その昔、3㎏も痩せるほど恋煩いをした経験がある。誰にでもある経験かもしれないが、相手の女性の事を思うと胸が焦がれ、食事も仕事も手につかない状況であった。そんな中にあって、私の中のもう一人の冷静な自分が問うてきた。「果たしてお前は彼女のどこがそんなにいいのだ」と。顔か体か性格か。またはそのすべてか。顔は確かに美人であった。体型は標準、性格は穏やかで優しい。そしてさらに問われた。「顔が変わっても思いは変わらないか?」。「体型は?」「性格は?」。いろいろと考えてみて、やっぱり「トータルだろう」とその時は思ったのである。
最近、二つの恋愛映画を観た。『君への誓い』と『ビューティー・インサイド』である。『君への誓い』は実話を基にした映画で、事故で夫の記憶を失ってしまった新婚女性の話であり、『ビューティー・インサイド』は毎朝起きるたびに外見が別人に代わってしまう男のファンタジーロマンスである。いつもそうだが、映画を観るたびに自分と重ね合わせて観るのが私の常である。この時もこの2本の映画を観ながら自分に置き換えていた。果たして自分は相手の記憶を失っても、もう一度同じように相手に恋をするだろうか、相手の外見が変わっても同じように好きになるだろうかと。
恋煩いをするほど恋した女性については、たとえ記憶を失っても何度でも好きになっただろう。それは外見も性格も私の好みに適していたからであり、どういうタイミングで出会っても同じように恋に落ちていただろうと思う。映画では現在の夫の記憶がないのに結婚前に付き合っていた男の記憶は残っていた。しかも別れた記憶はない。こういうパターンはなかなか危ない。どちらも自分が惹かれる要素を持っているわけであり、映画のストーリーもその点で波乱がある。まぁ、私など記憶があってもかつての思いは残っており、きっかけがあれば簡単に再燃すると思うが・・・
それよりも「外見が変わっても同じように相手を愛せるか」というのはどうだろうかと思う。私も先の彼女が映画みたいにおじさんの姿で現れたらどうするだろう。最初は戸惑うだろうが、中身が彼女だと確信できたなら外見に関わらず同じように接するだろうと思う。彼女の穏やかな性格がそのままなのであれば話をしていても楽しいだろう。さすがに手をつないで歩くのは世間体もあって憚られるが、ずっと一緒にいて話をしていたいと思うに違いない。そう考えれば、外見だけで惹かれていたわけではないと改めて思う。
しかし、では中身だけが大事で外見はどうでもいいのかと言うと、どうだろうか。映画のようにおじさんとなれば別であるが、女性であればたぶん気にならないと思う。ただ、最初は外見から入ったのは事実であり、初めから違う外見であれば惹かれるまで接することはなかったかもしれない。たとえば同じ職場で毎日顔を合わせ、意識せずとも話をしていくうちにだんだん中身に惹かれていくというのならあると思うが、そうでなければ中身に気付くところまでは行かないかもしれない。そういう意味では、外見も大事である。
逆に外見に惹かれても、話していくうちにこれは違うというパターンもかなりある。百田尚樹の小説『モンスター』は、絶世の不美人である主人公が整形手術によって超美人に変わる話であった。中身は同じなのに周囲の対応が180度変わる。小説とは言え、実際も「美人は得」なのは事実だろう。ただ、恋愛対象となると、「それだけでは」と私は思う。やはり「愛とは、お互いに見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである」(サン=テグジュペリ)であり、同じ方向を見つめる中身も重要であろうと思う。
若い頃と現在とでは私自身の考え方も変化してきているところがある。人生経験を積んできて、結婚して「現実」に気付き、そういう経験を経て今の考え方に至っている。人間は年を取る。美しい女性も老いれば美しさを失う。しかし、人間の中身は変わらない。逆に言えば中身の美しさが外に現れてくると言えるのかもしれない。彼女もそういう意味で今も美しいと思う。映画のようにハッピーエンドにはならなかったが、自分も益々内面に磨きをかけたいと思うのである・・・
Công Đức NguyễnによるPixabayからの画像 |
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