2024年9月23日月曜日

論語雑感 泰伯第八 (その8)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、興於詩、立於禮、成於樂。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、詩(し)に興(おこ)り、礼(れい)に立(た)ち、楽(がく)に成(な)る。
【訳】
先師がいわれた。「詩によって情意を刺戟し、礼によって行動に基準を与え、楽によって生活を完成する。これが修徳の道程だ」
************************************************************************************

 何となく本を読むのが好きになり、大学の学部選択の候補として文学部を考えるようになったのは高校生の時。最終的に将来的なことも考えて法学部を選択したが、今もう一度大学に入り直すとすれば、今度こそ文学部を選ぶと思う。それはさておき、そんな高校時代に文学から入った流れとして「詩」にも興味を持った。ヴェルレーヌとかリストとかの詩集を借りてきて読んだがピンとこなく、翻訳の問題かと日本の詩人に挑戦しかけたが頓挫してしまった。それでも今なら中原中也あたりからならいけそうな気もするが、もう少し機が熟すのを待とうと思う。

 詩にはあまり心を動かされなかったが、その代わりに俳句とかは好きな部類に入った。松尾芭蕉の『奥の細道』はいくつか心に残るものがあったし(「行春や鳥啼魚の目は泪」なんてすごいと思う)、与謝野晶子も心打ち震わされるもの(「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」)がある。親鸞聖人(「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」)は人生訓としても良いと思うし、俳句には詩よりも遥かにとっつきやすさがある。私の場合、詩よりも俳句の方に情意を刺激されるところがあると言える。

 音楽はもっぱら聴く方が専門で、小学校で奏でる方は早々に諦めた。「才能がない」という言い方は好きではないが、奏でる方に興味を見出せなかったのは確かである。興味は才能に深く結びつくものだと思っているので、そういう意味では才能がなかったのだろう。その代わりクラシックに抵抗感がなくなったというのはあったと思う。父親が映画音楽が好きで、家にもレコードがあった。そういう環境だと歌謡曲よりも歌詞のない音楽に自然と興味が行き、小学校で聴いたクラシックに自然と惹かれたというわけである。

 今は音楽に関しては、特定のアーティストの曲を聴くというよりも、ランダムに聴いている。ポップスもロックもクラシックも映画音楽も邦楽、洋楽取り混ぜて聴いている。聴かないのはジャズくらいかもしれない。それとラップはどうしても好きになれない。聴くのは車の中か自宅のPCか家の雑草取りの時にスマホで聴くくらいだが、いずれもBGMにしているのが大半である。「何かをしながら」というのは、時間に追われて余裕のなかった頃の名残なのかもしれない。

 詩(私の場合は俳句)や音楽が生活に潤いを与えるというのは確かだろう。人間は感情の動物であり、二つともその感情を揺さぶるものである。孔子の時代には広まっていなかったのかもしれないが、絵画もこれに加えられると思う。それに演劇関係も同様である。一般に芸術は一見、なくても困らなそうであるが(それがなくても生きてはいける)、しかしそれがあるからこそ生活の質が高まると言える。そういう意味では、芸術は人類進歩の証の最たるものかもしれない。

 これに行動基準としての礼が加われば生活が完成するというのも間違いはないだろう。人間はただ食べ物を漁って生きていくのではなく、人間生活の中で規律を守り、芸術によって豊かな精神生活を送る。それが動物と人間の違いであろう。であれば、それをより高めていく必要があると思う。映画やドラマや小説なども含めた芸術で心を豊かにし、日々正しく行動すればより豊かに暮らせることになる。孔子の言うところはもっともであり、それは現代でも変わらない。

 孔子の言葉は人間が動物と根本的に異なることを言い当てている言葉ということになる。あらためてそんな意識をもって日々の生活を楽しみたいと思うのである・・・


Gabriele M. ReinhardtによるPixabayからの画像

【本日の読書】
イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法 - アン・ウーキョン, 花塚 恵  おいち不思議がたり (PHP文芸文庫) - あさの あつこ




0 件のコメント:

コメントを投稿