2025年5月15日木曜日

プレゼントの意味するもの

 先週末、四万温泉に母を連れて行ってきたが、時節柄それを母の日のプレゼントとした。プレゼントは昔から苦手であり、苦労している分野である。ましてや我が母は私を上回る天邪鬼なところがあり、「何か欲しいものがあるか?」と聞くと「ない」と言い、それではと勝手に選ぶと文句を言うという難しいところがある。かつて結婚当初、お中元、お歳暮と両親に送ったが、ビールを送れば「お父さんは最近あまり飲まない」と言われ、コーヒーを送ると「このところ胃の調子が悪くて飲めない」と言われるという事が続いた。新婚の妻からは「何をやっているの」と責められたものである。

 それに対して父は希望も文句も言わない。いつからか父の日と誕生日には梅酒かワインを送るようにしているが、単純に感謝してくれる。送るものが決まっていると実に楽である。妻と付き合い始めて面食らった事の一つは、「プレゼントして欲しいものを事前に聞く」という事である。「気に入らないものをもらうよりも欲しいものをもらった方が嬉しい」という合理的な考え方で、いわゆるサプライズ的な要素はない。それが良いか悪いかは個人の好みであるが、プレゼントで悩んだ結果、失敗することが多い私としてはいいのかもしれないと思ってみる。それでも失敗したとしても、サプライズ的な方がいいような気がするのは素直な気持ちである。

 プレゼントは、相手の事を思いながら何が喜ばれるだろうと想像しながら選ぶものであるというイメージが私にはある。私の場合、失敗する事が多いから偉そうな事は言えないが、相手のために悩んで選ぶ時間が相手に対する気持ちそのもので、そういうものであるからこそ、私は自分がもらう立場の場合、それがどんなものであろうと感謝して受け取る事にしている。プレゼントそのものよりも、プレゼントしてくれた相手の気持ちが嬉しいと思う。それゆえに、「相手に事前に欲しいものを聞いて、それをプレゼントする」という事にはどうしても抵抗を感じるのである。

 我が母はそんな事と対極にある。あろう事かプレゼントにケチをつけるのである。相手を嫌な気持ちにさせるというのはもっとも最悪な対応である。しかし、母の気持ちの根底には喜びがあるのではないかと思う。一種の照れ隠しである。ただ、たとえ照れ隠しであろうと、やはりケチをつけるというのは最悪であるとしか言いようがない。勝手に選んでプレゼントすれば文句を言われ、「何か欲しいものがある?」と聞くと「いらない」と言う。自分の母親でなければ絶縁するところであるが、そういうわけにもいかない。サプライズであげたものが母の心にヒットしないと難しい。そう言えば実家には私が高校生の時にプレゼントしたアジサイがいまだに季節になると咲いている。それは数少ない成功事例である。

 一方、父には年に2回、プレゼントを贈っているが、母と違ってすなおにお礼を言ってくれる。ただ、その場限りのお礼で、嬉しいのかどうなのかイマイチよくわからないところがある。梅酒もワインも味が気になるところで、次に行った時に「どうだった?」と聞いても「おいしかった」というだけである。それはそれで何となく物足りないところがある。本当に気に入ったのか、それともそうではないが、とりあえずこちらに合わせてくれているのか。そう考えてみると、贈る方としては、実は「喜んでもらいたい」のだと思う。相手の事を考えて贈るのは、相手に喜んでもらいたいのだと。

 当たり前と言えば当たり前。人はなぜプレゼントをするのかというと、それは相手を喜ばせたいからと言える。それが純粋なものであろうと、そうでないもの(例えば下心付きの女性へのプレゼントなど)であろうと、そこは変わらない。ただ、それは贈る者の勝手であり、相手に何かを要求するものではない。たとえ相手が喜ばなくても、それで不満を言うのは正しくない。相手の反応が気に入らないのであれば、次回からやめればいいだけである。そして受け取る方も、相手の勝手なプレゼントにどう反応しようが自由である。ただ、大事な事は、相手の気持ちにどう反応するか、であろう。

 「プレゼントには感想という情報のお返しが一番相手に喜ばれる」という言葉がある。それはそうだと思い、以来私も心掛けている。プレゼント以外にも本や映画などを紹介された時にも当てはまるので、必ず心掛けている。やはり、相手を喜ばせたいという気持ちが根底にある以上、その気持ちに応えるにはやはり相手を喜ばせる事を考えないといけない。それにはたとえもらったものが気に入らなくても、気に入ったように振る舞うのがいいと思う。それは相手を偽る事ではなく、自分を喜ばせようとしてくれた相手の気持ちに応えるものである。そこには感想も添えたいところである。

 プレゼントというと、どうしても「モノ」に目が行く。しかし、本当は「相手の気持ち」なのであり、そこに目を向けたい。わざわざ自分に何かを贈ってくれるのであり、もらった「モノ」がどうこうではなく、贈ってくれた「相手の気持ち」に対して応えたいと思う。天邪鬼な我が母にモノを贈って喜ばせるのは難事であるが、温泉に連れて行くのは確実に喜ばれる。喜んでいる顔を見るのはこちらも嬉しいし、そういう意味ではプレゼントは贈る相手だけでなく、自分自身をも喜ばせるものなのかもしれない。

 プレゼントを贈る相手がいるというのも考えてみればありがたいもの。プレゼントはどんな角度から見ても嬉しいものであると思うのである・・・


Bob DmytによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 ガダルカナル[新書版] - 辻政信  風に立つ - 柚月裕子  存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久




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