため麻の冠を絹糸の冠に変えるのは構わないが、君子を拝する方法は変えないと主張している。自分で使うものはその時々の都合に合わせて変えるのは差し支えないが、君子を拝するという相手に対する礼儀の部分は変えたくないと言っている。自分に関するものは変えても、相手に対する礼儀の部分は変えたくないという基準があるのだろう。
「最も強いものが生き残るのでなく、最も賢いものが生き残るのでもない。唯一生き残るのは変化できるものである」というのは、ダーウィンが言ったとされる言葉であるが、私も常に変化し続けなければいけないと思う1人である。考え方も柔軟にしたいと考えている。自分の意見に固執するのではなく、相手の意見にも耳を傾けるべきところはないかと考え、もしもそういうところがあるのであれば自分の考えを変えるのに躊躇しない。そういうスタンスでいたいと常に思っている。
それは何も良い子ちゃんぶるのではなく、もしも間違った意見に固執していて、後でその間違いが明らかになった時は何よりも「カッコ悪い」からである。過去にそういうカッコ悪い上司を見てきているから、自分はその二の轍を踏まないようにしたいのである。「そうか、それもいいね!」と言って意見を変えてしまえば良いのである。上司は常に正しいなんて思う必要はなく、「上司は常に正しい意見を採用する」というスタンスでいた方が本当の意味での保身になる。私にとっては自分の意見は変えても良いものなのである。
基本的に何事に対しても柔軟に、と考える。だから割と変える事には抵抗はないように思う。食べ物の好みのようなものは変えたくても変えられないところがある。寿司が好きなのは変えられない。ただ、食わず嫌いだけはしないようにしている。人に勧められたものは、たとえ自分の好みでないと思ったとしても、まず食べてみる。それでやっぱり好きになれなければそれで仕方がない。食べ物に限らず、好みの問題はなかなか柔軟にとはいかないところがある。どんなにサッカーが面白いと言われても、ラグビーが一番という気持ちはおそらく一生変わらない。
柔軟にとは言っても、神様への畏怖は大事にしたい。初詣には欠かさずに行きたいし、神社の類に対しては、それがどこであろうと崇敬の念は持っておきたい。両親や兄妹や親戚や友人は大事にしたい。ただ、これは相手との相性があるから、合わない人とは無理に合わせるよりも距離を置きたい。私も義理の叔父に合わない人がいるが、無理に合わせる事もなく、距離を置くようにしている。そのあたりの考え方は、変えたくないところになるかもしれない。
仕事でも、社内には意見の合わない人はいるが、いたずらに批判するのではなく、きちんとコミュニケーションを取って、相手の意見を聞きながらも自分の意見は遠慮なく言うというスタンスも変えずにおきたいと思う。批判もきちんと伝えているので、もしかしたら内心反発されているかもしれない。ただ、それでも自分が正しいと思う意見はきちんと伝えたいと思う。それに対して相手がどう反応しようと、それはその相手の考え方なので、私はそれをきちんと受け入れようと思う。
総じて好みのように自然発生的なものは変え難いし、無理に変えるのもストレスになる。それは自然のあるがままに任せ、ただ自分で変えられる考え方の部分には柔軟性を持たせておきたいと思う。自分よりも大事にすべきものは大事に敬い、それ以外の自分に関するものは柔軟に変える。歳を取ると体も硬くなり、思考も固くなる。思考が固くなれば頑固ジジイに一直線である。それもまたカッコ悪いように思うし、思考も軟体生物のように常に柔軟に保っていけるようにしたいと思うのである・・・
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Anil sharmaによるPixabayからの画像 |




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