先日、『イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法』という本を読んだ。著者はイェール大学の心理学の教授。もともと心理学には興味を持っており、この手の本は迷わず読むのであるが、人間の持っている様々なバイアスに焦点を当て、よくある人間の行動を理論的に解説してくれるなかなか面白い本であった。自分のことを平均より上だと思ってしまう「流暢性効果」とか、自分が正しいと思う証拠ばかり集めてしまう「確証バイアス」など、「なるほど」と思ってしまうものばかりであった。
その中でも私の目を引いたのが、「自己中心性バイアス」というもの。これは自分の持っている情報で考えてしまうというもので、人は全然相手の視点から考えないというものである。読んで真っ先に頭に浮かんだのは母親である。毎週末に実家に通って年老いた母の衰えた家事を手伝っているのだが、同時によく話も聞くようにしている。最近、繰り返し話すのは(年寄りの常で同じ話を何度もするのである)義妹の「許せない態度」である。弟の誘いで弟の家に行ったそうであるが、看護師をしている義妹は夜勤明けとかで寝ていて顔を出さなかったというのである。
それは母の常識ではあり得ないことで、「義母がわざわざ来ているのに寝ているというのは何事か」と言うのである。それだけを聞くとその通りだと思うが、それこそまさに一面的な見方だと私は思うのである。夜勤明けで帰宅したら寝たいと思うのは普通の事。もしかしたらその次の夜も夜勤のシフトが入っていたのかもしれない。そうなれば睡眠を確保するというのは当然であり、むしろそういう時には誰にも来てほしくないと思うだろう。弟が夫婦でどんな会話をしたのかは知らない。弟は自分の都合で考えるから、「それなら寝ていていい」と言って強引に母を連れて行ったのかもしれない。
義妹もそれならと寝ていたのかもしれない。そんな状況を想像すれば、私なら寝ていて顔を出さなくても気にしないし、むしろそんな時に訪問してしまった事を後でLINEでもして謝るかもしれない。しかし、母は自分の常識で義妹の態度を批判する。おそらく近所でも吹聴しているかもしれない。我が母であるが、私の妻とは嫁姑の冷戦を通り越してすでに「国交断絶状態」であり、義妹との関係もいいとは言えないだろう。その原因は明らかであり、もしも私だったら2人の息子の嫁と仲の良い嫁姑になっていただろう。それはこの本で言う「相手の視点から考える」という一言に尽きると思う。
以前からもそういう事はしばしばあった。私は子供の頃、母親から「相手の気持ちになって考えなさい」と叱られた事を覚えている。「そんなのわかるわけがない」と子供の私は反論していたが、わからなくても想像はできる。そして私を叱った母は、そんな事はすっかり忘れて相手の気持ちなどまったく斟酌しない。嫁姑の争いは女の不寛容のなせる技であると思うが、その不寛容は「自己中心性バイアス」の賜物なのだろろうと思う。「相手には相手の都合がある、考えがある」と想像する事で、自分の感情を害することなく寛容になれる。もう年老いた母には無理であるが、自分はそういう寛容の精神を身につけたいと思う。
考えてみれば、みんながみんな「自己中心性バイアス」から抜け出し、寛容の精神を身につけたなら、嫁姑の争いを始めとしてこの世からかなりの争いは無くなるのではないかと思う。しかしながら、妻を見ているとそう簡単にはいかないのだろうなと思わざるを得ない。わかってはいても、手も足も出ない。考えれば考えるほどそんなもどかしさを改めて感じざるを得ない。つくづく、難しいものだと思うのである・・・
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